聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

大山誠一説における仏教理解の問題点

2010年06月20日 | 大山誠一「聖徳太子虚構説」への批判

 大山誠一氏の最新刊、『天孫降臨の夢』(2009年)によれば、氏はインドが好きで、「三回ほどインド各地の安ホテルを転々としながら旅をした」ことがある由。氏は、「そのたびに思うのだが、日本に仏教徒と称する人は大勢いるが、仏教を理解している人はいないのではないか」と書いています(75頁)。 

 私自身は、インド仏教を理解できずにいるうちの一人ですので、何も言えませんが、インドを旅すると、その強烈な宗教風土に衝撃を受け、現在の日本仏教との違いに愕然とさせられることは事実ですね。聖地ベナレスにある大学に留学し、ガンジス河のほとりに下宿して7年間暮らしたある先輩などは、すっかりインドになじんでしまったため、日本に帰国したらカルチャーショックをおこしてしまい、息苦しくなってインドに逃げ帰ったりヨーロッパを回ったりを繰り返し、1年半くらいして、ようやく日本に軟着陸するに至ったほどです。 

 インドに接して受ける衝撃は、日本が仏教を受容する時期においても同様であったことでしょう。中国や朝鮮諸国を経て東アジア風に変容していたとはいえ、インド由来の外来文化である仏教を受容するに当たっては、驚きも大きかったでしょうし、様々な反発や誤解や日本風な変容もなされたはずです。では、インド好きの日本古代史研究者である大山氏は、インドとは異なる東アジア諸国の仏教と、それを受容した頃の日本の仏教について、どのように理解しているでしょうか。 

  大山氏の道教関連諸説を批判した拙論では、聖徳太子非実在説の出発点となった研究書、『長屋王家木簡と金石文』(吉川弘文館、1998年)所載の論文について検討しましたが、今回は、研究者でない方々が最も目にしやすい本、すなわち、2005年に角川ソフィア文庫の1冊として出された『聖徳太子と日本人--天皇制とともに生まれた<聖徳太子>像--』(角川書店)を取り上げ、そこに見られる大山氏の仏教理解について検討してみます。同書が述べているように、「聖徳太子関係記事の大部分は、仏教関係である」(95頁)以上、その当時の中国・朝鮮の仏教や日本の仏教のあり方をわきまえていないと、そうした記事は理解できないからです。

 なお、同書は、2001年に風媒社から刊行された『聖徳太子と日本人』に一部加筆したものであって、一般向けにわかりやすく述べた書物ですが、道慈の役割に関しては、上記の研究書とほとんど同じ主張がなされています。

  まず、同書の「仏教関係記事--道慈の構想」の節では、大山氏は、『日本書紀』の仏教関係記事の代表として、馬子と守屋の合戦の際、厩戸皇子が白膠木で四天王の像を作って髪に置き、敵を倒すことができれば四天王のために寺塔を建てようと誓い、戦勝後に四天王寺を建立して守屋の奴(やっこ)の半分と宅を施入した、とする伝承をあげています。そして、「この話の中に、歴史的事実と思われるのは、蘇我馬子が物部守屋を滅ぼしたということだけで、聖徳太子に関する部分には、真実は皆無である」(95頁)と断言します。十四歳の少年の行動としては不自然であるうえ、四天王寺は難波吉士氏の氏寺であって、考古学から見てもその建立年代は事件より半世紀ほど後であり、本来の寺名は地名の荒陵寺(あらはかでら)であって、四天王寺という名称は早くても天武朝以後だから、というのがその理由です。

  しかし、そう断言できるでしょうか? 徹底して疑うのであれば、そうした合戦が本当にあったのか、本当に馬子が主導して守屋を滅ぼしたのか、そもそも蘇我馬子は本当に実在したのか、などについても疑うことが可能でしょう。それらが歴史的事実であることを示す同時代の木簡や墓誌や合戦跡などは、これまで報告されていませんので。

 それはともかく、合戦があって馬子が勝ったとする『日本書紀』を信ずることにした場合、『日本書紀』のその箇所には、馬子は「泊瀬部皇子・竹田皇子・厩戸皇子・難波皇子・春日皇子」などの皇子たちや有力な豪族たちとともに軍勢を率いて戦った、と書かれています。これは「歴史的事実」なのでしょうか。ほかの皇子が参戦したのは事実であって、ようやく三番目に名前が出てきた厩戸皇子の部分だけ捏造なのでしょうか。『日本書紀』では、厩戸皇子は「随軍後(軍の後に随へり)」と記されているのみであって、軍陣の先頭に立って勇敢に戦った、などとはまったく書かれていませんが。

