瓦が語る古代史:相原嘉之「初期寺院の創建―7世紀前半における仏教寺院の導入」
仏教考古学において早くから年代判定の際の確実な材料とされてきたのが瓦です。その観点から、最初期の寺院とそれ以前の仏教関連施設について検討したのが、
相原嘉之『飛鳥・藤原京と古代国家形成』「1 初期寺院の創建―7世紀前半における仏教寺院の導入―」
(吉川弘文館、2023年)
です。個別の論文というより、これまでの研究成果をまとめたうえで自分の見解、発見を加えたような感じであって、研究状況を知るうえでも有益です。相原氏はこの論文では、伽藍を持つ本格的な寺を「寺院」、そうでない仏教施設を「寺」と呼んで区別しています。
相原氏は、推古2年(594)の三宝興隆の詔から30年後には「寺四十六所」と記されるようになり、さらに藤原京遷都直前の持統6年(692)には「天下の諸寺」が「およそ五百四十五寺」となったとされますが、早い時期には瓦葺きでない建物が多かったと述べます。
そしてインド以来の仏教の展開と日本への導入を概説した後(拙著『東アジア仏教史』を利用してくださって有り難うございます)、欽明13年(552)蘇我稻目が百済王から送られた仏像を「小墾田の家に安置」したことを取り上げ、仏殿を建てたようには見えないため、邸内で仏像を祀ったものとします。
これに続けて「向原の家を浄め捨ひて寺とす」とあるため、その仏像を向原に移し、家を改修して仏像専用の建物にしたことがうかがわれるとします。「浄め捨ひ」とありますが、「浄捨」は要するに寄付することであって、単に捨てることとは違うという意味で「浄」の語を付けたものです。「喜捨」も寄付であって「喜んで捨てる」ではないのと同じです。
次に、敏達13年(584)になると、馬子が「仏殿を宅の東の方に経営りて、弥勒の石像を安置」したとあり、また「石川の宅にして、仏殿を修治る」とあるため、仏殿を居宅内、または隣接地に建てたことがわかる。
相原氏は、これは仏殿と言っても礎石を据えて建物に瓦を葺いたとは限らないとします。実際、富田林市の新堂廃寺南門跡では、掘立柱の建物に瓦を葺いた跡が見つかっています。
また、邸内で仏像を祀って儀礼をおこなった例として、玉虫厨子をあげます。高さ95センチであって建物を模しており、小さな瓦を葺いた屋根に鴟尾が載せられています。つまり、仏殿のミニチュアですが、難波宮跡では、それよりやや大きい4センのミニチュア瓦や、ミニチュア鴟尾が出土しています。つまり、王宮内に仏殿のミニチュアが置かれ、仏教儀礼がおこなわれていたのです。
一方、九州では、6世紀末から7世紀初めの無文の軒丸瓦や陰文素弁蓮華文の軒丸瓦が発見されていますが、ごく小量しか出ておらず、那津官家などに供給されたものと推定されており、この時期の寺院の跡は見つかっていません。
いずれにしても、伽藍創建時の瓦より前の段階の瓦が見つかっている場合、礎石を用いた本格的な寺院ができる前の仏教施設に用いられていた可能性もありますが、中には海外の使節を迎える建物に使われていた可能性も指摘されています。
そうした中で画期となったのは、百済から寺院建設に関するいろいろな分野の工人たちが派遣され、彼らの技術によって飛鳥寺が建立されたことです。飛鳥寺は平城京に移築されて元興寺となりますが、その極楽坊の屋根には飛鳥時代の瓦が今も乗っています。
他にも古材が多く保管されており、巻斗については年輪を計測すると590年頃と推定されており、これは、崇峻3年(589)に飛鳥寺のために「山に入りて、寺の材を取る」とある記事に対応しており、『日本書紀』の記述の正しさを裏付けています。
面白いのは、蘇我氏系の寺は山田古道など、飛鳥の主要な道路沿いに建立されているのに対して、坂田寺など渡来系氏族の寺は飛鳥南方の丘陵などに建立され、地形に制限された形になっていることです。
また興味深いのは、馬子の居宅とされる島庄遺跡では、方形池の中や周辺から花組瓦が出土していることです。蝦夷の居宅である豊浦家と推定されている古宮遺跡では、花組・星組・雪組の瓦が出土しており、これらが蘇我氏が建立した飛鳥寺や豊浦寺の瓦と同笵・同系であることです。蘇我氏の邸宅には、寺院で用いる瓦を葺いた建物があったのです。





