聖徳太子研究の最前線

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大山誠一説における「藤原不比等・長屋王・道慈」観の問題点

2010年06月24日 | 大山誠一「聖徳太子虚構説」への批判

 大山説では、律令体制の確立に努めた藤原不比等が儒教、高貴な生まれで神秘的な思想に傾倒していた長屋王が道教、長い留学を終えて唐から帰ったばかりの三論宗の学僧、道慈が仏教の面を担当し、この三人で理想的な聖天子としての聖徳太子像を創造したとしています。

 しかし、漢字文化圏諸国において漢字を学ぶ人は、誰でも儒教を学んでいました。また、「道教」と言ってしまうと問題ですが、老荘思想や神仙思想であれば、知識人の多くは教養としてある程度の知識を身につけていました。仏教の場合は日本はそれ以上であって、国家の方針として仏教が受容された後は、中国のように儒教や道教が自立して仏教と対立することがなかったこともあって、非常に熱心に学ばれたようです。天皇の「奉為[おんため]」と自らの父母などの追善を願ってなされる造寺造像や法会は、国家に対する忠誠を示す証拠となっていたことも見逃せません。

 ところが、不比等=儒教、長屋王=道教、道慈=仏教、という役割分担の図式を説く大山氏は、そうしたことに触れません。『日本書紀』の仏教伝来の記事では、『金光明最勝王経』の表現を利用して、仏教の素晴らしい法は儒教の聖人である「周公・孔子」すら知らないと明言されているため、これは最新訳である『最勝王経』をもたらした道慈が書いたのであって、僧侶である道慈は「大変な儒家嫌い」であったとするのです。

 しかし、そうした人物が、「憲法十七条」のように仏教・儒教・法家・老荘などの思想が混在している文献、それも儒教色がかなり濃厚な文献を書くでしょうか。唐代でも、僧侶の上層部は道教とは対立しつつも、儒教に対してはかなり融和的でした。いわば、儒教を仏教の下位に置いて世俗の教えにとどまると位置づけつつも、現実における儒教の役割を認めていたのです。もし道慈がひどい儒教嫌いであって「憲法十七条」を書いたとしたら(私は文体から見てありえないと考えていますが)、「憲法十七条」はもう少し違った風になったのではないでしょうか。

 道慈自身は儒教嫌いであったものの、不比等の意向で儒教的な要素を盛り込まされたのだという反論がなされるかもしれませんが、だったら、「憲法十七条」については早くから法家的な要素が指摘されていること、是非の論議など、『荘子』を思わせる箇所もあることなどは、どう説明するのでしょう。それらの部分も不比等の指示なのでしょうか。大山氏は、「憲法十七条」は儒教が基調だと述べる一方で、仏教によらなければ悪はただせないという箇所などは、儒家嫌いの道慈ならでは文章だなどとするのみであって、これまで研究の蓄積がある法家的な箇所や『荘子』風な箇所については、詳しく検討していません。

 次は、長屋王です。長屋王のサロンでは、老荘思想、神仙思想にもとづく漢詩が盛んに詠まれていたことは事実です。しかし、長屋王が仏教と無縁であったわけではありません。『日本霊異紀』では、僧侶を供養する大がかりな法会の際に、比丘にまじって飯を得ようとした沙弥の頭を長屋王が打って血を流したため、護法善神に嫌われ、讒言を受けて自殺させれるに至ったのであり、身分の高さを誇ったこうした行為が自殺に追い込まれた要因だ、とする説話も見えていますが、一方では長屋王は熱心な仏教信者であったとする資料も残されています。長屋王が書写させた多くの経典もその一つですし、鑑真の伝記である『唐大和上東征伝』によれば、日本への来訪を懇願された鑑真が、「長屋王は仏教を尊び、袈裟を千領作って唐の僧に布施した。その襟には、『山川異域 風月同天 寄諸仏子 共結来縁』と刺繍してあった」と述べているのは、有名な話です。しかし、大山氏は長屋王は道教好みであったという点を強調するだけであって、こうした話にまったく触れません。

 その「道教好み」という点も記述の仕方には問題があります。大山説の出発点となった『長屋王木簡と金石文』(1998年)では、道教的な聖徳太子像の代表例とされた『日本書紀』の片岡山飢者説話の部分を説明する際は、2度も「尸解仙する」という言い方をしています(267頁)。しかし、「尸解仙」とは、そうした神秘的な死に方を示した仙人のことなのですから、「~する」というのであれば、「尸解する」というのが普通です。「尸解する」とその人は「尸解仙」とみなされるのです。仏教で似た例を挙げると、「往生する人」が「往生人」ですが、「尸解仙する」というのは、「往生人する」と言うのと同じくらい奇妙な表現です。もし、奈良朝の浄土思想に関する画期的新説と自称する論文を私が読むとしたら、その論文が「往生人する」という表現を2度用いているのを見た段階で、私は著者の素養はその程度のものと判断して読むのをやめるでしょう。

