推古朝における隋との外交について考えるには、それ以前の倭国の外交を確認しておく必要があります。つまり、卑弥呼と倭の五王の外交ですね。どちらについても諸説がありますが、倭の五王については、つい先日、新しい論文が刊行されました。
田中文生「倭の五王の南朝遣使とその背景」
(辻田淳一郎編『倭の五王の時代を考える―五世紀の日本と東アジア』,吉川弘文館、2025年3月)
です。
田中氏は、その背景として、高句麗の強大化をあげます。高句麗は中国支配の根拠地であった楽浪郡と帯方郡を313年に滅ぼすと、勢力を南に伸ばし始めます。これに強く抵抗した百済は倭国と軍事的な同盟を結び、緊迫した東アジア情勢に直面した倭の首長層は、倭王を軸にして結束します。
彼らは、軍事を含む王権の活動を支えると同時に、独自に国際交流をおこない、威信財や渡来した技術者を獲得して勢力を強めます。この時期の倭王は、倭人の外交を主導し、各地の首長層に国際交流の機会を分配する大首長だった、田中氏は説きます。この状況で登場したのが、讃・珍・済・興・武という倭の国王たちです。
五王が外交を結んだ南朝の宋は、東晋の軍官であった劉裕が420年6月に王朝を開き、宋の武帝となると、翌月には「高句麗王」と「百済王」に除授(任官)をおこなっています。つまり、東晋が両国王に与えていた官爵を追認し、「高句麗王」についてはそれまでの「征東将軍」を「征東大将軍」に進め、「百済王」については「鎮東将軍」を「鎮東大将軍」に進めました。
ただ、両国からの遣使は来ていないため、これは新王朝を自ら慶賀するための一方的な除授であったと見られています。東アジアからの最初の遣使は、翌421年に倭の讃が遣使して除授されたことであって、むしろ高句麗・百済に先行しています。
それ以前に、倭国は東晋に遣使しており、これについては高句麗との共同入貢その他の説があるものの、田中氏は単独入貢と見ます。
『宋書』倭国伝によると、倭王の讃は司馬の曽達を宋に派遣しています。魏晋以後の中国では、方面軍を指揮して征・鎮・安・平の字を冠した将軍たちに府を開くことが認められ、長史・司馬・主簿・功曹・参軍が置かれました。使者の曽達が司馬とされているのは、讃が宋に「安東将軍」の除せられたことが根拠になっています。
ついで珍は、438年には配下の倭隋ら13人への「平西・征虜・冠軍・補弼国将軍」号の除正を宋に求めています。このうち「平西」は倭王の本拠から見て西、つまり、九州北部に派遣されて駐留した将軍と推測されています。以後も、倭王の済が23人の臣下に対する将軍号と郡太守号の除正を求めて認められています。
その主な目的については、王が国内で地位を固め、朝鮮半島南部での軍事支配に役立てるためであったと推測されています。この時期、百済では、中国系の府官が将軍や太守などに任じられて軍事と不可分の外交を主に担当し、百済人は将軍・王・侯などの号を授与され、王権中枢部で実務を担当したと見られます。
こうした見方については批判もありますが、田中氏は、五世紀の王権が中国の官爵を利用し、王を中心とした政治秩序を形成していたことは否定できないとします。田中氏は、百済では中国由来の姓や文化が保持されたのに対し、倭国ではそうした政策がとられなかったことに注意します。
問題は、このようにして続いてきた中国への入貢が武以後、途絶えることです。この武については刀剣銘文にある「治天下」と言われる「ワカタケル大王」のことと見るのが通説ですが、大王という号から見て武による国内の支配体制が確立し、高句麗・百済よりの優位を示すために中国の「天下」から離脱しようとしたとする説があります。
しかし、田中氏は、高句麗は中国への朝貢を続けておりながら5世紀前半に独自の「天下」観を形成しており、6世紀前半に独自の「天」の思想を持つようになった新羅も中国との交渉を始めていることに注意します。華北の非漢民族国家も続々と中華意識を持つようになっていたことについても考慮し、当時は「治天下」の王と称することと中国から官位を保証してもらうことは矛盾しなかったと説きます。
武以後の倭王が朝貢しなかったのは、高句麗の勢力が強まり、遣使ルートを確保できなくなったことが大きいと見るのです。また、高句麗は北朝と南朝に遣使していましたが、北朝の勢力が増大して南まで進出するようになったこともあって、南朝への遣使は460年以後は減っているのに対し、北朝へは毎年のように遣使するようになります。
つまり、南朝は倭国の後ろ盾となるだけの力を失いつつあったうえ、南朝と結び着いていた百済を見捨てて北朝外交に切り替えることもできなかったと見ます。朝鮮半島の混乱、それと連動する国内の首長たちの対立もあったことが、高句麗の「大王」の「天下」をモデルにした天下観をワカタケルが懐くようになった原因であり、倭王の「治天下」構想が進み、中国の官爵を貰う意味もなくなったこともあって、対中外交が途絶するようになったのだろうというのが、田中氏の結論です。
推古朝は、その「天下観」を受け継ぎつつ、朝鮮諸国の対立がまた強まった状況のもとで、南北を統一した隋と関係を持つことになるのですね。





