聖徳太子研究の最前線

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大山誠一「聖徳太子架空説」の誤り

2010年06月09日 | 大山誠一「聖徳太子虚構説」への批判

 日本道教学会の学会誌、『東方宗教』の最新号がやっと届きました。奥付は例年並みに「平成二十二年五月五日 印刷」で「五月十日 発行」となっていますが、実際に届いたのは一昨日(6月7日)、抜刷とPDF入りのCD-ROMが届いたのは昨日です。

  もっとも、私の勤務先の学部の論集などは、かつては奥付にある発行月日より半年遅れで配布などということもしばしばだったとか。私自身にしても、SAT(大蔵経テキストデータベース研究会)の何十人もの仲間たちで苦労して作り上げた大正大蔵経の電子データを初めてインターネット公開した際は、技術担当の師茂樹さんと、連日、睡眠不足気味で作業したものの、約束していた年度内公開より10時間ほど遅れてしまったため、当時のホームページには「3月31日34時公開」などと表示したものでした。あれは誤入力ではなかったんです。最近でさえこれですから、まして古代の聖徳太子関連文献となったら……。

 それはともかく、道教と言えば、1980年代に大流行した「道教と古代日本文化」ブーム、なつかしいですね。あの頃は、「あれも道教、これも道教」という論文が氾濫したため、日の当たらない場所で地道に道教研究をやってきた日本道教学会の老先生たちは、顔をしかめていました。ブームのもとで盛んにそうした論文を書いていた一人が道教学会に入会を希望してきた際は、「あんなデタラメなことばかり書く奴など、絶対に認めん!」と大反対する長老理事もおり、大変だったことを思い出します(当時、学会の事務局は私が助手をしていた研究室にあったため、私は道教学会の雑用係をやっていました)。

 学会理事長をしておられた楠山春樹先生は、「そういう困った人だからこそ、学会に入ってもらって勉強してもらう必要があるんじゃないですか」と、いかにも楠山先生らしい『老子』風な調整術によって長老理事を説得し、なんとか入会を認めさせたことでした。

 つまり、「道教と古代日本文化」ブームのもとで活躍した人たちの多くは、長らく道教を研究してきた専門家や中国思想の研究者ではなく、他分野の研究者だったのです。福永光司先生は例外であってすぐれた中国学者であり、道教学会の会員でしたが、研究生活の後半期になってから道教研究に打ち込むようになり、いわゆる「教団道教」だけでなく、道教に取り込まれる中国の宗教的な思想や神秘的な方術であれば「広い意味での道教」と見なす独特な、言い換えればかなり強引な道教論を展開していたこともあってか、福永先生は道教学会とは距離を置いていました。ブームに急に参戦するようになった人の多くは、そうした福永先生の著書や論文を教科書として道教の勉強を始め、福永流の「道教」の影響を日本史の中に探し始めた、というのが実情でしょう。

(私は、某大学での福永先生の集中講義を拝聴し、打ち上げの会にも出させていただいたのですが、道教文献に関する恐るべき博識と魅力有る講義ぶりが印象的でした。優れた弟子が輩出したのは当然です。福永先生の功績の一つは、多くの優秀な道教研究者を育てたことでしょう。ただ、福永先生から中国学の訓練を受けたお弟子さんたちからは、「道教と古代日本文化」ブームの方向を本業とする人は出ておらず、いずれも着実な中国道教研究者になっているのが面白いところです)

 その「道教と古代日本文化」ブームは、行き過ぎが反省された結果、10数年ほどで沈静化しました。最近では、神仙思想、老荘思想、(教団)道教、中国の神秘的な種々の思想や技術、民間信仰、中国仏教に取り込まれた神仙思想や道教の要素、などの違いと重なりに注意しつつ、文献や文物に即して実証的に道教の影響を検討する研究者が増えています。むろん、ブーム当時にあっても、そのような地道な研究をしていた研究者は、少ないながらも存在していました。

