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聖徳太子の母、間人皇女が義理の息子と近親再婚した時期:遠藤みどり説と桜田真理絵説

2021年02月14日 | 論文・研究書紹介
 聖徳太子の母、穴穂部間人皇女(?~621)は、『聖徳太子平氏伝雑勘文』が引く『上宮記』の逸文によれば、夫の用明天皇が亡くなると、用明天皇と蘇我稻目の娘である石寸名(いしきな)との間に生まれた第一皇子の田米王(田目皇子)と再婚し、佐富(さほ)女王を生んでいます。

 母のこの再婚、それも自分とは腹違いの兄との再婚が、多感な少年であった厩戸皇子に衝撃を与え、これが厩戸皇子が仏教にのめりこむ一因となったと説いた人もいました。用明天皇が亡くなった翌年に再婚したなら、その時の太子は、かぞえで15歳、翌々年だと16歳です。

 しかし、この時期の皇族は、身分の釣り合いの関係、また財産の分割をふせぐ必要もあったうえ、天皇の皇女との結婚が天皇となる資格の一つとなっていたようであるため、近親婚が目立つのです。用明天皇と間人皇女にしても、ともに欽明天皇の子であって腹違いの兄妹婚であり、敏達天皇と結婚した推古天皇も、同じく欽明天皇の腹違いの子同士の兄妹婚です。

 ただ、間人皇女の場合は、義理の息子と結婚していますので、かなり特殊と言えるでしょう(ゾロアスター教では近親婚、それもつながりの深い近親婚こそが聖なる結婚として推奨されていましたので、私が聖徳太子に関する珍説を書きとばす歴史ライター・研究者・哲学者などであれば、『聖徳太子の母はゾロアスター教徒だった!』といったあやしげな本を書きたいところです)。
 
 ところが、間人皇女が再婚したのは、太子が成人してからだとする論文が刊行されています。こちらです。

桜田真理絵「女帝「非婚」と「未婚」のあいだ-「不婚の女帝」論の再検討-」
(『文化継承学論集』13号、2018年3月)

 桜田氏は、女帝が即位する条件について検討した遠藤みどり氏の『日本古代の女帝と譲位』「第四章 女帝即位の歴史的意義」(塙書房、2015年)が、ともに欽明天皇の皇女である推古(額田部皇女)と穴穂部間人皇女のうち、推古が即位して女帝となったのは、推古の方は夫の敏達天皇が亡くなって以来、独身のままであったのに対し、間人皇女は再婚して子を生んでいたためだとするのに反対します。

 当時は、天皇が亡くなると殯がおこなわれ、妻や娘など近親の女性がそれに奉仕するのが通例でした。桜田氏は、『日本書紀』によれば推古天皇元年(五九三)九月に用明天皇を埋葬しており、それまで間人皇女は用明の殯に奉仕していたと考えられるため、再婚は殯の終了以後となるはずだと論じるのです。改葬の翌年に再婚したとしたら、厩戸皇子はかぞえで21歳です。これだと、「多感な少年が母の再婚にショックを受け……」という図式は難しくなりますね。

 『日本書紀』推古紀のその部分は、「秋九月、橘豊日天皇(用明)を河内の磯長陵に改葬す」とあって「改葬」となっています。桜田氏は、「殯期間を天皇の死から改葬も含めた最終的な埋葬までとすると」という前提のもとで論じているのですが、推古紀は、事実や呼称はどうであれ、推古元年にその間人皇女の長子である厩戸皇子が「皇太子」となったとしています。

 となると、用明天皇の殯が終わって陵に葬った後、しばらくして間人皇女が再婚したものの、その後で用明天皇の妹である推古天皇が即位し、長子である厩戸皇子が「皇太子」となったため、用明天皇のために改めて盛大な陵を築いて改葬した、という可能性もまったくないとは言えません。

 むろん、それほどすぐ再婚するかどうかは分かりませんし、その「改葬」が最初から予定されていてそれが正式な陵であり、間人皇女(皇后)がその間中、ずっと殯に奉仕していたとすれば、桜田氏の主張が成り立つことになりますが、当時の殯の期間はそれほど長くありません。

