『隋書』倭国伝の記述と『日本書紀』の隋関係の記述の不一致については、これまで何度かとりあげましたが、現時点での穏健な検討をしているのが、
榎本淳一『隋唐朝貢体制と古代日本』「第一部 朝貢体制と古代日本の国際関係」中の「補論 『隋書』倭国伝について」
(吉川弘文館、2024年)
です。榎本氏の倭国伝論については、2008年の論文を2014年に紹介したことがあります(こちら)。今回の論文は、基本はその踏襲ながら、検討が進んだ面もあるため、前回とりあげてなかった点を紹介しておきます。
まず、倭国伝では「日出処天子」国書記事は大業3年(607)のこととされていますが、『隋書』帝紀と『冊府元亀』の朝貢の部では大業4年(608)としています。つまり、これらは異なる史料に基づいているのです。榎本氏は、『隋書』の高麗伝や赤土国伝でも、『隋書』帝紀とは年次のズレが見られると指摘しています。
先の記事でも榎本氏が『隋書』倭国伝を5つの部分に分け、依拠した史料が違うらしいことを指摘していましたが、裴世清の記録については、貞観年代に隋の歴史の編纂をおこなった際、裴世清がまだ生きていたことは、貞観12年(638)の『貞観氏族志』において四等に位置づけられていることからも明らかとします。『隋書』を編纂した魏徴らの取材を受けた可能性はゼロではないのです。
というのは、『魏鄭公諫録』巻四「対隋大業起居注」には、魏徴が関係者の子孫に家伝の内容を問い合わせたことが記されているからです。
裴世清が倭国に派遣されたのと同じ頃に、東南アジアの赤土国に派遣された常駿の場合は、『赤土記』2巻が唐代に存在しており、他にもそうした例がありますが、裴世清については、そのような記録は伝えられていません。
そして、裴世清の報告によれば、隋使たちは、倭王が派遣した「小徳の阿輩台」との従者数百人が「儀仗を設け、鼓角を鳴らし」て盛大に迎えたとしていますが、『隋書』の倭国伝では、倭王は朝会には、必ず儀仗を整え、「其の国の楽を奏す」と書かれています。
また、倭国伝では、「楽に五弦の琴、笛有り」と記するのみで鼓角については触れていません。『日本書紀』でも裴世清を盛大に歓迎した様子が描かれているものの、鼓角には触れていません。
この時点で鼓角が倭国に存在し、隋使の歓迎に用いられたとなると、最初の隋への使いの際、隋から与えられたということになりますが、それはなさそうですね。となると、隋使を鼓角で歓迎したとする倭国伝の記述は事実でなく、盛大な歓迎を受けたことを中国式に書いている可能性が高いということになります。
このように、榎本氏は『隋書』倭国伝が貴重な史料であることを認めたうえで、それが反映している元史料の違い、中国風な大げさな表現などに注意すべきことを強調しています。