  一方、そうしたブームが終わる頃になってから「あれも道教、これも道教」という形の道教影響説を主張し始め、現在でも同じ論調を守っているのが、「聖徳太子は実在しない」とする大山誠一氏です。大山氏は、『日本書紀』に見られる聖人としての聖徳太子像は、律令制のもとで中国の聖天子に匹敵するような模範的な天皇像を示すため、儒教的な政治をめざした藤原不比等と、道教好きの長屋王と、唐から帰国したばかりの学僧である道慈の三人によって『日本書紀』編纂の最終段階で創られたものであり、儒仏道の三教に通じていた道慈が任されて聖徳太子関連の記述を執筆したとしていることは有名です。

  この主張のうち、道教に関する議論は現在ではさらに大雑把になっており、昨年11月に刊行された氏の『天孫降臨の夢--藤原不比等のプロジェクト--』(NHKブックス、日本放送出版協会、2009年)では、長屋王は讖緯思想に傾倒していたとしたうえで、「讖緯思想は、広く道教思想あるいは神仙思想と考えてよいであろう」(57頁)と述べています。しかし、讖緯説は広い意味で道教だという言い方は福永流であって問題であるうえ、讖緯思想は広い意味では神仙思想と考えてよいなどというのは、中国思想史の常識をわきまえない、まったくの珍説です。

 というより、そもそも長屋王が道教に傾倒していたことを示す資料はなく、不比等と長屋王と道慈の三人が『日本書紀』編纂に関わって最終構想を固めたことを示す資料もなく、道慈が実際に太子関連記述を書いたという資料もないのです。

  このうち、長屋王が道教に傾倒していたというのは、「道教と古代日本文化」ブームの典型の一つである新川登亀男さんの長屋王論、「奈良時代の道教と仏教--長屋王の世界観--」(速水侑編『論集日本佛教史 第二巻  奈良時代』、雄山閣、1986年)を有力な根拠としたものです。

 不比等亡き後、権勢を誇っていた長屋王は、藤原氏の策謀によって妻子たちもろとも滅亡に追い込まれますが、反国家的な「左道」を奉じているという口実で長屋王が断罪されたのは、神亀五年五月十五日の長屋王の発願に基づいて書写された『大般若経』の跋文が道教的な世界観を示しており、長屋王の父母である高市皇子とその妃を頂点とする神霊の秩序こそが皇統を護るとして天皇より上に位置づけ、長屋王自身もその秩序に加わることを願っていたためであった、というのが新川さんの推測です。

  新川さんは後になると、道教の定義を曖昧にしたまま安易に道教の影響を説くやり方の問題点を指摘するようになりましたが、長屋王と道教の関係については、ブームが終わっている1999年に刊行された著書、『道教をめぐる攻防--日本の君主、道士の法を崇めず』(大修館書店)でも、右の論文とほぼ同じ主張をしています。

  しかし、長屋王のこの願文が道教的世界観に基づく特異な霊的秩序を説くとするのは、多くの読み間違いに基づく強引な解釈であって成り立たないことは、一昨日届いた『東方宗教』115号掲載の拙論、「聖徳太子伝承中のいわゆる「道教的」要素」で指摘した通りです(「関連論文コーナー」にもリンクを貼っておきます)。新川さんは様々な分野で活躍しており、最近出された『聖徳太子の歴史学』(講談社、2007年)も有意義な著作ですが、「道教と古代日本文化」ブームのもとで書いた道教関連の諸論文は、いずれも問題があり、とりわけこの長屋王論文は間違いの多いものです。

  大山氏は、新川さんのこの誤った長屋王観を受け入れたうえで、その願文を書いたのは、長屋王に接近していた道慈だとしています。しかし、国家を傾ける「左道」だと攻撃されて長屋王が自殺に追い込まれるような道教的願文を道慈が書いたとしたら、神亀六年2月の長屋王事件の後、天平と改元した同年8月に藤原光明子の立后が実現し、10月にその道慈が律師に任命されて仏教界の指導者となったことを、どう説明するのでしょう。

