前回の記事の続きです。
国定教科書の時代に入ると、また少し変わってきます。明治36年(1903)の『小学校日本歴史』は人物を中心とした編集となっており、これが以後の歴史教科書の基本となります。
その「第七章 聖徳太子」では、太子と二王子像を挿絵とし、用明天皇の子で、幼時より聡明であり、推古天皇のもとで摂政となり、新しい政治で国を栄えさせ、馬子と共に仏教を広め、「十七条憲法」を制定し、遣隋使を派遣して学問や技術を発展させ、亡くなると天下の民が嘆き悲しんだ、としています。
明治42年(1909)の『尋常小学校日本歴史』となると、用明天皇の子という部分が消えて欽明天皇の孫となり、聡明で十人の話を聞き分けたとされ、朝鮮経由でなく中国の文物導入を直接導入することによって国がいよいよ栄えたといった部分が追加され、万民が嘆いたという部分は削除されます。
大正9年(1920)の『尋常小学国史』では、当時は隋の勢力が盛んだったが、「されど太子は」として、「日出づる処の……」の国書を送ったため、相手が怒ったが使いが来て外交が始まったとします。以前の記事(こちら)で紹介したように、この頃から外交における気概といった面が強調されるようになるのですね。
この教科書で注意すべきは、四天王寺が消える一方で、法隆寺をとりあげて「わが国にて最も古き建物なり」と記していることであり、こうした文化財としての扱いが現行の教科書まで続くことになります。
昭和9年(1934)の『尋常小学国史』は、前の教科書とほぼ同じ内容ですが、太子の死を惜しむ記事が復活します。
戦時中である昭和15年(1940)となると、教科書から人名の題が消え、太子は第2章「大和国原」「第二 法隆寺」で扱われ、皇国色で塗りつぶされます。つまり、「十七条憲法」が初めて教科書で記述されるものの、「国民はみな天皇の臣民である。……民草を苦しめてはいけない」と「きびしくおさとしになっています」とし、また「大和」の大切さを説かれたとするのです。
鈴木氏は触れていませんが、これは昭和12年(1937)に文部省が出した『国体の本義』(1937年)の主張に基づくものですね。国民道徳の規範とされたこの『国体の本義』を編纂したのは、文部省付置研究所であった国民精神文化研究所であり、その中心となって、日本の「和」は「大和」であって単なる平和主義でなく、武の発動を含むと説いたのが、国家主義哲学者の紀平正美(1874-1949)です。紀平のそうした思想については、論文を書いており、以前、このブログでも触れています(こちら)。
「十七条憲法」は「神」について触れていませんが、それでは神国日本を強調する皇国史観としてはまずいため、この教科書では太子は神々も尊重してしたことを強調し、また、法隆寺については、その美しさについて「世界の国々も驚いてゐます。まことに、法隆寺は日本の誇りであります」と述べています。
戦後になって占領期となると、軍国主義的な記述は削除されますが、紙幣の肖像では軍人たちが消えて聖徳太子は残ったのと同様、教科書でも聖徳太子はそのまま残ります。
敗戦直後である昭和22年(1947)に出され、国定教科書としては最後になった『くにのあゆみ』では、それぞれの時代の文化に力を入れて記述しており、聖徳太子については事績を簡単に紹介し、「十七条憲法」を作って役人をさとされたとして第一条、第十二条、第五条、第十七条の順で内容を要約しています。第十七条は、大事な問題は皆で話し合えというものですので、太子を民主主義の点で評価していることになります。
以後は、学習指導要領に基づいて作成されることになりますが、昭和22年(1947)から昭和29年(1954)までの指導要領では、日本史を体系的に扱う単元がなく、教科書でも扱われていない由。29年の大阪書籍版に至って、外国との関係という単元で推古朝に中国から文化が入ってきたことを説明し、仏教と学問が伝えられ、法隆寺が建立されたのもこの時期であり、法隆寺から太子の信仰心とすぐれた芸術を知ることができる、とされているのみです。
この年は、指導要領が改訂された年です。新編の指導要領では六年生で歴史を教えるとされ、大化の改新の章では、太子の半身像が挿絵で入れられ、この時期に日本の政治を改めようとした中心は聖徳太子だとされ、それをついで中大兄皇子が活動したとされています。
さらに昭和33年と昭和43年に指導要領が改訂され、歴史学習が充実してゆきます。太子に関する記述は増えてゆき、改訂を反映した昭和46年の教科書では、紙幣の肖像、わずか19歳で摂政となったことなどのほか、「聖は聖を知る」という逸話まで紹介されるに至りました。この記述は以後の教科書では外されますが。
昭和52年(1977)の大改訂によって、小中高一貫化をめざし、小学校では時代を動かした人物を、生きた人物として描いて社会背景との関係を考えさせる方向へと変わりました。鈴木氏がこの論文を書いた当時、小学校の社会科教科書は6社から出されていましたが、どの版も太子を主題として取り上げてあります。
鈴木氏は、そのように重視されていながら、なぜ太子がそこまで仏教を信じて興隆に努めたかという記述が少ないこと、また伝記・伝説などがどのような文献に基づいているのか典拠が示されていないことをあげ、こうしたことに注意してこそ歴史の学習態度が形成されると説いています。そして、仏教そのものの本旨を理解させる記述が必要だと述べ、この論文をしめくくっています。
このように、教科書における聖徳太子の記述は、当時の社会状況と学問の性格によって大きく変わってきました。指導要領の改訂は10年ごとですが、次の改訂の際はどうなっているでしょう。
