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聖徳太子研究の最前線

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蘇我氏・聖徳太子と馬の関係:平林章仁『蘇我氏と馬飼集団の謎』

2020年11月22日 | 論文・研究書紹介
 前の記事で大臣の蘇我馬子と聖徳太子の利害の一致について触れました。太子が斑鳩宮に移ってしばらくしてからの両者の関係については、不明な点もありますが、推古朝当初は緊密に連携していたことは疑いありません。

 その馬子は、名が示すように、馬と関係深かったことが推測されています。この点は、太子も同様です。厩戸誕生伝承や斑鳩・飛鳥を馬で素早く往復したという伝承があり、馬屋古女王という娘もいたうえ、長子の山背大兄は、蘇我入鹿の軍勢に攻められると、焼ける宮の部屋に馬の骨をほうりこんで自らの骨にみせかけて逃れており、部下に馬で東国に逃れ、乳部の者たちを結集して戦えば必ず勝つと勧めらるなど、馬に関わる記述が多く見られます。

 そこで、その蘇我氏および聖徳太子と馬を飼う集団との関係を追ってみたのが、

平林章仁『蘇我氏と馬飼集団の謎』
(祥伝社新書、2017年)

です。

 平林氏は、蘇我氏の発祥と台頭について述べた後、蘇我氏を称えた推古天皇の歌に注目します。『日本書紀』推古紀20年(612)の正月条では、正月の宴会について記した際、大臣の馬子は杯を捧げ、推古天皇の長寿を言祝いで永遠に「仕え奉らん」と誓う歌を献上したと記しています。推古天皇はこれに対して、次の歌を返します。

  真蘇我よ 蘇我の子らは 馬ならば 日向の駒 太刀ならば
  呉の真刀 諾(うべ)しかも 蘇我の子らを 大君の
  使わすらしき

 天皇だけに自敬表現を用い、蘇我氏は「日向の駒」のような素晴らしい存在であるので、大君(天皇である自分)が蘇我氏の者たちをお使いになるのは「諾しかも(もっともなことだよ)」と述べるのです。

 平林氏は、右のように日向の馬が賞賛されるのは、九州が馬匹文化の先進地であって、日向がその中心であったためだとしてその資料を示し、大和では推古天皇を養育した額田部連氏や平群氏などがそうした馬匹文化と関係のある馬飼集団であったとします。そして、蘇我氏がそれらの馬飼集団と関係深かったことを示し、蘇我氏の血を引く額田部皇女(推古天皇)が蘇我氏を「日向の駒」に喩えたのは当然であったとするのです。

 平林氏は、第五章「「聖徳太子非実在説」を検証する」では、蘇我氏系の有力王族であって、馬子や推古天皇と同様に馬と関係深い資料が多い聖徳太子について検討してゆきます。「非実在説」のような恣意的な解釈が出てくるのは、『日本書紀』研究が混迷しているためだから、というのがその理由です。

 まず、『日本書紀』に見える厩戸誕生説話については、『上宮聖徳法王帝説』では、「池辺天皇の后、穴太部間人王、厩戸を出でし時に、忽ちに上宮太子を産みたまいき」と簡潔に記しているだけであって、神話化されていないため、これが本来の伝承に近かったと見ます。そして、厩戸という名と馬飼集団との関係に触れた先行研究を紹介したのち、関連資料を見てゆきます。

 その資料の一つは、『続日本紀』天平神護元年(765)五月の記述です。これは、播磨の馬養造(うまかいのみやっこ)が、自分の祖先は上宮太子に仕えて馬司を務めていたため、庚午年籍(670年)で馬養造氏とされたが、地名によって印南野氏の姓をたまわりたいとと申し出たという記録です。

 平林氏はさらに、斑鳩宮の東方3キロ、額田郷の北東に、「馬司(まつかさ)」という地名があることを指摘し、厩戸皇子の馬司関連の資料を紹介したのち、高市皇子や長屋王などが家政機関のうちに馬司を設置していたことから見て、厩戸皇子はその最初であったと推測します。太子の居住した斑鳩は平群郡に属しており、軍事と外交に関わる馬飼集団であった平群氏や額田部連氏の本貫であったことに注意するのです。

 このように、平林氏は、聖徳太子をあくまでも蘇我氏系の王族と見て、馬との関係の深さを確かめていっています。「太子非実在説」では、太子と馬との関係などは全くの捏造扱いであって、詳細に検討されていませんね。
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