 道慈については「藤原寺」、すなわち興福寺に身を置いていた時期があり、少なくとも帰国後は興福寺にいて藤原氏寄りの立場をとり続けていたとするのが、森下和貴子氏の「藤原寺考--律師道慈をめぐって--」(『美術史研究』第26冊、1987年)ですが、大山氏は、多くの研究者に引用されているこの森下論文に言及したことがありません。

  もう一つ決定的に重要なのは、倭習の問題です。『日本書紀』の聖徳太子関連記述には倭習が多く、唐に16年も留学した道慈の文章ではありえないことは、森博達さんが早くに指摘していました。中国語の音韻学の専門家であって倭習にも注意を向け、区分論によって『日本書紀』研究を画期的に進展させた森さんは、「日本書紀の研究方法と今後の課題」(梅原・黒岩・上田他『聖徳太子の実像と幻像』、大和書房、2002年)において、大山説は「根拠のない憶説」ばかりであり、「空想」「妄想」にすぎないとして厳しく批判されたのです。

  道慈述作説は、大山説の要めとなる重要なものであって、これが崩れると大山氏の聖徳太子虚構説全体が崩壊してしまいますが、大山氏は森さんの批判には一切答えていません。また、森さん以外にも、大山説に対する説得力ある批判は数多くなされています。たとえば、聖徳太子は『日本書紀』では理想の天皇像ではなく、理想の皇太子像として描かれているのではないかという、遠山美都男氏と本間満氏の反論もその一つです。確かに、理想的な天皇像を示すために聖徳太子という素晴らしい「皇太子」を造形したというのは、あまりにも不自然でしょう。  

 理想的な天皇像というなら、森田悌氏が「最近の聖徳太子研究--大山・吉村両氏の近著によせて--」(『弘前大学國史研究』112号、2002年3月)で指摘しているように、仁政を行なった「聖帝」として『日本書紀』が絶讃している仁徳天皇こそ最もふさわしいはずです。実際、仁徳天皇は、後世の天皇たちによって模範として仰がれてきました。仏教との関わりが必要であれば、天智天皇・天武天皇の父であって、初の勅願寺院である百済大寺を建立した舒明天皇あたりを、若い頃から儒教や仏教に通じ、仏教流布の最大功績者であった聖天子として描くことも可能だったでしょう。

 上記の『聖徳太子の実像と幻像』には、大山説に賛同する人、大山説の一部を認めて一部には反対する人の他に、強い調子で批判した田中嗣人氏や上田正昭氏の議論なども掲載されています。また、森田氏も、大山氏の議論のうちのいくつかの部分を評価しつつ、聖徳太子架空説全体については「誠に奇妙な所見」と批判し、ジャーナリズムの一部が架空説を当然視している風潮を訂正することを目的の一つとして『推古朝と聖徳太子』(岩田書院、2005年)を発表しています。これ以外にも、複数の分野の研究者たちによって批判がなされています。

  それにもかかわらず、先に触れた大山氏の『天孫降臨の夢』では、序にあたる「はじめに」において、「学問的な根拠をあげた反論は皆無であり、すでに<聖徳太子は実在しない>という理解は学界内外に定着したと言ってよいと思う」と述べ、「あとがき」でも、「何しろ、学問的反論は皆無なのである」と断言しています。大山氏は以前から同様の発言をしていますが、これは「聖徳太子非実在説」にならって「学問的反論非実在説」と呼びたいほど驚きの説です。また、反論しない第一線の研究者たちの中には、「大山説については取りあげるまでもない」と突き放している人も少なくありません。

  確かに、大山説には、想像に基づく部分が多いうえ、美術史の研究成果は一切考慮しないと公言するなど、強引な議論が目立つことは事実です。とはいえ、複数の著作において太子虚構説を批判してきた遠山氏の次のような評言も忘れることはできません。

