聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

瓦から見た法隆寺や四天王寺の創建年代

2010年06月06日 | 論文・研究書紹介
 聖徳太子関連となるとどの学問分野でも論争があり、定説となっているものは少ないのですが、そうした中で、主張の違いがあまり大きくない分野の一つが瓦の研究でしょうか。ただ、私はこの方面は不案内なため、ここでは最近の論文(研究ノート)の一つを紹介するにとどめます。

井内潔「屋瓦からみた草創期寺院の創建年代小考--豊浦寺、法隆寺若草伽藍、四天王寺の場合--」
(『古代文化』第61巻1号、2009年6月)

です。

 我が国最初の本格的な寺である飛鳥寺では、創建時の瓦に「花組」「星組」と称される2つのタイプがあり、それらが変化して畿内の寺に広まっていったことは有名ですが、井内氏は、崇峻天皇元年(588)に百済から4名が派遣されて来たと『日本書紀』に記される瓦工たちには「2系統の瓦工が含まれていたに違いない」とし、「花組」の軒丸瓦と百済の故地で発見された瓦との比較により、この瓦工たちが携えてきたのは百済でも最新の意匠であったと推測します。

 その飛鳥寺は蘇我氏が最初に建立した僧寺であり、豊浦寺は蘇我氏が続いて建立した尼寺であるため、当然のこととはいえ、瓦は連続しています。飛鳥寺が既にかなり出来あがっていた600年頃に追加して建てられた東西金堂のための瓦を作るのに用いられたものと同じ「星組」系の瓦当范による瓦が、605年頃に豊浦寺金堂で用いられ、それを改范して豊浦寺で使われた瓦当范が、後に工人とともに移されたようで、610年前後に法隆寺若草伽藍(斑鳩寺)金堂の瓦用に使われます。そして、それを新たな形に改め、610年代半ばに若草伽藍の塔の瓦を作るのに用いられた瓦当范は、完了後に四天王寺に移されたようで、620年頃に四天王寺中の最古の瓦を作るのにそのまま用いられており、しかも范の摩滅が目立つ状態にまでなっていた由。

 井上論文は、上に記した年代については、「一つの建物の建立期間をおよそ3~4年とみる先行研究に依拠しながら」瓦の変遷によって寺の創建年代を推測したものであり、確実ではないと断っています。年代については、今後の研究の進展によって多少動くことはあるでしょうが、瓦の影響関係は明らかであり、厩戸皇子の斑鳩寺が蘇我氏の支援によって出来たことは確実です。

 つまり、瓦の変遷から見る限り、「聖徳太子は蘇我氏の勢力から逃れるために斑鳩に移った」といった説は成り立たず、飛鳥寺・豊浦寺・法隆寺若草伽藍(斑鳩寺)・四天王寺という四寺は密接な関係にあったことが、改めて確認されたことになります。