聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

マヘツキミの合議に外から関与した推古朝の世襲制大臣の行方:鈴木明子「律令制形成期における合議制の展開」

2024年05月19日 | 論文・研究書紹介

 クラウタウさんの新刊書、岡田さんの論文に続き、私の研究仲間の論文が出ています。これまで、旧姓での論文を含め、その着実な研究成果をこれまでも紹介してきましたが(こちら、旧姓の宮地明子での論文はこちらこちら)、今回は、推古朝の合議体制から律令形成期の合議体制への移行について論じた論文、

鈴木明子「律令制形成期における合制の展開」
(『寧楽史苑』第69号、2024年2月)

です。

 この論文では、孝徳朝から天武朝頃のあり方が詳細に検討されていますが、ここは聖徳太子ブログですので、申し訳ないことながら、そうした時代との対比のために推古朝について補足説明している箇所を中心に見ていきます。

 鈴木さんは、貞観16年(642)成立とされる「括地志」(『翰苑』所引)が、倭国には十二等の官があり、その第一は「麻卑兜吉寐(マヘツキミ)」であって、漢語では「大徳」という、と記しているしているのは、それほど有名であった証拠と述べます。

 そして、前稿では、倭国の重要方針は大夫(マヘツキミ)たちの合議で決定されており、推古朝においては、蘇我本宗家による世襲大臣制は冠位制を超越する地位であったため、大臣は合議を主催するものの発言はせず、合議体の外から関与したと論じ、合議での決定は大夫による全会一致が原則だったとしていました。

 大王への奏宣は大夫の職掌であって、大臣はおこなっておらず、また外交面では世襲大臣が主導性を発揮していたと鈴木さんは説きます。推古18年(610)10月丁酉条の新羅および任那の使者の来朝記事では、使者が使いの旨を「四大夫」に奏し、それを「四大夫」が大臣に啓しています。

 また推古31年(623)是歳条によれば、新羅征討の群臣会議では不征討・遣使の方向で決着しておりながら、同年、新羅征討が強行されており、同年11月条では征討を主導したのは大臣であったと記されています。

 また、大夫の冠位が大小の徳冠とほぼ同格であるため、大夫の合議は氏族代表による資属間の利害調整の場としての氏族合議体の性格を色濃く残していたものの、大夫層については王権のもとに掌握されることになったとします。
 
 乙巳の変によって蘇我本宗家が亡びると、大化3年(647)に七色十三冠位が設けられ、大臣の紫冠のみならず、皇親も冠位のうちに包摂されました。また、最下位として建武の位を新設し、実務担当の百八十部に与えたため、官位制は朝廷の構成員すべてを含むことになりました。
 
 ただ、阿倍内麻呂が左大臣となり、右大臣となった蘇我氏代表の倉山田石川麻呂の上に立ったことは、群臣の上に位置した世襲大臣を否定したことになるものの、古い冠を廃止した大化4年(648)になっても左右の大臣だけは「古冠」を着したことは、大臣は群臣の上にあるという認識が保持されていたものと見ます。

 さて、推古朝までの合議では、合議内容は主に皇位継承と外交(対外戦争と仏教受容の可否)であって、これが「大事」でした。しかし、皇位継承については、大化改新により皇極が孝徳に譲位した結果、王権の自立的な継承が始まったとされます。

 この後の時期については、『日本書紀』では天皇が大夫に皇嗣選定について諮問したとする記事がありますが、名があがっているのは当時の議政官すべてではなく、また議政官でない者の名も見えているため、臨時的なものであったとします。見解を統一する合議は、内裏とは別の場でなされたのです。

 以後、中大兄皇太子が庶務を委ねられた斉明朝から天武朝に至る合議について検討されていますが、壬申の乱時に、大友皇子が群臣に諮問した例と、近江朝では左右の大臣と群臣が共に「議を定め」たと天武天皇が高市皇子に語ったという箇所を除けば、合議がおこなわれたことを示す資料はないとします。