  仏教は、当時にあっては最新・最強の技術です。大山氏は、当時における仏教の最大の推進者は蘇我馬子だとしています。それは前からの有力な説の一つであって私も賛成ですが、馬子が熱心な仏教信者であったとすれば、仏教による戦勝祈願をしても不思議はありません。『日本霊異記』などでは、七世紀半ばすぎに百済救援のために派兵されるに当たって、「無事に帰ってこられたら、神たちのために伽藍を建てます」と誓っている例が見られます。

  仏教では、信者を守ってくれる武神の代表と言えば、四天王です。『日本書紀』によれば、守屋軍に敗北しそうになったのを見た厩戸皇子は、「護世四王」、つまり四天王に造寺を誓い、馬子は「諸天王・大神王」に、つまりはそれ以外の神々に造寺を誓って戦勝を祈願したことになっていますが、これは不自然であり、一つの誓願を二つに分けて厩戸皇子と馬子に割り振ったように見えることは、大昔に指摘した通りです(「憲法十七条」が想定している争乱」、『印度学仏教学研究』41巻1号、1992年12月)。

 つまり、まだ少年であった太子が戦場で白膠木を刻んで四天王の像を作り……といった描写は後代の伝承ないし潤色であるにせよ、戦いにあたって馬子が四天王などに戦勝を祈願をした可能性はあるのです。しかも、『日本書紀』やその他の金石文などを見る限りでは、古代日本にあっては、誓願は多くの人がすればするほど効力が強まると信じられていた形跡があります。ということは、馬子主導で誓願がなされ、馬子側の皇子たちや有力豪族たちのうちの仏教信者もそれに従ってそれぞれ造寺や造像などの誓願をした可能性も無いとは言えません。誓願なら、少年でも可能でしょう。

 誓願していないかもしれませんが、誓願した可能性は「皆無である」、と断言するだけの資料を私たちは持っていないのです。また、いつ頃施入されたかは不明であるものの、厩戸皇子が建立した斑鳩寺の後身である法隆寺が物部氏の旧領地を所有していたことは、『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』が記する通りです。

 大山氏はその他の著書でも、誓願に着目していませんが、新羅においても、仏教が普及するようになったのは、王女の病気を外国僧が誓願によって治したことがきっかけと伝えられています。古代の東アジア仏教、とりわけ中国周辺諸国の仏教を支えていた大きな柱の一つは、誓願の威力であり、誓願を考慮しないと当時の仏教の姿は見えてきません。信心の強さを重視するようになるのは、もっと後の時代になってからです。

 次に、大山氏は、四天王寺は摂津の渡来系氏族である難波吉士氏の氏寺であり、建立年代もこの事件の半世紀ほど後のこととされているから、上の話はありえないとします。しかし、四天王寺は移築の問題もあって不明な点が多く、その初期の歴史は完全には解明されていません。難波吉士氏の氏寺であるというのは、そうした説もあるという程度に留めるべきでしょう。また、瓦の研究によれば、現在の四天王寺については、創建は最初期の寺々より遅れるのは事実であるものの、飛鳥寺→豊浦寺→法隆寺→四天王寺、という順序で瓦当范や工人が移動しており、この四寺が密接な関係にあったことが明らかになっています。そのような四天王寺を、地方の一豪族の氏寺と見てすますことはできません。

 本来の寺名は荒陵寺であって、四天王寺という名称は天武朝以後だというのも、よく分からない議論です。寺というのは、どこの国でも正式名称と俗称がある場合が多いものです。「新宿住友ビルディング」のことを、「三角ビル」と呼ぶようなものですね。各地に「あじさい寺」と呼ばれる寺がたくさんあるのも同様の例です。「金光明四天王護国之寺」と額に書かれている奈良の東大寺は、「東のおおてら」とも呼ばれていましたが、最新技術をつぎこんだ大変な工事の後で壮大な完成供養がなされる場合、「この寺を、あらはかでらと名づく」などと宣言するはずがありません。そんな不吉な和風の名ではなく、仏教用語に基づく堂々たる漢字の寺名が付けられたはずであり、その寺を普段はその土地の名などの俗称で呼ぶのは不思議でありません。漢字による寺名も、後に何度も変更されるのはよくあることですが。