  「『日本書紀』編纂者が種々の原史料にもとづきながら、聖徳太子を通じて一定の歴史像を描き、それを同時代や後世に向かって発信しようとしたことを明らかにした点は正当に評価されねばならない。大山氏の『聖徳太子非実在説』の学説としての意義はこの点にあると考える。『聖徳太子非実在説』は、その本質において『日本書紀』論だったのである。」(遠山美都男「「聖徳太子非実在説」とは何か」、『歴史読本』52巻14号、2007年12月)。

 つまり、「理想の天皇像」説のように認めがたい主張も多いものの、従来の研究のように、『日本書紀』の聖徳太子関連記述のうち、どの部分が史実でどの部分が伝説か、といった方向で研究するのではなく、『日本書紀』全体は聖徳太子をどのような人物として造形しようとしていたのか、それはどのような理由によるのか、といった視点から検討を試みた点に意義がある、とするのです。確かに、その点は遠山氏の指摘される通り有意義な試みですし、他にも「『書紀』は権威付けには主に高句麗を利用する傾向がある」と述べた箇所など、いくつかの点については、私も重要な指摘と認めています。

  大山説のうちのそうした点が着目されず、無視される場合が多いのは、「何しろ、学問的反論は皆無なのである」といった断言が示すように、自説を打ち出すばかりで批判に誠実に対応しないことも一因になっているように思われます。聖徳太子は『日本書紀』編纂の最終段階で創造されたのであり、実在したのは厩戸王という王族にすぎない、というを主張を十年以上展開しておりながら、その肝心の『日本書紀』では「聖徳太子」という表現は用いていないばかりか、大山説では太子関連資料を大量に捏造したとされる光明皇后や行信すら「聖徳太子」という呼称を用いておらず、「厩戸王」という呼称にいたっては現存文献にまったく見られないことなどについて、きちんと説明してこなかったことも、感心できない点です。「厩戸王」という呼び方は、聖徳太子伝承を疑った太子研究の古典である小倉豊文『聖徳太子と聖徳太子信仰』(綜芸社、1963年。増訂版は1972年。感動の名著です)が、「厩戸王」というのが生前の呼称でないか、としているのが初出ではないでしょうか。 それが教科書にまで載るようになったのは不思議な話です。

 大山氏は、聖徳太子の事跡を疑った先学として津田左右吉の名をしきりに挙げるものの、「憲法十七条」は天武朝ころの製作と見る津田説を正しく紹介せず、『日本書紀』完成時期の編纂者が「憲法十七条」を作ったと津田が述べているかのような書き方をするのも問題です。また、論証のし方は全面的に異なっているにせよ、「聖徳太子はいなかった」という主張や馬子が大王だったという推論自体は、「聖徳太子は実在しない」と説く大山説が登場する以前からなされており、本も出ているにもかかわらず、そうした人たちはアカデミズムに属さず、学界では取り上げられないタイプの民間史家や小説家などであるためか、大山氏がまったく言及していない点も気になります。こうした問題点は他にも沢山あります。大山説が無視されがちであるのは、それ相応の理由があるのです。

  あるいは、「根拠をあげた反論」は皆無だと大山氏が言うのは、聖徳太子の「実在」を示す木簡のような具体的な証拠を示さなければ「学問的反論」とはみなさない、ということなのかもしれません。しかし、 『日本書紀』が厩戸皇子を神格化し、聖人であることを異様なまでに強調して描いているのは確かですが、聖徳太子は実在せず、その事績とされるものは実は蘇我馬子の事績だったと主張する大山氏にしても、そうした様々な推測をする際の主な情報源は、氏自身が捏造だらけだとする『日本書紀』です。石舞台古墳を発掘し直し、馬子の活動を詳しく誌した墓誌銘を発見したわけではありません。