 つまり、合議を重視しつつ、その外から関与した世襲大臣の見解が優先された推古朝は、群臣合議と世襲大臣の二元的な権力構造となっていたのであって、乙巳の変以後は、王権による自立的な皇嗣選定へと移り、世襲大臣制に代わって置かれた左右の大臣も冠位制度の中にとりこまれ、天武朝になると大臣も置かなくなって合議制そのものが解消されるようになった、というのが鈴木さんの見通しです。


【重要】『日本書紀』中で「憲法十七条」だけが重要箇所で2度用いた語法が三経義疏すべてに!:岡田高志「「憲法十七條」の表現と思索」

2024年05月15日 | 論文・研究書紹介

 「憲法十七条」と『勝鬘経義疏』が『優婆塞戒経』の利用その他の面で似ている点が多く、同じ人物によって書かれたらしいことは、私が以前指摘しました(こちら)。

 今回は、タイトルにあるように、『日本書紀』中で「憲法十七条」だけが、それも重要な箇所で2度用いている語法が、実は三経義疏すべてに見えることを指摘した画期的な論文が刊行されました。

岡田高志「「憲法十七條」の表現と思索-前漢~六朝の「詔書」・諸典籍との比較を通して」
(『古事記年報』第66号、2024年3月)

です。この発見は、数年前に古事記学会の研究会での発表で報告されたため、その論文化が期待されていたものです。私が昨年から『憲法十七条を読む』の原稿を書いておりながら、それが進んでいなかったのは、この論文が出るのを待っていたため、というのも一因です。

 その発表の後、私がリモートでやっていた『勝鬘経義疏』の読書会にも参加してくれた岡田さんは、研究を重ねて発表内容をさらに深め、この論文では、「憲法十七条」と中国の前漢から六朝時代の箇条書きの詔書と比較し、「憲法十七条」が典故に基づきつつ独自の思索をおこなっている点を検討、そして「憲法十七条」独自の語法を三経義疏と較べるという作業をしています。

 岡田さんはまず、「憲法」の語を中国の古典や史書で調べます。『国語』では賞罰を正しくおこなうことが国家の「憲法」であると述べており、また法家の『管子』では、君臣一体で統治すれば、「号令」を通じて「憲法」を明らかにすることができ、国内の風紀を正すことができる、と説いていることに注目します。これはまさに「憲法十七条」の内容と合致しますね。

 そこで、「号令」の例として、これまで「憲法十七条」との類似が指摘されてきた北周の蘇綽起草の「六条詔書」以外に、前漢の「六条詔書」、西晋の「五條詔書」についても比較します。これらは、地方の官吏を対象とし、口頭での伝達や冊書・尺牘の形で頒布されたことが知られています。

 岡田さんは、「六条詔書」の第二条が民に「仁順」を教えて「和睦せしめる」としている点が「憲法十七条」第一条の「上和下睦」と一致すること、前漢の「六条詔書」が「公」に背いて「私」に向かうことを戒めているのは、「憲法十七条」第十五条が「背私向公」を命じているのと共通すること、これらの詔書と「憲法十七条」は似ている面がかなりあること、また、「憲法十七条」は嫉妬の害を説くが中国の詔書にはそうした点はないことなどを指摘します。

 つまり、「憲法十七条」は役人あてに出された中国の箇条書きの詔書とかなり共通する面と、独自な面があるとするのです。その独自の面の一つは、「憲法十七条」がしきりに「聖」に言及してその意義を説いていることです。

 『日本書紀』では、「聖」の語は神、天皇、皇太子を指しており、官人に「聖」になるよう促すのは「憲法十七条」のみです。また、推古紀では、行路の死人を「聖」と呼び、慧慈を「聖」としていますが、これらの用法は「憲法十七条」を含めて厩戸皇子関連に限られることに岡田さんは注意します。

