現在の法隆寺については再建ということで確定しましたが、安置されている仏像については、盛んな論争があります。その一つは、金堂の中央に坐している釈迦三尊像は焼けた斑鳩伽藍でも本尊だったのか、という問題です。
斑鳩伽藍は聖徳太子が建てた寺ですので、太子の延命ないし往生を願う銘文が刻まれた太子等身の仏像が本尊とされるのは不自然ですからね。
そのうえ、『日本書紀』天智九年(670)の記事によれば、「夏四月癸卯朔壬申、夜半の後、法隆寺に災(ひつ)けり。一屋も餘す無し。大雨ふり雷震る」とあるほどの激しい火事だったようですので、金銅製の重い本尊を運び出せたかどうか疑問とされるのは当然でしょう。
金堂が焼けた際に本尊も焼失したため新たに造ったか、それにしては釈迦三尊像は止利様式であって古いのはなぜか、そっくりに再現したのか、他の太子ゆかりの寺から再建法隆寺に運び込んだとしたらその寺はどれだったのか、三尊像本体と銘が入れられた光背は一体のものなのか別の時期の作成か、などについて様々な説が出されています。
それらの説のうち、金堂は焼けたが本尊は運び出されて無事だったのであり、それが再建法隆寺でも本尊とされたとする最近の論文が、
石原秀晃「法隆寺金堂釈迦像は火難を免れたか」
(『東アジアの古代文化』135号、2008年)
です。
石原氏によれば、明治期に近代的な太子研究を打ち立てた久米邦武は、「寺の本尊は軍旗の如し。僧は生命にかけて取り出すべき物とす」と述べており、石原氏は、久米は幕末に『葉隠』で知られる佐賀藩の武家の家に育ったため、「こともなげに……断じてい」ると評しています。問題にもしなかったのですね。
一方、歌人であった美術史学者の会津八一は、「いくら多勢で騒いでも、咄嗟の間に運び出されるようなものではない」とし、それなのに釈迦像に傷がないのは法隆寺が火災に遭わなかった証拠だと論じていました。
ところが、昭和14年(1939)の若草伽藍の調査の際、焼けた瓦片が発見されたため、『日本書紀』の記述通り全焼したと見るの説が主流となりました。問題は、本尊はどうだったかです。
現在の説について、石原氏は三つに分けています。まず、火災を免れたとする「原像無事説」では、止利様式は650年くらいで消えるため、火災以後の作とは考えられないとします。町田甲一氏や大橋一章氏などの説です。
次は、他のゆかりの寺から運び込んだとする他寺移入説です。候補としてあがったのは、斑鳩の法輪寺であって、この寺は以前は太子と一日違いで没した膳妃の実家だったと見られるとします。田村吉永氏・上原和氏・黒岩重吾氏などの説です。
そして、第三の説は、聖徳太子は架空の存在であって、『日本書紀』が聖人としての<聖徳太子>を創り出した後になって像が作成され、もっともらしい縁起が作られたのだとする大山誠一氏の虚構説です。この場合、様式の古さを説明できませんが、「様式論を重視しない大山氏はそんなことは気にかけない」と石原氏は述べます。
石原氏は、『日本書紀』の記述から見て、落雷が火災の原因と見られているとしつつ、中国の古典では、「災」は天がくだしたものだけを指し、人が原因で起きた「火」による火災とは区別されていると述べます。
そして、『平家物語』や『太平記』で「一屋も残らなかった」といった表現で描かれている寺院の火災を検討し、三井寺、興福寺、清水寺などは、実際には平安時代に作られた仏像や寺宝が山ほどあると指摘します。残り無く焼けたというのは、あくまでも主要な建物だけを指すのです。
氏はさらに落雷で樹木や動物が黒焦げになっている場合があるのは、電気が体内を流れるときに生ずるジュール熱によるものと説明します。黒焦げになった蛇の死体が高圧電線からだらりと垂れている場合でも、蛇が炎をあげて燃えたわけではないのです。
家に雷が落ちて火事になるのは、落ちたところに燃えやすいものがあると着火し、はじめはくすぶっているだけですが、風などで酸素が供給されると炎をあげて一気に燃え始めるのです。
寺院の火事は、塔に落雷した場合が多いのですが、この時も状況は同じです。雷が落ちて黒焦げになった箇所のそばに燃えやすいものがあると、燃え出すのです。ただ、大寺院はその周囲の建物も含めて多数が住んでいますので、消火活動がなされます。
法隆寺にしても、建長4年(1252)には五重塔が被雷して3階あたりから火が出ましたが、鍾が鳴らされ、多くの人がかけつけて消しています。弘長年間(1261-64)にも五重塔に落雷したものの、寺工4人が消し止めました。