 大山氏は、この四天王祈願の話が作られたのは、四天王信仰、それも「道慈がもたらした義浄訳『最勝王経』にもとづく信仰」を「普及させるため」であったと推定します。氏は、四天王信仰は、「天武朝頃に新羅から伝わり、……天武・持統朝に尊重されたようである」ものの、「本格的には、道慈が『最勝王経』をもたらしてからである」と断言しています(96頁)。しかし、仏教教理に関する論議が盛んであった梁が滅び、陳が建国されると、陳では前代の反省もあって『金光明経』による護国信仰が盛んになります。また、隋唐期には『金光明経』による放生儀礼も盛んになります。 日本に仏教を伝えた百済は、梁や陳など南朝の仏教を手本としていましたので、『金光明経』もその四天王信仰も早い時期に日本に伝わったはずです。

 実際、再建された法隆寺金堂に似ておりながら形式がより古い玉虫厨子に、『金光明経』の捨身飼虎の説話が描かれていることは有名ですし、七世紀半ば前後に活躍した渡来系氏族の山口大口費が、法隆寺金堂の広目天像を作って光背に刻銘しているうえ、大山氏も認めているように、天武・持統朝には、『金光明経』を宮中や諸国で講説させています。また、唐訳の『金光明最勝王経』については、道慈以前にもたらされていたとする説もあります。

 それにも拘わらず、大山氏は、日本の四天王信仰が「本格的」になるのは、『金光明経』の最新訳である『金光明最勝王経』を道慈がもたらしてからなのであるから、道慈が「馬子と守屋の戦争の描写に手を入れ、聖徳太子を利用して四天王信仰を広めようとしたのであろう」(96頁)と結論づけます。これは、道慈の役割を強調するために、美術資料を含む現存資料を無視した強引な論法です。

  四天王への祈願が描かれる守屋との合戦の記事は、漢文の誤用・奇用が目立つため、中国に16年も滞在して活躍し、美文を好んでいた道慈が手を入れたとは、とうてい考えられないことは、これまでに指摘されている通りです。また、『日本書紀』の仏教伝来の記事などが、最新の『金光明最勝王経』の表現を用いていることは事実ですが、そうした箇所をいくつも指摘された小島憲之先生も、例をあげているのは巻21までであって、巻22の推古紀中の太子関連記述については、引用を示しておられません。道慈が最新の『最勝王経』をもたらして活用したのであれば、どうして、最も重要な箇所を描く際に『最勝王経』の表現を用いないのでしょう。

 『日本書紀』の仏教関係記事に関する大山氏の誤解ないし強引な論法はほかにも多いのですが、その典型は、厩戸皇子が講義したと記される『勝鬘経』について、「三論系の難解な経典である」(99頁)と明言していることでしょう。しかし、三論宗のインドにおける先駆である中観派は、『般若経』や『中論』に基づいて「空」を強調する学派であり、一方、『勝鬘経』は、人々は煩悩に覆われた形で如来の清浄なる智恵を持っているとして、「有」の面を強調する如来蔵思想系統の経典です。『勝鬘経』は中国では南地・北地ともに流行し、地論宗を中心にして多くの注釈が書かれましたが、南北の諸説を統合していろいろな経典の注釈を書いた中国三論宗の大成者、吉蔵の包括的な注釈である『勝鬘宝窟』が登場すると、他の注釈は読まれなくなりました。ただ、三論宗が『勝鬘経』を特別に尊重していたり、三論宗が中心となって『勝鬘経』を伝えていたりしたわけではなく、『勝鬘経』は「三論系」とは言えません。  

 こうしたきわめて初歩的な間違いがなされるのは、道慈は「三論宗と深く関わっている」(100頁)以上、その道慈が太子の講経を捏造するとなれば、三論系の経典を講義したことにするはずだ、と大山氏が思い込んでいたためでしょう。大山氏は、断定的な物言いをする際は、インド仏教史や中国仏教史の概説書などを確認したうえで書くべきでした。なお、推古紀の『勝鬘経』講説の箇所では、「三日説竟之(三日にして説き竟[お]へつ)」となっており、朝鮮俗漢文や日本の漢文でよく用いられる中止・終止の「之」が用いられています。つまり、和習です。中国で16年間も学んだ道慈の筆とは思われません。