 間人皇女が16歳で厩戸皇子を生んだとすると、夫の用明天皇が死去した際は、30歳。その2年後に再婚したとすると32歳の若さであって、改葬が終わった翌年に結婚したとしても37歳です。これより1~2歳若かった可能性もありますし、逆に数歳年上であったとしても、再婚での出産は可能でしょう。

 一方、遠藤氏は、本文では、間人皇女は「用明死去時で三十歳前後と考えられる」(142頁)としておりながら、注53では、田目皇子と結婚した時は「三十代後半から四十代前半と推定される」(152頁)と述べています。しかし、これだと推古天皇が即位した後になってしまいますし、当時の寿命を考えると、そうした年齢での出産の可能性は低くなりそうに思われます。

 実際のところ、間人皇女は何歳で厩戸皇子を生み、何歳で再婚して、何歳で佐富女王を生んだのか。

 いずれにしても、間人皇女は、太子の宮があった斑鳩の地で暮らしていました(この地域の太子と后妃たちの宮については、前の記事で触れた仁藤氏の詳細な研究『古代王権と都城』[吉川弘文館、1998年]があります。このブログでの記事は、こちら)。しかも、間人皇女と田目皇子との間に生まれた佐富女王は、聖徳太子と膳部菩岐々美郎女の間に生まれた長谷王(泊瀬王)と結婚し、葛城王・多智奴女王を生んでいるのです。

 菩岐岐美郎女は、太子の后妃の中で最も多くの子を生み、太子と同時期に病気となって一日違いで亡くなったほど仲むつまじい后でした。その2人の長子である長谷王と結婚したとなると、間人皇女の娘である佐富女王は、大事な存在とみなされていたことが推測されます。さらに、法隆寺金堂の釈迦三尊像銘によれば、太子と間人皇女と膳部菩岐々美郎女は「三主」と呼ばれて尊重されています。こうした状況を見ると、少なくとも太子の晩年の頃は、太子の腹違いの兄と再婚した母の間人皇女と太子の仲が悪かったようには見えません。

 なお、遠藤氏と桜田氏は、后のあり方などに関しても有益な考察をしており、間人皇女が釈迦三尊像光背銘と「天寿国繍帳銘」では「大后」(前者では「太后」)と呼ばれている点についても検討しています。

 遠藤氏は、「天寿国繍帳銘」を推古朝頃の作と見ており、その銘文に登場する「后」「大后」は、すべて太子に関わりの深い后妃に限られるとし、『日本書紀』の「皇后-妃」という図式とは異なるとします。「皇后」は律令制の用語ですし。

 一方「天寿国繍帳銘」については、天武・持統朝頃の作と見る東野治之氏の説に従う桜田氏は、この前後の時期の「大后」は皇后の前身となる称号ではなく、天皇ないしそれに準ずる人物の后妃に対する一般的な尊称であって、嫡妻や天皇の生母だけを指す制度上の呼称ではないとし、「皇后」と書けない場合、皇后に代わる言葉として用いられることもあったと結論づけます。

 そして、聖徳太子を顕彰している『法王帝説』が用明天皇の3人の后妃のうち、間人皇女だけを「大后」と呼んでいるのは聖徳太子の生母だったためであるとし、釈迦三尊像銘については太子の没後まもなく製作されたものと認めたうえで、こちらも間人皇女を太子の生母として尊重して「大后」と呼んでいると述べています。

 なお、桜田氏は、「天寿国繍帳銘」を天武・持統朝頃とみる東野説に従っているものの、東野氏は「推古末年頃作られた原繍帳ともいうべきもの」があったと推定されています(『日本古代金石文の研究』岩波書店、2004年、165頁)。

 また、冒頭であげた桜田論文では、遠藤氏が用いた「不婚」という言葉は語法的に不適切だとして「非婚」という言葉を提唱していますが、中国・韓国でも「不婚」の用例はいくらでもありますし、一度結婚したものの、以後結婚しなかったといった場合にも用いられています。これに対して、「非婚」という表現は、男女関係にあるものの正式な婚姻関係ではないような印象を与えるため、適切ではないように思われます。

【付記:2021年2月15日】
間人皇女の年齢を計算違いしていましたので、訂正しました。論旨に変更はありません。
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