『日本書紀』はこれまで推測されていたよりも史実を正確に記していること、あるいはそこまでではなくても、何らかの伝承に基づいたうえで多少変えて書いてある部分が意外に多いことが知られるようになってきました。ただ、どう考えても歪めて記しているだろうと思われるのが、蘇我蝦夷と入鹿の親子に関する記述です。
この点を考えてみるうえで役に立つのが、
露木基勝「蘇我入鹿の首塚と伝承について」
(『歴史研究』第712号、2023年7月)
です。
乙巳の変で入鹿が斬られます。『日本書紀』では斬られたと書いてあるだけですが、その場面が後に絵巻にされます。室町時代の『多武峯縁起絵巻』では、入鹿の首が切られて左側に2mほど飛んでいるように描かれています。
これがきっかけなのか、首が飛んだという伝承が生まれます。その代表は、飛鳥寺のそばにある入鹿の首塚です。ここは飛鳥板蓋宮から600メートル以上の所にあり、乙巳の変の後、中大兄が占拠して戦に備えた飛鳥寺と蘇我氏の邸宅がある甘樫丘の中間に位置します。首を埋めたという伝説がいつ生まれ、さらに「首がここまで飛んできた」という伝説がいつ生まれたのかは不明です。
現在そこに建てられている五輪塔は、落ち着かない形になってますが、それは下から二番目の水輪の石が上下逆さまになっているためである由。奇妙なことに、この首塚は現在ではパワースポットとして人気があるとか。
次の首塚とされるのは、明日香村の茂古森(もうこのもり)です。この変わった名は、入鹿を殺害した中臣鎌足が入鹿の首に追いかけられてこの森に逃げ込み、「もう来ぬだろう」と言ったことによるといいます。飛鳥板蓋宮からは3キロ。ここまで来ると、かなり発展した伝承ですね。
その次は、橿原市のオッタ屋です。ここは飛鳥板蓋宮から直線で5キロ。「さらに飛行距離はパワーアップされている」ということになります。
ところが5キロどころでなく、奈良県を飛び越えて三重県の松坂市飯高町舟戸にも入鹿の首塚と呼ばれる五輪塔があるそうで、これだと約30キロということになります。
露木氏は、「蘇我氏は逆賊だったのであろうか」と疑問を呈し、最近ではその功績が認められるようになりつつあると述べたうえで、敗者とされた者の中には心ある人たちによってひそかに祀られ、伝承として語り伝えられている場合が少なくないとし、入鹿の首塚もその一例だと説きます。
確かにそうですね。このブログでも、守屋合戦の際に戦死した守屋側の武将、捕鳥部万の死骸を愛犬が守ったという『日本書紀』の逸話に注目し、守屋側の人たちが語り伝えたと論文で書いたとして、その論文を紹介したのですが(リンク)、こうした例はほかにも多いでしょう。





