聖徳太子研究の最前線

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法隆寺釈迦三尊像光背銘の書者は止利仏師だという説

2010年06月01日 | 論文・研究書紹介
 法隆寺金堂の釈迦三尊像については、釈迦像、脇侍、光背、銘文のすべてについて論争があるという、すさまじい状況が続いています。逆に言えば、法隆寺の文物は美術史学にとって、また日本史学や仏教学にとってどれほど重要か、ということです。

 論争疲れなのか、最近は専論が減っていましたが、久しぶりに発表されたのが、

魚住和晃「法隆寺釈迦三尊像光背銘にかかる一考察--その内容の歴史的妥当性を中心として--」
(『書法漢学學研究』第6号、2010年1月)

です。筆跡鑑定で名高い神戸大の魚住和晃氏は、同じ金堂の薬師如来像銘については和風な表現から見て大化以後とする一方で、釈迦三尊像銘については、

 (1)行間より字間の方が広く空いており、横方向の文字の連なりを感じさせるのは、隷書の書法、ないし、隷書から楷書に移る過渡期の書法に通ずる。
(2)起筆が尖りりがちで左につきだしており、隋唐期に完成された三過折筆の書法と異なる。
(3)転折部は角ばらずに丸く書かれ、「李柏文書」や「法隆寺釈迦如来脇侍像造像銘」や「野中寺弥勒菩薩半跏像造像銘」に通じる。
 
などの理由により、薬師如来像銘の書法より古いとし、しかも比類のない逸品であることは、特別な作であることを示すものだと説いています。

 次に、その素晴らしい書を書いた人物については、銘文末尾に「使司馬鞍首止利仏師造(司馬鞍首止利をして造らしむ)」と記される仏像作製者、司馬鞍作部止利その人だと推定します。『興福寺官務牒疏』では祖父の司馬達等は「百済人」とされていることが示すように、百済から渡来したとしても、銘文では単に「鞍首」とせず、「司馬」という姓が強調され、「仏師の長」であることが強調されているのは、中国南朝の名族、司馬氏の子孫なればこそであり、だから南朝の書法を伝えているのだ、この銘文は、止利自身による製作記という性格を持っている、とするのです。

 「仏師」の語については、田中嗣人『日本古代仏師の研究』(同、1983年)を初めとして、成立を遅く見る研究者も多く、様々な議論がなされていますので、その点の説明が必要ですね。ただ、田中氏も止利は「単なる工人身分ではなく、技術系官人の身分にあった」ことを強調していますので(田中「法隆寺と止利仏師」、『華頂博物館学研究』 1号、 1994年12月)、止利は当時にあっては教養人であったと見てよいでしょうが、祖父である司馬達等は継体天皇十六年(五二二)に日本に渡って来たという伝承が正しければ、三世となる止利が中国南朝末期の最新の書法にどれほど通じていたかが気になります。

 魚住氏の論文で重要なことは、この銘文は「造像の発願者が明瞭でなく、詔があったわけでもない」うえ、朝鮮でも日本でも古代には書丹者の名を記す習慣がなかったにもかかわらず、この銘文の場合は「使司馬鞍首止利仏師」と固有名詞が明記されていることを重視した点でしょう。つまり、「仏師」の語が見えるから後代の作だとか、間人皇后や太子の薨日は何々の暦だと何日になる、といった議論が盛んであった中で、銘文末尾において「司馬鞍首止利仏師」という自負を感じさせる長々しい呼び方がなされているのはなぜか、という点に注意を向けた点が評価されます。これは確かに考えなければならない問題です。

 なお、同論文では、『日本書紀』欽明天皇六年秋九月に「是月、百済造丈六仏像、製願文曰、蓋聞丈六仏、功徳甚大。今敬造、以此功徳、願天皇獲勝善之徳、大皇所用彌移居国、倶蒙福祐。……」とある部分について、「百済の聖明王は日本に仏教を伝教するために、丈六の大仏を造り遣わした」としていますが、そうは読めません。この願文が本物か、『日本書紀』編者のまったくの作文か、何らかの資料に基づいて潤色したものかはともかく、右の文章が述べているのは、百済王が日本の「天皇」とその支配する「みやけ」の繁栄を祈願して丈六仏を造った、というだけのことです。送ってきたとは書いていません。造像したことを日本に知らせて来る際、その図やミニチュアなどは送ってくる可能性はあり、そうした場合は、南朝の流行を反映した最新の書体で書いてくる可能性はありますが。ただ、そうだとしたら、そのような書体は日本の他の銘文や木簡などに影響を与えているでしょうが、釈迦三尊像銘文は隔絶している印象を受けます。
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