 このように、「憲法十七条」は『日本書紀』中で異質なのですが、その例の一つが、「憲法十七条」のが第四条では、民をおさめる根本は「要在乎礼」と述べて「礼」が根本であることを強調し、第九条では事業がうまくいくか失敗するかは「要在于信」と述べて「信」が大事であることを強調していることです。『日本書紀』ではこの二例を除いて、「~は、要は~に在り」という語法は見られません。

 岡田さんは、「の要は~に在り」といった形の用例は、法家の文献である『管子』や儒教とは異なる独自の思想を説いた『荀子』、鳩摩羅什の弟子である僧肇の『注維摩』などに見えることを指摘します。

 「憲法十七条」が法家の思想、特に『管子』に頼っていることは、山下洋平さんが指摘したことですし(こちら)、『注維摩』は、僧肇の注釈を柱として羅什その他の『維摩経』の注釈を編纂した書物であって、岡田さんは触れていませんが、『維摩経義疏』が用いた注釈ですね。

 ここで驚くことに、岡田さんは、「憲法十七条」が重要な箇所で強調するために用いている「要在~」の語法が、『勝鬘経義疏』に4例、『法華義疏』に1例、『維摩経義疏』に2例見えることを指摘します。

 つまり、『勝鬘経義疏』と「憲法十七条」が内容面で共通する点が多いことは、私が以前指摘したことですが、それが語法の面でも立証されたことになるのです。しかも、私の前回の論文では、「憲法十七条」と『勝鬘経義疏』の類似を指摘しただけだったものが、岡田論文では、「憲法十七条」が重要な箇所で用いている語法、それも『日本書紀』で「憲法十七条」だけに見えている語法が、三経義疏すべてに登場することを明らかにしたのです。

 三経義疏はいずれも語法がきわめて類似してることは、花山信勝などが戦前から論じていましたが、そうした人たちは熱烈な聖徳太子信仰を有する僧侶学者がほとんどだったため、古代史学界からは信用されない面もありました。

 それと違い、僧侶ではない一般研究者の私がNGSMシステムを用い、変革語法も含めた多くの例を示して三経義疏の語法の類似を論証しましたが(こちらなど)、今回はまた一般研究者の岡田さんよって研究がさらに進んだことになります。

 『日本書紀』における厩戸皇子の事績については、編集段階でかなり潤色されていることが指摘されていたうえ、『勝鬘経』や『法華経』の講経は記されていても三経義疏には触れられていなかったため、三経義疏は懐疑的な史学者たちによって疑われてきました。また、朝鮮の書物だとか、百済・高句麗から来た僧侶などによって書かれたとする説もありました。

 しかし、三経義疏は6世紀初め頃の梁の三大法師の注釈を基調としており、太子当時は、中国でも朝鮮でも時代遅れになっていたうえ、変革漢文が目立つものの、古代朝鮮の変格漢文とは違っていることも私が指摘しました(こちら)。

 今回の岡田さんの論文は、これまでのこうした指摘の決定打となるものです。聖徳太子に関する伝承には後代に創作されたり、誇張されたりしたものが多いことは事実であるものの、「憲法十七条」については、『日本書紀』編纂時の多少の潤色はあるにせよ、基本は推古朝と見てよい、というのが現在の学界では主流の見方となりつつありますが、その点はこの論文で確定すると思われます。

 また、「憲法十七条」と三経義疏については、百済や高句麗から来た僧や学者が支援したにせよ、書いているのは同じ日本人であるらしい可能性も、これで非常に高まりました。

 ただ、律令が作成された後、天孫降臨神話によって天皇の権威を説いた『日本書紀』の編者が潤色するなら、なぜ「天皇」の語や「神」の語を用いなかったのかという疑問があるうえ、守屋合戦の記述の後に付された忠犬伝承を見ても、『日本書紀』が原史料をそのまま貼り込んだ部分があることは明らかですので(こちら)、「憲法十七条」についても大幅な潤色はなかったものと私は考えています。

