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厩戸皇子・蘇我馬子・秦河勝の関係: 林芳幸「高句麗系軒丸瓦採用寺院の造営氏族とその性格」

2011年10月04日 | 論文・研究書紹介
 日本仏教は、百済の支援で始まっており、最初の本格伽藍として蘇我氏が造営した飛鳥寺の瓦は、百済の瓦工が担当しました。ただ、続いて蘇我氏が建立した豊浦寺の跡からは、高句麗系とされる瓦が出ています。そうした高句麗瓦の分布状況から、寺院の造営氏族について考えてみたのが、

林芳幸「高句麗系軒丸瓦採用寺院の造営氏族とその性格----」
(『滋賀県史学界誌』第14号、2004年3月)

です。

 なお、「高句麗系軒丸瓦」というのは、高句麗の軒丸瓦に似ていて、そちらに起源を求めることができるということであって、高句麗から直接、型や技術が伝えられたのではなく、百済経由と見るのが通説です。これは、日本への伝播の過程をかなり具体的に追うことができる百済瓦とは大きな違いです。このため、実際にはこの形は日本で作られたとする見解もあります。

 その高句麗系軒丸瓦研究が一気に進展したのは、1982年に京都府宇治市隼上り瓦窯跡を調査した際、大量の瓦や土器が出土したのがきっかけでした。これによって、この瓦窯で焼かれた高句麗系軒丸瓦が、かなり離れた飛鳥にまで運ばれて豊浦寺で用いられたことが明らかになったのです。豊浦寺では、最初に建立されたと推定される金堂は、飛鳥寺で用いられた瓦と同笵のものが採用されており、高句麗系軒丸瓦は金堂の後で建立された塔か中門に用いられたと考えられています。

 高句麗系瓦のうち、豊浦寺IV型と呼ばれるタイプの瓦は、豊浦寺すぐ傍の蘇我系と思われる和田廃寺と奥山廃寺からも出土しており、斑鳩では中宮寺・平群寺とすぐ近くの今池瓦窯から出土しています。中河内からは、衣縫廃寺・船橋廃寺・渋川廃寺・西琳寺・大県廃寺・土師寺から出ています。いずれも蘇我氏と関係が深い氏族の寺ばかりです。

 また、隼上り瓦窯では、豊浦寺に供給された瓦と異なるタイプである隼上り瓦窯D型と呼ばれる高句麗系軒丸瓦が出土し、山背・近江・河内などの寺に供給されていたことが知られました。北山背では北野廃寺と広隆寺に供給されています。以前とりあげたように、北野廃寺は山背を本拠地とする秦氏の寺であって広隆寺の前身とされるものですので、蘇我氏と秦氏の関係の深さがうかがわれます。

 ここで林氏が着目するのが、中河内では、高句麗系瓦を採用する寺が圧倒的に多く、大和川と石川が合流する辺りを中心に造営されていることです。このうち、渋川廃寺はやや離れており、その瓦は豊浦寺より少し遅れて620~30年頃に作られたと推定されています。

 この渋川廃寺については、安井良三氏が、廃仏派とされる物部氏の氏寺と見て、物部氏は仏教を信仰していたと論じたことは有名です。これによれば、守屋と馬子の合戦は、廃仏・崇仏をめぐる戦争ではなかったことになります。しかし、亀井輝一郎氏は、「アト」という地名が大和川に沿って河内と大和の両方に存在することに注目し、物部氏の同族であって水上交通を握っていた阿刀氏が渋川廃寺を建立したと推測されました。

 これに対して林氏が注目するのが、渋川廃寺では豊浦寺と共通する高句麗系軒瓦が出土しているだけでなく、時代が遅れるものの白鳳期の法隆寺式軒平瓦も出土することです。つまり、渋川廃寺は法隆寺と接点を持っていたのです。その法隆寺式軒平瓦については、山陽道東半から、南海道、さらに西海道の一部にかけて分布しており、『法隆寺資財帳』に見える法隆寺の庄倉の分布と対応することが知られています。

 そこで、林氏は、渋川廃寺は、上宮王家と関係が深くて水上交通に関わっていた船氏やその一族である利苅村主氏のいずれかによって建立された可能性があると説きます。

 林氏がもう一つ注目するのは、このように、高句麗系の豊浦寺IV系の軒丸瓦を採用した寺院は、大和川沿いに多いにもかかわらず、若草伽藍や四天王寺といった大和川の交通の要衝にある上宮王家の寺院には採用されていないことです(中宮寺は、当初は現在の位置よりさらに数百メートル東にありました)。このため、林氏は、この瓦は王権に従う氏族の寺院のみに採用され、大和川から飛鳥に入ってくる海外の使者などに権威を見せつけるものではなかったかと、推測します。そして、そこに秦氏の介在を想定するのです。

 本論文は、大和川の水運を握り、また対外政策を兼ねて大和側沿いの関係深い氏族の寺に高句麗系瓦を供給したとして、厩戸皇子の役割を重視し、秦氏の支援を考慮しているのが特徴です。自ら「推論に推論を重ねた」と述べているように推測の多い論考ですが、瓦の供給関係を見る限り、蘇我氏と上宮王家と秦氏の結び付き、秦氏の勢力を利用した上宮王家の勢力進展は、否定しがたいものがあります。
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