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天武以前の「后」は王の唯一のキサキを意味しない:浅野咲「日本古代における皇后の地位と職能」

2025年03月13日 | 論文・研究書紹介

 この10年ほどで大后と皇后に関する研究は大幅に進展しました。この分野は女性研究者の活躍が目立ちますが、その最新の例が、

浅野咲「日本古代における皇后の地位と職能」
(『ヒストリア』第307号、2024年12月)

 浅野氏は、2024年3月に立命館大学で学位を得たばかりの新進研究者です。
 
 浅野氏は、大后を皇后の前身とする説は見直されつつあるとして、その流れを概説したのち、次期皇位継承ものとなる嫡子の地位創出の必要から皇后という地位が成立したとする遠藤みどり氏の説を妥当なものと評価します。

 そして、東アジアにおける皇后・王后の例を先行研究を踏まえつつ検討していきます。初めに古代中国では、皇后は皇帝と一体とされたものの政治的な権限はなく、唯一の支配者である皇帝によって廃立されることもある存在であり、皇帝が後継を決めないまま死去した場合に継承に関与するのであって、皇帝が亡くなって自らが皇太后となった後に権能を持ったと説きます。

 この皇后の身分の不安定さは、皇后が生んだ長子にも当てはまり、皇太子となっても廃立されることもあり、盤石ではなかったと述べます。これに対して、日本では廃太子の例は多いものの、皇后が配されたのは8世紀末の井上内親王のみであるため、日本の皇后は中国の皇后とは異なる点に注意します。

 新羅の場合、6世紀には、王は超越的な地位を得ておらず、その妻も「妃」と呼ばれるのみで「王后」と呼ばれることはありませんでした。661年に即位した文武王代になって初めて東宮が造営されており、「王后」という語も見えるようになります。つまり、太子制と王后制は近い時期に成立したのです。

 日本を考える場合、浅野氏が重視するのが「天寿国繍帳銘」です。ここには「大后」の語も見えます。ただ、堅塩媛は「大后」、妹の小姉君は「后」と表記され、施主の橘大郎女も「后」と呼ばれているため、「后」は君主の唯一のキサキだけを指す語ではなかったことが分かります。

 この銘文では、橘大郎女の父については「尾治王」ないし「尾治大王」と呼ばれ、厩戸も「大王」と呼ばれています。つまり、父や配偶者など自分と関係が深くて重視している人に「大」の字が付されているのです。

 欽明天皇以後、皇位継承者は欽明の子に限られ、それも敏達以後は蘇我氏系の者たちが続いており、王族の一系化が進みますが、これがさらに範囲が狭まったのが天武朝だと浅野氏は説きます。つまり、王への権力集中、直系継承の志向、王后制の確立は同じ動きなのです。

 ただ、その天武朝にしても、皇后となった鸕野は他のキサキや親王などより上位とされ、特別な位置づけがなされたものの、政治に関わったのは、天武が病気となってからであり、詔勅を下すなどの決定はしていません。

 高句麗や百済では、日本や新羅よりも早い時期から「王后」や「太子」の語が見られます。これらの国では、中国の冊封を受けていたため、「皇」の字は使えなかったのですが、中国風な制度の整備は進められていました。日本の場合、天皇は中国の称号そのままでないのに対し、皇后・皇太子は中国の称号そのままであることも興味深いと浅野氏は説いてしめくくっています。

 こうした議論から見て、「天寿国繍帳銘」は「后」の語を用いているから律令以後の作とは言えないことになりますね。「天皇」の語が見えているため議論になるのですが、中国の称号そのままでないことも注意すべきでしょう。このブログでたびたび触れてきたように、森田悌氏は、「天皇」は「てんわう」であって呉音であり、漢音で訓む「皇后・皇太子」と異なることを強調していました。「天皇」の語の使用は「皇后・皇太子」の使用より早いのです。

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