【追記:2024年5月19日】
雑誌の刊行を5月と書きましたが、奥付を見たら3月刊となっていたので訂正しました。実際に出たのhは5月ですが、年度内に刊行したことにするというよくある事情によるものです。


片岡山飢人伝説は『日本書紀』編者の創作ではない:三舟隆之「片岡山飢者説話の形成」

2024年05月06日 | 論文・研究書紹介

 聖徳太子虚構説については賛同者はおらず、この10年以上は相手にされなくなっていて批判すらされていない、とこのブログで何度か書きましたが、最近になって批判している珍しい例が、

三舟隆之『片岡山飢者説話の形成:日本書紀』『日本霊異記』『万葉集』から―」
(小林真由美・鈴木正信編『日本書紀の成立と伝来』、雄山閣、2024年)

です。

 三舟氏は、片岡山飢者説話に対する戦前からの諸説をざっと紹介した後、大山誠一氏の聖徳太子非実在説(厩戸王実在説)では聖徳太子関連の資料を片っ端から否定しており、中でも『日本書紀』の片岡山飢者の記事はフィクション性が高いとされ、道教好きの長屋王が創作したものとして簡単に扱われていると述べます。

 そして、非実在論について詳しく検討はしないが、この説に全く触れずに片岡山飢者説話について述べることはできないため、自分の見解を示すとして、聖徳太子という名は後代のものであるにせよ、経済力と政治面から見てその尊称にふさわしい人物であったとします。

 そして、石井公成が指摘するように、非実在論は考古学や美術史の成果を考慮しておらず、問題が多いと述べます(言及、有難うございます)。拙著をあげてくださったのは有り難いですが、だったら、大山氏が本名だとして強調する「厩戸王」は、戦後になって仮に想定された名であることにも触れておいてほしかったところです。

 それはともかく、三舟氏は『日本書紀』、『日本霊異記』、『万葉集』の片岡山飢者説話を比較することから始めます。

 720年成立の『日本書紀』では、聖徳太子が片岡山に遊行した際、道ばたで臥せっている飢者に出逢ったため飲食を与え、自らの服を脱いで着せ、飢者を憐れむ「しなてる片岡山~」の歌を詠み、翌日、見に行かせると死んでいたため墓に埋葬させ、後日、「真人」だろうとして使者に調べに行かせると、死骸はなく、衣服のみが棺の上に置いてあったため、太子はその衣を取り寄せて着たため、世人は「聖人は聖人を知るというのは本当だ」と感嘆した、となっています。

 奈良朝末期から平安初にかけて編纂された『日本霊異記』では、片岡の路で乞食が病気となって臥せていた。太子はともに語り、着ていた衣を脱いで病人に覆い、戻ってくると、その衣は木の枝にかけられていて乞食はいなかったため、太子は周囲が卑しい人が着て汚れていると反対したのに衣を身につけた。乞食はほかの場所で死んでいたため、法林寺の東北の山に墓を作らせ、後に使いを派遣すると、墓の入り口は開いていないのに埋葬者はいなくなっており、「鵤の富の小川の~」の歌が戸に立てかけてあったため、太子は黙然とした。誠に聖人は聖人を知り、凡人の目には見えないものだ、としめくくられています。

 8世紀中頃に編纂された『万葉集』では、上宮聖徳皇子が竹原の井に出遊した際、龍田山の死人を見て悲傷して詠んだ歌は、「家ならば妹が手まかむ草まくら旅に臥やせるこの旅人あはれ」、となっています。

 飢者の「富の小川」の歌と、憐れんだ太子の「しなてる片岡山」の歌を並べるのは、中西進が指摘したように、太子に仕えた調使・膳臣家の記録に基づくと称して神秘的な伝承を並べたてた平安初期の『上宮聖徳太子伝補闕記』が最初です。