 初歩的な誤りと言えば、「三論系の難解な経典」という行のすぐ前の箇所で、「憲法十七条」の「篤く三宝を敬へ」について説明する際、三宝のうちの僧宝の「僧」とは、「本来は僧伽[サンガ]といい、数人の比丘(出家した男の僧)が、戒律を共有しながら一緒に修行する集団のこと」(99頁)だと述べているのもその一つです。僧宝の定義は時代や系統によって異なっており、現前僧伽については律蔵では四人以上の少人数でも僧伽と認めていますが、上のような説明の仕方では、何十人もが住む大きな寺の僧たちや、尼たちの集団は僧伽ではないことになってしまいます。また、同一地域に住んで説戒などに参加しさえしていれば、普段は異なるところで活動していてもよいのですから、「一緒に修行する集団」というのも、誤解を招きやすい表現です。「三宝」は、仏教の基本となる重要概念だけに、自説を述べるうえで都合の良い面だけを本来の意味のように説明するのは困りものです。

  次に、続く「薨日をめぐる謎--玄奘三蔵と聖徳太子」の節で説かれる日本の弥勒信仰に関する大山氏の見解も、きわめて特異なものです。日本に仏教を伝えた百済では、七世紀初め頃に国王の寺として壮大な弥勒寺が建立されています。となれば、日本にも、かなり早い時期に弥勒信仰が入ったと考えるのが自然でしょう。実際、『日本書紀』では敏達天皇十三年(584)条には、百済から来た鹿深臣が弥勒の石像を有していたという記事が見えます。また、日本に現存する奈良以前の仏像には、朝鮮渡来のものも日本作成ものも含め、弥勒像が少なくありません。教理と結びついた信仰にしても、盛んになるのは玄奘系の法相宗を学んだ留学僧たちが帰国してから、つまり、天智朝以後あたりからとするのが通説です。ところが、大山氏は、弥勒信仰の場合も「本格的な信仰は道慈によって広まったのである」(101頁)と述べています。しかし、道慈の帰国は718年であって、弥勒寺の建立から100年以上後のことです。

 つまり、大山氏は、最新の中国仏教を競って取り入れていた朝鮮諸国の仏教を無視し、また「~の本格的な導入は、道慈による」という言い方を用いることにより、奈良以前の日本仏教の様々な事柄を、実質としては道慈以後の現象だとみなそうとするのです。そうなると、道慈は日本仏教史における超重要人物、ということになります。

 大山氏は、『日本書紀』の聖徳太子像を作り上げる際の道慈の役割を強調しますが、それが事実なら、道慈は、718年12月に帰国してから720年5月に『日本書紀』が天皇に奉呈されるまでの間に、実に多くの仕事をしたことになります。帰国時の様々な報告事業や、書の名手たちが30巻を慎重に清書する時間なども考慮したら、実質は1年ほどでしょうか。 

 道慈は、その短い期間に『日本書紀』30巻の草稿を読み、儒教志向の不比等と道教好きの長屋王の意向を反映・調整しつつ(「和」せしめつつ?)聖徳太子関係の記述を書いて太子を儒教・仏教・道教の聖人に仕立て、仏教公伝や守屋との合戦などの仏教関係の記事もほとんどを書き、さらに大山氏によれば「「天壌無窮の神敕」といった神話に関わる記事も、彼の手になっている」(117頁)というのですから、『日本書紀』全体の編集方針を大幅に改めたことになります。聖徳太子を思わせるほど超人的です。

 いわば、大山氏は、超人的な聖徳太子の実在を否定し、儒仏道の三教に通じていたという道慈の超人的な活躍で置き換えたのです。大山説にあっては、説明に困るような事態が出てくると、いつも「実は道慈が……」という形で説明がなされて解決されます。

 そこまで道慈が自由に捏造しえたのであれば、『日本書紀』の聖徳太子像には、僧侶である道慈の仏教観が反映していて当然でしょう。しかし、道慈については、『般若経』類を重んじる三論宗の学問に通じ、唐では『仁王般若経』を講義する一人に選ばれ、帰国後は『大般若経』を尊重していたうえ、その著作である『愚志』では戒律の遵守を強調しているにもかかわらず、『日本書紀』に描かれている聖徳太子は、『般若経』とも戒律ともまったく無縁なのです。なぜなのでしょう?