 さらに問題なのは、大山氏が儒教指向であったとする藤原不比等です。不比等の息子たちが長屋王のサロンに参加し、老荘的、神仙的な漢詩を盛んに作っていたことはよく知られていますが、そうした傾向は不比等自身にも認められます。たとえば、最初の勅撰漢詩集である『懐風藻』では、不比等の漢詩を五首収録しています。第2首が「隠逸」に触れているのは、そうした人物ですら現在の聖朝に仕えるだろうというものですので、儒教的立場の作としても、第3首と第4首は神仙の地とされた「吉野に遊ぶ」と題する漢詩であって、両首とも鶴に乗る神仙に触れており、第5首では七夕にあたっての織女の悲しみを詠っています。儒教的な内容とは言えません。

 最も注目すべき第1首目である「元日、應詔 一首」は、こうなっています。

   正朝觀萬國 元日臨兆民 齊政敷玄造 撫機御紫宸
   年華已非故 淑氣亦惟新 鮮雲秀五彩 麗景耀三春
   濟濟周行士 穆穆我朝人 感徳遊天澤 飮和惟聖塵

 天皇の命によって詠んだ作だけに、元日に天皇は万国の民をみそなわし、多くの国民に臨みたまうという句で始め、瑞祥を示す春のめでたい景色を描き、我が朝にはすぐれた人物で満ちているとし、徳の高い天皇のみ恵みのおかげで人々は平和を楽しんでいる、といったお祝いづくしの儒教的な内容ですが、末尾の「飲和」が『荘子』則陽篇に基づくことは早くから指摘されています。つまり、儒教一本槍ではないのです。

 さらに、胡志昴「藤原門流の饗宴詩と自然観」(辰巳正明編『懐風藻--日本的自然観はどのようにして成立したか)』、笠間書院、2008年)によれば、末尾に見える「聖塵」の語も『荘子』に基づくことが指摘されています。すなわち、『荘子』逍遙遊篇では、荘子が、神人というのは、その塵や垢で古の聖帝とされた堯や舜を作ることができるほどのすぐれた存在なのだから、俗世のことなどどうして気にかけようか、と発言しており、『荘子』の代表的な注釈である晋の郭象の注では、聖人とされる堯や舜の政治上の功績は、本当は聖なる神人である堯や舜の真の姿の塵や垢にすぎないのだ、と解釈していることを指摘し、不比等の漢詩に見える「聖塵」はこうした議論を踏まえているとしています。
 
 つまり、不比等のこの詩は、元日の荘重な宮中儀礼に示される儒教的な聖帝のもとでの太平の世を称えることで始まっているものの、『荘子』や六朝時代に流行した玄学的な『荘子』解釈にもとづき、そうした素晴らしい儒教の聖人の治世よりも『荘子』などが説く「無為自然の治」の方が上だと見ているのです。不比等が律令制確立のために努力したことは事実であるものの、教養ある大臣としては、現在の天皇は人為的な努力に努める儒教の聖帝ではなく、その真の姿はさらに優れた無為自然の神人なのであって、この目出度い泰平の治世ですらその「聖なる塵」にすぎないという形で今上天皇をそうした神人になぞらえて讃えているのです。

 つまり、今上天皇を『荘子』の図式の中でとらえているのです。しかも、これは天皇の命によって元日に提示した公式な祝賀の漢詩です。当時は、天皇も臣下たちも、そうした趣味を共有していたということになります。律令による政治だけを最上のものとしていたわけではありません。胡志昴氏の論文は最近のものですが、右の漢詩に老荘的な要素が見えることは、何十年も前から指摘されていました。

 以上のことから、不比等は儒教派、長屋王はもっぱら道教・神仙好み、道慈は儒家嫌いの僧と規定したうえで、彼らが儒仏道の聖人としての聖徳太子像を創造したとする大山氏の説は、自説にとって好ましくない資料を切り捨てたうえで作り上げられた割り切りすぎの図式であることが知られます。大山氏の「聖徳太子非実在説」は、自説にとって不利な資料に真っ向から向き合い、そうした資料たちと格闘する中で生まれてきた学説ではないのです。そのような大山氏が、大山説を根底から崩すことになる森博達さんの批判などを無視し続けているのは、当然のことでしょう。

【2010年8月22日 追記】

大山氏は長屋王の道教志向の面を強調するばかりで、仏教信仰に言及しないと書いた件ですが、氏の最初の関連論文である「「聖徳太子」研究の再検討(下)」(『弘前大学国史研究』101号、1996年・10月)、および同論文を収録した『長屋王家木簡と金石文』(吉川弘文館、1998年)では、長屋王は空想的だっとし、「多宝仏や弥勒の信仰を逸速く受け容れたのはそれ故であったし」という一文だけが仏教信仰に触れています。しかし、長屋王の「多宝仏や弥勒の信仰」に関する氏の議論は誤りですので、別に論じることにします。