 それ以前に成立したと推測される『上宮聖徳法王帝説』には飢者説話は収録されておらず、巨勢三杖が太子の死を悼んで詠んだ歌の中に「富の小川」の歌が見られるため、初期の法隆寺系の史料には飢者説話はなかったと思われると三舟氏は説きます。

 上記の比較が示すように、『日本書紀』と『日本霊異記』と『万葉集』は場所や登場人物や歌などが異なっており、『日本書紀』の編者が創作した逸話が広まるうちに詳しくなっていったようには見えません。

 そこで、三舟氏は片岡の地について検討します。

 まず片岡廃寺(片岡王寺跡)は、明治まで土壇が残っていて四天王寺式伽藍配置であったことが分かっており、出土する瓦から見て7世紀前半の建立があることが明らかになっています。

 西安寺跡も四天王寺式であって、若草伽藍と同笵の瓦も出ており、7世紀前半造営の可能性がある寺です。

 尼寺廃寺のうち、巨大な心礎が発見されている北廃寺は、東面する法隆寺式伽藍配置をとっており、創建期の軒丸瓦は最初期の坂田寺と同笵であって、以後、四天王寺と同笵の素弁蓮華文軒丸瓦や川原寺式の複弁蓮華文軒丸瓦が出土しており、7世紀前半の建立で、7世紀後半に川原寺式の瓦を用いて整備されたようです。

 南廃寺は、調査不十分で伽藍配置などは不明であるものの、若草伽藍と同笵の瓦が出ているため、北廃寺と同様に7世紀前半の建立の可能性があります。

 これらの寺の檀越については諸説ありますが、『法隆寺伽藍縁起并資材帳』によれば、「片岡僧寺」と見えており、瓦などから見て、上宮王家と関係が深かったことは明らかだとします。

 ここで三舟氏が注目するのが、飛鳥池遺跡北地区から出土した木簡に、「五月廿八日飢者賜大俵一/道性/六月七日飢者下俵二/受者道性女人賜一俵……」とあることです。内容から見て、天武5年(676)から翌年にかけての飢饉の際の対策のようであって、飢者や女人に食料を配給しているのですが、それを取り次いだのが道性という名の僧侶らしいことです。

 つまり、僧侶が困窮した人々に対する支援活動にあたっていたのです。三舟氏は、厩戸王や法隆寺などの僧侶もこうした活動に携わっていたものと見て、以下のような説話の進展を想定します。

 まず、7世紀前半に片岡・竜田あたりでこの説話の元となる説話が成立し、それに尸解仙説話が加わって8世紀前半頃に『日本書紀』の説話となり、加わっていない形が『万葉集』の説話となり、『日本書紀』の説話がさらに巨勢三杖の挽歌を加えて8世紀後半に『日本霊異記』の説話へと成長し、さらに9世紀前半に『日本書紀』と『日本霊異記』の説話に、「調使家記」を加えて『上宮聖徳太子伝補闕記』の説話となって定着していった、という流れです。

 聖徳太子の生前の段階でこの説話が形成されていたかどうかは分かりませんが、四天王寺が後に悲田院などの福祉事業を始めていることから見ても、聖徳太子の仏教受容が貧民支援の活動を含んでいたことはありうることです。中国でも、寺院はそうした活動をしていました。

 その結果、聖徳太子没後になって関連の寺がそうした活動をする際、元祖として太子の逸話を強調したことはありうることでしょう。三舟氏は、太子関連の伝承は後代作成のものが多いことを認めたうえで、そうした伝承の背景について考えていくことが必要だとしており、これは納得できる意見です。


中華意識を持ったアジア諸国の一つとしての倭国:川本芳昭「《日本側》七世紀の東アジア国際秩序の創成」

2024年05月01日 | 論文・研究書紹介

 中国の中華意識は有名ですが、実は、中国北地の北方遊牧民族国家や中国周辺の国家の中にも、中華意識を持っていた国はいくつもあります。そうした国々と比較しつつ、倭国について検討したのが、

