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隋唐における皇帝と「等身」の仏像: 肥田路美「隋・唐前期の一州一寺制と造像」

2011年10月07日 | 論文・研究書紹介
隋唐における皇帝と「等身」の仏像: 肥田路美「隋・唐前期の一州一寺制と造像」

 偶然このブログを知って来られる人は、「釈迦三尊像」の語を検索したらヒットしたという場合が多いようです。法隆寺金堂の釈迦三尊像は、それだけ注目されているということですが、関心を呼ぶ理由の一つはやはり「尺寸王身」という点でしょう。つまり、上宮王と「等身」ということです。その「等身」についてこれまで論文で触れてきた美術史の肥田路美氏が、「等身」像について詳細に論じた最新論文が、

肥田路美「隋・唐前期の一州一寺制と造像
(『早稲田早稲田大学大学院文学研究科紀要 第3分冊(日本語日本文学・演劇映像学・美術史学・日本語日本文化)』55号、2010年2月)

です。この論文では、一州一寺制と皇帝等身像との関係を取り上げ、玄宗に重点を置いて検討していますが、ここでは、「等身」像の早い例に関する議論の部分だけを紹介させてもらいます。

 等身の像については、唐の玄宗が開元26年(738)に諸州ごとに一寺を選んで開元寺と改称させ、官寺としたうえで、自分と「等身」の仏像を設置させたことが有名です。このため、「尺寸王身」と記す法隆寺金堂釈迦三尊像銘は、そうした事例に基づいて奈良時代に刻まれたのだとする説もありました。しかし、肥田氏は皇帝やそれに近い人物の等身像を作ることは、唐代初期にあるばかりか、隋代から始まっていたことを明らかにしています。

 まず、唐の高祖李淵が武徳元年(618)に即位すると、祖父と両親のために旃檀の等身仏を三躯造っています。これは仏像です。ついで即位した太宗は、建国時の戦乱における戦死者たちのために、交戦地に寺院を建てたほか、長安近くの終南山にあって父帝が行香した太和宮を貞観初年(627)に龍田寺として建てかえ、父である高祖と自分自身の「等身」像を造っていますが、肥田氏は、これは両皇帝の肖像ではなく、両皇帝と「等身」の仏像と推定します。

 肥田氏は、こうした造像は隋にも見られるとし、文帝は開皇元年(581)に即位すると、父が戦功を立てた地域を初めとして、全国に寺院を造営し、さらに晩年の仁寿元年(601)以降、三次にわたって全国百十一個所に舎利塔を立てさせた際、舍利塔に「神尼」の像が安置されたという点に着目します。神尼とは、幼い文帝を養育し、将来、廃仏が行われるものの、この子がやがて皇帝となり「重ねて仏法を興す」と預言したとされる尼僧の智仙のことです。

 文帝は、その恩義に感じて、各地の舍利塔内に智仙の像を置かせたのですが、肥田氏は、山西省の「大隋河東郡首山栖巌道場舎利塔之碑」によれば、文帝誕生時に「智僊」という天女が来臨して預言をしたとし、文帝が匠人を召して「等身像」を鋳造させ、また「僊尼」の画を描かせて帝の傍らに置き、これを四方にわかつことによって「紹興三宝」し、天下に「日角(文帝の額にあった神秘的な突起)」と「龍顔(天子のお顔)」を知らしめたとあることに注目します。これは、顔まで似せた文帝等身の像が造られたことを意味するためです。

 しかも、中央から「造様(作成モデル)」を各地に送って同一設計で舎利塔を建立させ、第一次は十月十五日という文帝の誕生日の正午、第二・第三次は釈尊降誕日である四月八日の正午に、全国一斉で舎利を地下の石函に埋納させたのです。肥田氏は、文帝は自らを釈尊になぞらえたのではなく、「護法の転輪聖王たらんとした」(74頁下)と推測しています。

 こうして肥田論文を読んでくると、やはり隋の文帝の役割が重要ですね。文帝が「菩薩天子」と呼ばれたのは、菩薩戒を受けて仏教復興に努めたからであって、北朝の皇帝のように「皇帝即如来」と主張することはなかったようですが、菩薩というのは次に仏になる存在でもありますので、文帝がそうした菩薩として位置づけられていたとしたら、結果としては仏のイメージが重ねられていることになります。

 このように、倭国の仏法興隆の手本となった隋では、皇帝の「等身」像が神尼の画像とセットにされ、「紹興三宝」のために作成モデルが諸州に頒布されていたのです。隋におけるこうした崇仏事業の情報は、北周の廃仏以後、「重ねて仏法を興」した活動の具体例として、朝鮮諸国や倭国にも伝えられたことでしょう。

【補記:2011年12月13日】
上では「第一次は十月十五日という文帝の誕生日の正午」とありますが、これは上記論文の誤りであって、「この仁寿舎利塔の第一次の建立の宣布が、文帝の誕生日である六月十三日になされ、十月十五日の正午」と訂正すべきであり、近く刊行される肥田路美『初唐仏教美術の研究』では大幅に書き直された論文が収録されると、肥田さんから知らせていただきました。
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