  私が道慈であれば、「太子はいつも高句麗の慧慈と『大品般若経』について語りあっており、夢の中で正しい解釈を得て、慧慈に教えた」とか、「太子は、幼い頃から五戒十善を固く守り、父である用明天皇が重病となった時は、病気平癒を願って不眠不休で『大品般若経』を書写した」とか、「新羅との緊張が高まった際、太子が宮中で護国経典である『仁王般若経』を講義したところ、新羅の王宮の上に雲に乗った多数の兵士が現れたため、新羅王は驚いて仏像を送ってきた」などと書きまくりたいところです。

  納得しがたいことは他にも沢山あります。「薨日をめぐる謎--玄奘三蔵と聖徳太子」の項では、『日本書紀』が厩戸皇子の亡くなった日を二月五日としている理由について、大山氏は、道慈が尊敬していた唐の道宣が書いた『続高僧伝』では、強い弥勒信仰を持っていた玄奘が二月五日に亡くなっているため、とします。玄奘は「中国仏教史上最大の人物であり」、「まさしく、仏教界の聖人であった」(102~3頁)のだから、聖人である聖徳太子にふさわしいということで、二月五日が選ばれたというのです。

 しかし、玄奘は「中国仏教史上最大の人物」でしょうか? 中国や台湾の僧尼に尋ねたら、最大の人物は、おそらく、南宗禅の確立者であって今日の中国仏教の基を築いた(とされる)六祖恵能だと答えるのではないでしょうか。恵能の説法は『六祖壇経』となっていて経典に準ずる扱いをされていることが示すように、恵能は仏扱いです。教理の雄大さという点では、天台大師も有力な候補でしょう。また、浄土信者の間では、念佛結社である白蓮社を組織した東晋の慧遠を最も崇敬する人が昔から少なくありません。

 それに対して、玄奘はあくまでも三蔵法師であって、偉大な翻訳僧・学僧です。当時から現在に至るまで非常に尊敬されてきましたが、生き仏とか肉身菩薩などとして崇拝されたわけではありません。中国仏教研究者としては、「中国仏教史上最大の人物」とか「まさしく、仏教界の聖人」といった言い方には、違和感を覚えます。聖徳太子の薨日になぞらえるなら、釈尊の亡くなった日とか、観音の化身とされた高僧などの亡くなった日の方がふさわしいでしょう。実際、仏教熱心な中国の皇帝は、如来になぞらえられたり、菩薩天子と称されたりしたのであって、聖徳太子にしても、後には観音(の化身)として信仰されています。玄奘三蔵は有名ではありますが、聖人とされる皇帝などと重ね合わされるようなタイプではありません。

  さらに、玄奘が亡くなったのは、白村江の戦いの翌年(664年)だったのだから、道慈が718年に帰国するまで「彼の死が日本に伝わらなかったのであろう」(103頁)とするに至っては、ただただ驚きです。道慈の帰国以前にも、704年に栗田真人らの遣唐使が帰国しています。また、『日本書紀』編纂時期に漢学者として活躍した山田史三方(御方)にしても、若い頃に僧侶として新羅に留学していますし、他にも高句麗留学の僧が唐を経て帰っていたり、百済や高句麗の僧侶が本国滅亡後に日本に渡ってきた例もかなりあります。

 この当時、長安で翻訳された経典は、最も短い場合はふた月ほどで新羅に届いています。逆に、新羅の元暁の著作などは中国でも読まれており、敦煌の写本中からさえ見つかっています。7世紀半ばから8世紀半ばにかけて、中国と朝鮮の仏教の交流は非常に盛んであり、軍事的に対立していた時期でさえ、仏教の相互影響は続いていました。その朝鮮諸国から仏教を導入した日本は、遣隋使・遣唐使を送るようになった後も、朝鮮諸国からも猛烈な勢いで仏教を吸収し続けており、行き来した船の数は、遣隋使・遣唐使よりはるかに多数に及びます。それなのに、664年の玄奘の死は、718年に道慈が帰国するまでの54年もの間、日本にまったく伝わらなかったのでしょうか。

  この辺でやめておきますが、唐代仏教の新しい情報はすべて道慈がもたらしたように書きがちな大山氏の仏教認識には、問題が非常に多いのです。大山氏は、『日本書紀』の仏教関係記事を理解するのに必要な仏教の知識が十分でないうえ、道慈述作説を主張しようとしてきわめて偏った記述を行なっている、というのが実際のところです。

【追記 2011年2月12日】 大山氏が四天王寺という名称は早くても天武朝以後とするのは、天武天皇八年夏四月乙卯の条に「この日、諸寺の名を定む」とあるのを、地名に基づく寺名を仏教風な名前に変えさせたものと解釈する福山敏男説に基づくのでしょう。福山説は仮説であって、證明されているわけではありません。また、誰かが亡くなった後に邸宅を改めたような寺と、堂々たる伽藍とは区別すべきでしょう。