国定教科書の時代に入ると、また少し変わってきます。明治36年(1903)の『小学校日本歴史』は人物を中心とした編集となっており、これが以後の歴史教科書の基本となります。
その「第七章 聖徳太子」では、太子と二王子像を挿絵とし、用明天皇の子で、幼時より聡明であり、推古天皇のもとで摂政となり、新しい政治で国を栄えさせ、馬子と共に仏教を広め、「十七条憲法」を制定し、遣隋使を派遣して学問や技術を発展させ、亡くなると天下の民が嘆き悲しんだ、としています。
明治42年(1909)の『尋常小学校日本歴史』となると、用明天皇の子という部分が消えて欽明天皇の孫となり、聡明で十人の話を聞き分けたとされ、朝鮮経由でなく中国の文物導入を直接導入することによって国がいよいよ栄えたといった部分が追加され、万民が嘆いたという部分は削除されます。
大正9年(1920)の『尋常小学国史』では、当時は隋の勢力が盛んだったが、「されど太子は」として、「日出づる処の……」の国書を送ったため、相手が怒ったが使いが来て外交が始まったとします。以前の記事(こちら)で紹介したように、この頃から外交における気概といった面が強調されるようになるのですね。
この教科書で注意すべきは、四天王寺が消える一方で、法隆寺をとりあげて「わが国にて最も古き建物なり」と記していることであり、こうした文化財としての扱いが現行の教科書まで続くことになります。
昭和9年(1934)の『尋常小学国史』は、前の教科書とほぼ同じ内容ですが、太子の死を惜しむ記事が復活します。
戦時中である昭和15年(1940)となると、教科書から人名の題が消え、太子は第2章「大和国原」「第二 法隆寺」で扱われ、皇国色で塗りつぶされます。つまり、「十七条憲法」が初めて教科書で記述されるものの、「国民はみな天皇の臣民である。……民草を苦しめてはいけない」と「きびしくおさとしになっています」とし、また「大和」の大切さを説かれたとするのです。
鈴木氏は触れていませんが、これは昭和12年(1937)に文部省が出した『国体の本義』(1937年)の主張に基づくものですね。国民道徳の規範とされたこの『国体の本義』を編纂したのは、文部省付置研究所であった国民精神文化研究所であり、その中心となって、日本の「和」は「大和」であって単なる平和主義でなく、武の発動を含むと説いたのが、国家主義哲学者の紀平正美(1874-1949)です。紀平のそうした思想については、論文を書いており、以前、このブログでも触れています(こちら)。
「十七条憲法」は「神」について触れていませんが、それでは神国日本を強調する皇国史観としてはまずいため、この教科書では太子は神々も尊重してしたことを強調し、また、法隆寺については、その美しさについて「世界の国々も驚いてゐます。まことに、法隆寺は日本の誇りであります」と述べています。
戦後になって占領期となると、軍国主義的な記述は削除されますが、紙幣の肖像では軍人たちが消えて聖徳太子は残ったのと同様、教科書でも聖徳太子はそのまま残ります。
敗戦直後である昭和22年(1947)に出され、国定教科書としては最後になった『くにのあゆみ』では、それぞれの時代の文化に力を入れて記述しており、聖徳太子については事績を簡単に紹介し、「十七条憲法」を作って役人をさとされたとして第一条、第十二条、第五条、第十七条の順で内容を要約しています。第十七条は、大事な問題は皆で話し合えというものですので、太子を民主主義の点で評価していることになります。
以後は、学習指導要領に基づいて作成されることになりますが、昭和22年(1947)から昭和29年(1954)までの指導要領では、日本史を体系的に扱う単元がなく、教科書でも扱われていない由。29年の大阪書籍版に至って、外国との関係という単元で推古朝に中国から文化が入ってきたことを説明し、仏教と学問が伝えられ、法隆寺が建立されたのもこの時期であり、法隆寺から太子の信仰心とすぐれた芸術を知ることができる、とされているのみです。
この年は、指導要領が改訂された年です。新編の指導要領では六年生で歴史を教えるとされ、大化の改新の章では、太子の半身像が挿絵で入れられ、この時期に日本の政治を改めようとした中心は聖徳太子だとされ、それをついで中大兄皇子が活動したとされています。
さらに昭和33年と昭和43年に指導要領が改訂され、歴史学習が充実してゆきます。太子に関する記述は増えてゆき、改訂を反映した昭和46年の教科書では、紙幣の肖像、わずか19歳で摂政となったことなどのほか、「聖は聖を知る」という逸話まで紹介されるに至りました。この記述は以後の教科書では外されますが。
昭和52年(1977)の大改訂によって、小中高一貫化をめざし、小学校では時代を動かした人物を、生きた人物として描いて社会背景との関係を考えさせる方向へと変わりました。鈴木氏がこの論文を書いた当時、小学校の社会科教科書は6社から出されていましたが、どの版も太子を主題として取り上げてあります。
鈴木氏は、そのように重視されていながら、なぜ太子がそこまで仏教を信じて興隆に努めたかという記述が少ないこと、また伝記・伝説などがどのような文献に基づいているのか典拠が示されていないことをあげ、こうしたことに注意してこそ歴史の学習態度が形成されると説いています。そして、仏教そのものの本旨を理解させる記述が必要だと述べ、この論文をしめくくっています。
このように、教科書における聖徳太子の記述は、当時の社会状況と学問の性格によって大きく変わってきました。指導要領の改訂は10年ごとですが、次の改訂の際はどうなっているでしょう。