 つまり、自分でもやっていないことを、大山説を批判する研究者たちに要求しているのであって、論証の不備を指摘する批判を謙虚に受け止めて自説を訂正しつつより正しい方向をめざす、という学問態度をとっていないのです。ただ、森さんの批判以後、大山氏を中心とする『日本書紀』研究のグループの人たちは、「聖徳太子関連の記述の多くは、道慈自身が書いたのではなく、道慈はプロデューサー的な役割を果たしたのだろう」という方向に変化したと聞きました。

 大山氏も、最新の『天孫降臨の夢』では、かつてのように太子関連の記述はすべて道慈が書いたと明言していません。「儒教関係は藤原不比等、道教関係は長屋王、そして太子関係記事の大部分を占める仏教関係と中国的聖天子としての表現は道慈と考えてよいであろう」と述べ、「ほかにもさまざまな人が参加したかもしれないが、重要なのは、『日本書紀』の記述の方向性を示しうるリーダーの存在である」(57頁)として、そのリーダーは不比等・長屋王・道慈の三人であることは明らかだとしています。曖昧な形でプロデューサー説の方向にシフトしつつあるのでしょうか。

  しかし、今回の拙論では、森さんが挙げた用例以外の倭習の例を多数示し、道慈作として伝えられている文章との違いを指摘しました。特に、大山氏が道教的な箇所中で最も重要とし、儒教派の不比等と道教派の長屋王の立場の相違を道慈が巧みに調整して書いたとする片岡山飢人説話については、いかに倭習が多いかを詳しく示しておきました。誰が書いたにせよ、太子関連記述に漢文の初歩的な誤用や奇用がこれほど沢山残されているとなると、16年間も中国で学んだリーダーさんは、いったい何をしていたんでしょう? 「記述の方向性を示し」ただけで、担当者たちが倭習だらけの漢文で書いた本文を実際に読んでチェックすることはなかった、ということなのでしょうか。

  また、このブログの続編記事で紹介するように、今回の拙論では、大山説の有力な根拠となった新川論文ばかりでなく、「道教と古代日本文化」ブームのきっかけとなった福永光司・上田正昭・上山春平『道教と古代の天皇制』(徳間書店、1978年)、福永光司『道教と日本文化』(人文書院、1982年)などに見える聖徳太子と道教を結びつける解釈についても、ほとんどすべて間違いであること、特に福永先生の主張は問題であることを明らかにしておきました。他に大山氏の架空説の有力な根拠の一つは、『勝鬘経義疏』に関する藤枝晃先生の中国撰述説でしたが、これが誤りであることは、当ブログの「三経義疏中国撰述説は終わり」「三経義疏中国撰述説は終わり(続)」で既に報告した通りです。

  つまり、大山誠一氏の「聖徳太子架空説」は、前提からして間違っていたのです。

 なお、私は大山説を認めないといっても、実証的な立場から大山説の論証の不備を指摘しているだけのことです。『日本書紀』の記述をそのまま信じて聖徳太子を礼讃し、大山氏の非実在説を論難する人たちとは立場が異なります。

 津田左右吉博士を攻撃した国家主義的な聖徳太子礼讃者たちの思想的系譜については、公開講演「聖徳太子論争はなぜ熱くなるのか」(『駒澤大学大学院仏教学研究会年報』第40号、2007年5月)で明らかにしておきました。私は聖徳太子に関する津田博士の個々の説には反対であることが多いものの、津田博士が開設された研究室で学んだ身であって、学風の一部は継いでいるつもりです。


【追記 2010年11月5日】
大山氏が津田左右吉説を歪めていることについては、「津田左右吉説の歪曲」および「津田左右吉説の歪曲(続)」で詳しく述べましたが、問題山積であり、特に続篇の記事については、書いているうちに大山氏の論文作成法の粗雑さが良く分かりました。また、津田左右吉説に対する国家主義者たちの攻撃についても、当時の文部省の姿勢を含めて、詳しく書いておきました。

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