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聖徳太子が即位せず皇太子となった理由と田村皇子の位置づけ:河内祥輔「六世紀型の皇統形成原理」

2023年10月29日 | 論文・研究書紹介

 前の記事で田村皇子(舒明天皇)と聖徳太子の関係を論じた論文を紹介しました。今回はその続きとして、聖徳太子が即位しなかった理由とその頃の田村皇子の位置づけに関する論文をとりあげます。 

 律令制で定められた「天皇」「皇太子」という呼称はまだ用いられていなかったにせよ、聖徳太子が天皇の後継ぎの立場にあったこと、また程度はともかく、天皇の政務の補助者の位置にあったことは、近年、認められるようになってきています。

 即位しなかった理由としては、年齢が理由とされることが多いのですが、これに反対したのが、

河内祥輔『古代政治史における天皇制の論理(増訂版)』「六世紀型の皇統形成原理」
(吉川弘文館、2014年)

です。

 河内氏は、この論文では、聖徳太子という呼び方を使っており、天皇後継者は実質は皇太子だからということで「皇太子」という言葉を用いています。そして、皇太子になったということは、いつでも皇位に即きうるという資格を認められたことを意味しているため、若かったから天皇にならなかったとする説は誤りだとし、別の事情を検討しています。

 ただ、増補にあたって付された「補注」では、推古天皇の即位のすぐ後に皇太子(次期王位継承者の地位)についたとする『日本書紀』の記述の信憑性を確認することはできないため、年齢が聖徳太子がすぐ即位しなかった一因であった可能性も考慮したうえで別の事情について述べるべきだった、と訂正しています。

 この論文では、『日本書紀』の立后の記事は作為が目立ち、信頼できないため、天皇の妻の名と出自に関する記述は史料として用いるが、立后に関する記述は採用せず、天皇の妻であったという点だけを認める、という方針で検討すると宣言しています。

 というのは、『日本書紀』では、(イ) 生んだ子が皇位についていること、(ロ)皇女である、という条件のどちらかを満たせば「皇后」とされているからです。ただ、(イ)であっても即位した子が一代限りで皇統を形成しない場合は「皇后」とはされず、また自らの子は天皇になっていなくても、その子孫が皇統をつくっていれば「皇后」とされている、と指摘します。

 そして、妻に皇女がいない場合は、皇族であれば「皇后」とすることもあり、また、(イ)の妻を最初の皇后と記し、その死去後に (ロ)の妻を皇后に立てるという形がこうした事例の記述に共通しているとし、これらの条件が満たされない場合は、立后記事は置かれていないと指摘します。

 河内氏は、『日本書紀』はこのように一定の方針に基づいて皇后記事を書いているのであり、それはおそらく『日本書紀』の最終編纂時に整備されたのだろうと、推測します。つまり、『日本書紀』の皇后記事は史実である保証はないのであって、その妻が妻たちの中で特に重視された地位にあったかどうかも分からないとするのです。

 面白いのは、皇統が何代も受け継がれたのは欽明天皇と敏達天皇のみであって、この二人の生母は皇女であるのに対し、他の天皇はそうではない、という点ですね。河内氏は、前者の皇女の系統を「直系」と呼び、後者の系統を「傍系」と呼びます。

 直系を続けていくため、この時期にしばしば行われたのが近親結婚だった、と河内氏は説きます。敏達・推古の時代で言えば、その直系を受け継ぐのは、欽明天皇の長子であった敏達とその腹違いの妹であった皇女の推古の間に生まれた竹田皇子ということになるのですが、竹田皇子は若くして亡くなったらしいことが知られています。

 河内氏は、傍系である安閑・宣化・用明天皇はいずれも在位期間も短いため、高齢だったり病弱だったりして長期化しない人物が選ばれているようだとし、崇峻天皇が殺されたのは在位が長引きそうだったという視点から考えてみる必要もあるとします。そして、傍系が即位した場合は、後継者選びをめぐって殺戮が行われがちであることに注意します。

 そうした中で、初の女帝となる推古が即位したとされますが、『日本書紀』は推古紀即位前紀では18才で敏達天皇の皇后となったとしており、それだと敏達の即位の時に立后されたことになります。

 一方、敏達紀では敏達は即位4年に広姫を皇后としたが、年内に死去したため、翌年に推古を皇后に立てたとしています。そして、広姫の子である忍坂彦人皇子が「太子」となったと記しているうえ、『古事記』でも、彦人は「太子」とされており、その妻と男女の子たちの名が列記されるなど、天皇に準じた扱いをされています。

 河内氏は、推古は欽明天皇の皇女であるのに対し、広姫の父の息長真手王は皇族とされているものの系譜は明確でなく、皇后の資格としては推古の方が上でありながら広姫が皇后とされ、その子である彦人が「太子」とされたのは、彦人の子が舒明天皇であり、舒明からその子である天智・天武天皇と続く系譜を直系だとみなすための造作と推測します。

 さて、直系中の第一候補だった竹田皇子が亡くなった以上、多数の傍系の中から一人が選ばれて皇位を継ぎ、新しい直系を創造するほかなかったとする河内氏は、そうした状況で選ばれたのが聖徳だったとし、崇峻が殺害されたのもそれを関係があるとします。

 その結果、実現したのが、推古が即位し、甥の聖徳が皇太子につくというものであって、傍系である聖徳の皇位継承を正当化するため、皇太子として実績をあげる必要があったとします。このため、推古が即位して聖徳が皇太子となったのは、一方では、聖徳による直系の創造がはかられてそれを叔母の推古が擁護したものであり、一方では聖徳のただちの即位を妨げ、試練を課すものだったと推測するのです。

 ただ、譲位の制度がなく、推古が長生きしたため、聖徳は即位せずに亡くなり、直系の創造はできなくなりました。しかし、『日本書紀』では聖徳に代わって皇太子ないしそれに当たる候補者の選定がなされたとする記事がありません。それどころか、推古が没した後も、後継者はすぐには決まらなかったとしています。

 河内氏が、田村皇子であった頃の舒明は立太子していなかったとし、だからこそ殺戮が始まり、それが終わると舒明系内部で殺戮が始まった、と述べていることは重要です。河内氏は、さらに『日本書紀』が天智天皇を最初から直系として描いているのは、作為によると説きます。

 河内氏は、皇太子として長く活動した点で聖徳に似ているのは、中大兄、すなわち天智天皇であることに注意します。これは前から指摘されていることであって、だからこそ、『日本書紀』では中大兄のモデルとして聖徳太子が理想的な皇太子として描かれたとする説もあったくらいですが、河内氏はその説はとらないのです。

 以上のように、河内氏のこの論文は、推測の多さが目立ちますが、この時期の皇統は男性主義であったものの、母の位置づけも大事だったとするなど、いくつかの興味深い指摘をしており、検討に値します。

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