大山氏は「落雷により、一瞬にして崩壊した感がある」とし、釈迦三尊像と光背は422キログラムもあるため、「持ち出すことなど不可能なはずである」とあちこちで断言しており、お得意の「はずである」理論を繰り出しています。
しかし、石原氏は、「どうやら原爆と雷とを混同しておられるようだ」と評したのち、「ハルマゲドンも顔負けの空想は脇におくとして」ということで、人はどれほど重いものを運べるのか検討します。
そして、これまで10回ほど引っ越しし、そのたびに250キログラムのアップライトピアノの運搬を専門業者にお願いしてきたが、担当者はいつも二人の男性で、これでマンションの階段の登りおりをした由。健康な男性なら100キロほどは持てるのだから、422キロの釈迦像なら4人でも可能、5~6人いれば簡単であって、しかも金堂は狭いので台座から10メートルも動かせば外に出られるとします。
そして、5回も焼失した興福寺の東金堂では、本尊の薬師如来像はそのうち2回救出され、2勝3敗だが、坐像で像高が250~280センチもある丈六の金銅像であって、像高が86センチしかない法隆寺の釈迦像とは比較にならないと説きます。現在の薬師寺金堂の中尊は、享禄元年(1528)の兵火で金堂が焼けた際、救い出されていますが、像高254センチで重量は4.9トンです。道具は使ったでしょうが、日頃から火事になった際、どうするかは検討されていたでしょう。
さらに重要なのは、法隆寺金堂の釈迦像の台座を調査した際、裏に「辛巳歳」と記されていたことが発見されたことです。これは621年であって太子が亡くなる前の年ですので、別の用途に使われていた木材を利用したことが知られています。最重要の仏像をさしおいて台座だけ運び出すことは考えられません。
また、斉明5年(659)とか天智2年(663)に相当する干支が記された幡が残っています。幡とは、儀礼の際に寺の内外に飾る旗の類です。山部氏など、周辺の太子と関係深い豪族が亡き家族のために供養したものが残っているのです。こうしたものまで残っていることから見て、石原氏は、天智9年の火災では、火のまわりはゆっくりしていたと推定します。
面白い考察でしたが、問題は、冒頭で述べたように、若草伽藍は上宮法皇の延命ないし往生を願う銘文を刻んだ釈迦三尊像を本尊としていたのか、という点です。そこで次回は、本尊は丈六仏であって焼失したと見る大橋一章氏の論文を紹介しましょう。
斑鳩伽藍は聖徳太子が建てた寺ですので、太子の延命ないし往生を願う銘文が刻まれた太子等身の仏像が本尊とされるのは不自然ですからね。
そのうえ、『日本書紀』天智九年(670)の記事によれば、「夏四月癸卯朔壬申、夜半の後、法隆寺に災(ひつ)けり。一屋も餘す無し。大雨ふり雷震る」とあるほどの激しい火事だったようですので、金銅製の重い本尊を運び出せたかどうか疑問とされるのは当然でしょう。
金堂が焼けた際に本尊も焼失したため新たに造ったか、それにしては釈迦三尊像は止利様式であって古いのはなぜか、そっくりに再現したのか、他の太子ゆかりの寺から再建法隆寺に運び込んだとしたらその寺はどれだったのか、三尊像本体と銘が入れられた光背は一体のものなのか別の時期の作成か、などについて様々な説が出されています。
それらの説のうち、金堂は焼けたが本尊は運び出されて無事だったのであり、それが再建法隆寺でも本尊とされたとする最近の論文が、
石原秀晃「法隆寺金堂釈迦像は火難を免れたか」
(『東アジアの古代文化』135号、2008年)
です。
石原氏によれば、明治期に近代的な太子研究を打ち立てた久米邦武は、「寺の本尊は軍旗の如し。僧は生命にかけて取り出すべき物とす」と述べており、石原氏は、久米は幕末に『葉隠』で知られる佐賀藩の武家の家に育ったため、「こともなげに……断じてい」ると評しています。問題にもしなかったのですね。
一方、歌人であった美術史学者の会津八一は、「いくら多勢で騒いでも、咄嗟の間に運び出されるようなものではない」とし、それなのに釈迦像に傷がないのは法隆寺が火災に遭わなかった証拠だと論じていました。
ところが、昭和14年(1939)の若草伽藍の調査の際、焼けた瓦片が発見されたため、『日本書紀』の記述通り全焼したと見るの説が主流となりました。問題は、本尊はどうだったかです。
現在の説について、石原氏は三つに分けています。まず、火災を免れたとする「原像無事説」では、止利様式は650年くらいで消えるため、火災以後の作とは考えられないとします。町田甲一氏や大橋一章氏などの説です。
