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壮大すぎる題名の論文は得てして……:斉藤恵美「日本仏教史における聖徳太子の位置」

2025年04月09日 | 論文・研究書紹介

 長年教員をやって卒論・修論を審査してきたため、論文の題名を見るとその出来がおおよそ判断できるようになりました。むろん、読んでみないとわからないものもあるのですが、壮大すぎる題名のものは期待できない内容であることがほとんどであるようです。

 奈良女子大学の特任助教である斉藤氏が書いた以下の題名の論文はその一例です。

斉藤恵美「日本仏教史における聖徳太子の位置」
(小路田泰直・斉藤恵美編『聖徳太子像の再構築』、敬文舎、2021年)

 こんな壮大な題名は、この道に数十年打ち込んできて権威と認められる人ならありえるでしょうが、学部の学生の卒論の題名であれば、その時点で読んでみるまでもないことは確定です。

 斉藤氏は、冒頭の「はじめに」を「私事からはじめて恐縮であるが、大学院から仏教についての研究をはじめた」という文章で始めており、この段階で卒論なみの不出来な内容であることを推測させるものでした。「私事で恐縮ですが」で始めるというのは、NHKの某アナウンサーが用い始めて広まった悪い風習です。

 しかも、「はじめに」によれば、「大学で歴史を学びはじめたころは仏教にはなんの興味もなかったのだが、それなりに研究が進み、歴史を考え構造的にみる段階になったとき」、宗教とは何か、神祇祭祀と仏教について解明する必要があると思い始めた由。

 仏教については学びはじめて間もないにもかかわらず、「それなりに研究が進」んだ結果、仏教を含めた日本宗教史の全体構造を考えるに至ったそうです。凄いですね。しかし、当然ながら、仏教学・仏教史については不勉強であって、的外れなことばかり書いています。

 たとえば、倭国の王権が仏教を受容したのは、「仏教が世界のあり方のすべてを知る、社会全体のありようを知るという全知性を獲得する教えであったためである」と断定しています。しかし、初期仏教では、煩悩制御に関わること以外の哲学論義、世界のあり方などについては知る必要はないと明言されています。

 むろん、時代が進むにつれて仏の神格化が進み、仏は「一切知者」と呼ばれるようになり、『法華経』などでもそうした表現が見られるようになりますが、古代日本の王権が「全知性を獲得する教え」として仏教を受け入れたという説は初めて見ました。病気の治癒を願うためとかじゃないんですね。

 『日本書紀』によれば、推古2年に仏法興隆の詔が出されると、氏族たちは「君親の恩の為に、競って仏舎を建立した」と記されています。「恩」とは恩恵をもたらすパワーであって、造寺造像などの功徳を君主や存命中あるいは死没した親に振り向けると、君主や親たちのパワーが増し、恩恵が増大するのです。こうした記述は中国の北朝の碑文などにも山のように見られます。斉藤氏は、そうした点は無視して「全知性」なるものを尊重するわけですね。

 推古10年に征新羅将軍に任じられた来目皇子が筑紫で病死し、その兄の当麻皇子が将軍となって播磨まで進軍したところ、妻が死んでしまったため引き返すという事態が起こります。斉藤氏はこれについて、王の決定が実行できなかったのであって、仏教帰依によっても王の絶対性が保証されなかったため、対応策として打ち出されたのが聖徳太子による「十七憲法作成だったのではないだろうか」と述べています。

 「十七憲法」というのは後代の呼び方であって感心できませんが、「仏教帰依」によっても王の絶対性が保証されなかったため、第二条で「三宝を敬え」と命じ、「それ三宝に帰せずんば、何をもって枉れるを直さん(もし三宝に帰依しないなら、何によってよこしまなものを正すことができようか!」と断言する「憲法十七条」が作成されたわけですね。

 なるほど、これはあくまでも「三宝への帰依」であって、「仏教への帰依」ではないというわけですか。第二条では、「三宝とは仏法僧なり」と述べてますが……。

 斉藤氏は、この憲法の規範は絶対的に正しいため、だから「聖」は「一〇〇〇年に一度、国を治めるために出現するとされたのだ」と説いていますが、第十四条では、「五百歳の後にして、乃ち賢に遇うも、千載にしてもって一聖を待つこと難し」と述べています。

 つまり、人々が嫉妬しあうため、賢人程度なら五百年に一度くらいは現れるとしても、聖人は千年たっても出現して活躍することが難しい、と述べて、嫉妬の害を強調しているのです。必ず聖人が現れて国を治めるとは説いてません。どうして漢文をきちんと読まないのか。先行する研究もきちんと見ておらず、思いつきで書いていることは明らかです。

 斉藤氏は、その聖人とは太子のことだと見ているようですが、第十四条は群臣たちに嫉妬するなと命じています。用明天皇の皇子であり、推古天皇の甥であって娘婿でもある聖徳太子が、群臣たちに嫉妬されるんでしょうか。他の天皇候補の皇子たちに嫉妬されるならわかりますが。

 斉藤氏は、憲法は馬子と共同でなく、太子一人によって作成されたため、仏教に帰依することは太子に帰依するのと同じことになったとしていますが、物部氏などを排除して仏教を推進したのは馬子です。『日本書紀』では、聖徳太子の薨去記事では国中が歎き悲しんだとしていますが、葬ったとあるのみでそれ以外の措置は描かれていません。

 一方、『日本書紀』は推古22年(614)に馬子が病気になった際、「大臣の為に男女并せて一千人、出家せしむ」と記しています。これは国王待遇です。馬子の姪である推古天皇と娘婿の太子が、馬子を仏教推進の最大の功績者とみなしてそうさせたのでしょう。となると、仏教に帰依することは大臣馬子の政治路線に従うことを意味する、ということになりませんか?

 また、三経義疏については、拙著に触れていてくださっているのですが、人は正しさを自分のうちに持っておらず、「「機」によって容易に変質するという人間観」といった記述は、異なった能力のことである「機」の意味を取り違えています。こうした初歩的な間違いを書く人に自分の本が引用されるのは嫌なものです。

 以下、空想説がならべられていますが、仏教の常識、また当時の仏教のあり方とは違い過ぎているため、いちいち指摘するのはやめておきます。私は仏教を学び始めて50年以上たち、『東アジア仏教史』(岩波新書)を一人で書いたことが示すように学界の中でも幅広く研究している一人のつもりですが、その私も聞いたことがなく、考えがたい仏教の珍解釈があちこちに見られます。 

 論文の最後は、「律令国家形成の過程で国家仏教とは違う形で進展した仏教のなかに、絶対的存在として聖徳太子の姿は残存していたと考える」とした後、感想が少し述べられているだけです。平安・鎌倉・室町・江戸の仏教における聖徳太子観に触れず、太子信仰と神祇信仰との関わりも詳しく示されていないのですから、「日本仏教史における聖徳太子の位置」というのは誇大広告ですね。

 冒頭で述べたように、この論文は不勉強で自信だけある学生の卒論なみの駄作でした。私は若い研究者については厳しい批判はしないようにしていますが、これはひどすぎます。どうしてこんな論文もどきを書く助教が、共編とはいえ、聖徳太子の論文集の編者となるのか。筆頭の編者であって斉藤氏のことを高く評価しているらしい奈良女子大学の小路田泰直教授の学識と見識が疑われます。

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