川本芳昭「《日本側》七世紀の東アジア国際秩序の創成」
(北岡伸一・歩 平編『「日中歴史共同研究」報告書 第1巻 古代・中近世史篇』、勉誠出版、2014年)

です。日本・中国・韓国は、歴史観の違いによってこれまでいろいろな問題が起きてきましたが、この本は書名が示すように、日本と中国の学者が協議してそれぞれの視点を示し、ともに認めることができる事実を明らかにしようとした試みの一つです。川本氏は、外交面などに注意している東洋史学者です。

 川本氏のこの論文の次には、王小甫「《中国側》七世紀の東アジアの国際秩序の創成」が掲載されています。このように、諸国の研究者がそれぞれの視点で意見を出し合い、協議していくことが大事ですね。聖徳太子関係を含め、トンデモ説や闇雲な日本礼賛主張者は、様々な史料をきちんと読まず、自説に有利な箇所だけを切り貼りして妄想をくりひろげるタイプばかりですので、文献派の海外の研究者からは相手にされません。

 さて、『宋書』倭国伝に見える478年の倭王武の上表文では、宋の順帝に対して自らを「臣」と称していましたが、埼玉県の稲荷山古墳から辛亥年(471)の年紀を有する鉄剣の銘文には、「治天下大王」とありました。つまり、倭国王は、「天下」を統治する皇帝を自認していた順帝に対しては「臣」と称しているものの、それより早い段階で、国内に対しては「治天下大王」と称していたのです。

 これはダブルスタンダードですが、こうした姿勢は、実は多くの国に見られるものでした。たとえば、高句麗では、漢の支配拠点であった楽浪を313年に陥落させて勢力を伸ばした結果、高句麗王は「好太王碑」が示すように、中国周辺国の「~王」との違いを示すため、「太王」の称号を用いるようになり、独自の年号まで使い始めます。

 「好太王碑」では、高句麗の由来について述べた部分では、鄒牟王は「天帝の子」であるとし、「我は是れ皇天の子」という言葉を記しています。これを漢文表記したら「天子」ですね。さらに好太王の子の長寿王時代の地方官であた牟頭婁という人物の墓誌には、「天下四方」の語も見えています。つまり、天下を統治する中国の皇帝のように、高句麗王が自分なりの「天下四方」を治めるとされていたのです。

 こうした中華意識は、やや遅れて百済や新羅にも見られるようになり、倭国もそれに続きます。さらに後に、ベトナムも同じことをやり、中国に対しては朝貢して「王」と名乗り、周辺国に対しては「皇帝」と称します。

 面白いことは、そうした傾向が中国でも見られることです。北方遊牧民族である鮮卑族が中国の山東地域に建国した南燕の王であった慕容鎮は、自分たちを「中華」と呼び、南地の漢族の王朝である東晋のことを、全身に入れ墨をして海に潜るような「南蛮」の国家とみなしていました。

 こうした意識が、遊牧民族が建国した北朝の多くの国に受け継がれました。当然ながら、南朝の国家は自分たちこそが天下を治める正統な皇帝の国であるとし、北方の国家を蕃族の国家とみなしていました。その北地の国家の一つが勢力を伸ばし、中国全土を統一したのが隋であり、その皇帝の親族が打ち立てたのが唐であったのです。

 その隋に対し、長らく南朝に「臣」として接して将軍の号をもらっていた倭国が、開皇20年(600)に久しぶりに使節を派遣します。隋の文帝が役人に命じてその使節に倭国の風俗を尋ねさせると、使節は「倭王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天がまだ明けざる時に出て政を聞き、跏趺坐す。日出づれば便ち理務を停め、我が弟に委ねんと云う」と答えたと、『隋書』倭国伝にあることは有名です。

 この説明を聞いた文帝が「はなはだ義理無し」と呆れ、改めるよう訓令したと記されているのは当然でしょう。その結果、大業3年(607)に「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや」という国書が送られるようになったわけです。