次は、他のゆかりの寺から運び込んだとする他寺移入説です。候補としてあがったのは、斑鳩の法輪寺であって、この寺は以前は太子と一日違いで没した膳妃の実家だったと見られるとします。田村吉永氏・上原和氏・黒岩重吾氏などの説です。
そして、第三の説は、聖徳太子は架空の存在であって、『日本書紀』が聖人としての<聖徳太子>を創り出した後になって像が作成され、もっともらしい縁起が作られたのだとする大山誠一氏の虚構説です。この場合、様式の古さを説明できませんが、「様式論を重視しない大山氏はそんなことは気にかけない」と石原氏は述べます。
石原氏は、『日本書紀』の記述から見て、落雷が火災の原因と見られているとしつつ、中国の古典では、「災」は天がくだしたものだけを指し、人が原因で起きた「火」による火災とは区別されていると述べます。
そして、『平家物語』や『太平記』で「一屋も残らなかった」といった表現で描かれている寺院の火災を検討し、三井寺、興福寺、清水寺などは、実際には平安時代に作られた仏像や寺宝が山ほどあると指摘します。残り無く焼けたというのは、あくまでも主要な建物だけを指すのです。
氏はさらに落雷で樹木や動物が黒焦げになっている場合があるのは、電気が体内を流れるときに生ずるジュール熱によるものと説明します。黒焦げになった蛇の死体が高圧電線からだらりと垂れている場合でも、蛇が炎をあげて燃えたわけではないのです。
家に雷が落ちて火事になるのは、落ちたところに燃えやすいものがあると着火し、はじめはくすぶっているだけですが、風などで酸素が供給されると炎をあげて一気に燃え始めるのです。
寺院の火事は、塔に落雷した場合が多いのですが、この時も状況は同じです。雷が落ちて黒焦げになった箇所のそばに燃えやすいものがあると、燃え出すのです。ただ、大寺院はその周囲の建物も含めて多数が住んでいますので、消火活動がなされます。
法隆寺にしても、建長4年(1252)には五重塔が被雷して3階あたりから火が出ましたが、鍾が鳴らされ、多くの人がかけつけて消しています。弘長年間(1261-64)にも五重塔に落雷したものの、寺工4人が消し止めました。
大山氏は「落雷により、一瞬にして崩壊した感がある」とし、釈迦三尊像と光背は422キログラムもあるため、「持ち出すことなど不可能なはずである」とあちこちで断言しており、お得意の「はずである」理論を繰り出しています。
しかし、石原氏は、「どうやら原爆と雷とを混同しておられるようだ」と評したのち、「ハルマゲドンも顔負けの空想は脇におくとして」ということで、人はどれほど重いものを運べるのか検討します。
そして、これまで10回ほど引っ越しし、そのたびに250キログラムのアップライトピアノの運搬を専門業者にお願いしてきたが、担当者はいつも二人の男性で、これでマンションの階段の登りおりをした由。健康な男性なら100キロほどは持てるのだから、422キロの釈迦像なら4人でも可能、5~6人いれば簡単であって、しかも金堂は狭いので台座から10メートルも動かせば外に出られるとします。
そして、5回も焼失した興福寺の東金堂では、本尊の薬師如来像はそのうち2回救出され、2勝3敗だが、坐像で像高が250~280センチもある丈六の金銅像であって、像高が86センチしかない法隆寺の釈迦像とは比較にならないと説きます。現在の薬師寺金堂の中尊は、享禄元年(1528)の兵火で金堂が焼けた際、救い出されていますが、像高254センチで重量は4.9トンです。道具は使ったでしょうが、日頃から火事になった際、どうするかは検討されていたでしょう。
さらに重要なのは、法隆寺金堂の釈迦像の台座を調査した際、裏に「辛巳歳」と記されていたことが発見されたことです。これは621年であって太子が亡くなる前の年ですので、別の用途に使われていた木材を利用したことが知られています。最重要の仏像をさしおいて台座だけ運び出すことは考えられません。
また、斉明5年(659)とか天智2年(663)に相当する干支が記された幡が残っています。幡とは、儀礼の際に寺の内外に飾る旗の類です。山部氏など、周辺の太子と関係深い豪族が亡き家族のために供養したものが残っているのです。こうしたものまで残っていることから見て、石原氏は、天智9年の火災では、火のまわりはゆっくりしていたと推定します。
面白い考察でしたが、問題は、冒頭で述べたように、若草伽藍は上宮法皇の延命ないし往生を願う銘文を刻んだ釈迦三尊像を本尊としていたのか、という点です。そこで次回は、本尊は丈六仏であって焼失したと見る大橋一章氏の論文を紹介しましょう。