 この国書について、川本氏は、「日」は中国では皇帝そのものを指しているため、それを弟扱いしているということになるとしていますが、いくら何でも、倭国が意図的に隋を弟扱いしたとは考えられません。

 私は、「天の日を兄弟としている」といった和語を、中国側が文飾して「以天為兄、以日為弟」と対句にしたのではないかと疑っていることは、拙著で書きました。

 川本氏は、次の派遣使節が提出した国書の「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」の文は、いかに不遜に見えようとも、「天の弟」「日の兄」などと言っておらず、訓令に従って改めたと見ています。

 これを見た煬帝は不快になったものの、身分の低い裴世清を使いとして送って宣諭させたため、川本氏は、倭国は「天子」の語は用いず、煬帝を「先輩か兄に見立て」た「東天皇敬白西皇帝」で始まる国書を送ることによって、「一定の常歩を示しつつも、一貫して強い自己主張を貫いている」とします。

 つまり、こうした状況で「天皇」の語が用いられたのであって、この語はまず外交文書で使われはじめ、従来の大王あるいはオオキミと併用されながら国内でも用いられるようになり、律令において正式な称号として確立したと、川本氏は推測します。

 問題は、『旧唐書』倭国伝が貞観5年(631)のこととする記事です。唐は新州刺史の高表仁を派遣したものの、「綏遠の才無く」、つまり蛮夷を慰撫する才が無く、王子と礼を争い、朝命を宣せずして還る」とあります。「開元礼」では、皇帝の使者が蕃国を訪れた際は、使者は蕃国側の再拝の礼に答えず、皇帝の詔書を宣し、蕃国側は北面して詔書を受け取ることになっていました。

 礼を争ったとある以上、倭国側はそうした形で詔書を受け取ることを認めなかったことになりますが、そうなると、高表仁より官位が低い裴世清の時はどうだったのか、倭国王を拝するなどしたうえで、国書や言葉だけは伝えたのか、ということになります。

 奈良時代になって778年に唐の使者、趙宝英が派遣された際は、趙宝英は遭難し、部下の孫興進が来日したのですが、孫興進とともに帰国した遣唐使の小野滋野は、新羅や渤海など日本が蕃国とみなす諸国からきた国使を迎える際の礼式で対応すべきだと主張したものの、中納言石上宅嗣は、蕃主が中国皇帝の使節を迎える礼で迎えるべきだと主張した由。

 ともかく、中国で南北朝時代が終わる頃になって北朝の勢力が強まっていくと、南朝と連動、ないしその傘下にあった柔然、吐谷渾、雲南の勢力、高句麗、百済などは相次いで亡び、それらの背後にあった突厥、吐蕃、南詔、渤海、新羅、日本などが興隆してきます。

 つまり、北地の夷狄であった五胡の中から登場した北魏が、漢民族の南朝とならぶ「朝」とみなされ、その北朝を承けて隋唐が中国の正統な王朝となるという現象が起きたのであり、これが中国周辺の諸国の興亡はつながっているのです。

 倭国が遣隋使、遣唐使を派遣して国政を変革させ、白村江の敗北を経て古代律令制国家を築いていったのは、東夷であった倭国が周辺に対して中華として振る舞うようになった動きと連動しているのです。その日本の変化は、単なる国内問題、あるいは朝鮮半島の動きとの関係といった視点ではなく、中国を中心とした「天下」の動きの中でのことであった点に注意すべきだ、というのが川本氏の結論です。


最近の研究成果を踏まえた穏健な聖徳太子論であって「和」の特質を強調:頼住光子「仏教伝来と聖徳太子」

2024年04月27日 | 論文・研究書紹介

 2018年に放送大学のテキストとして末木文美士・頼住光子共編でNHK出版から刊行された『日本仏教を捉え直す』が、修正・加筆のうえ、末木文美士編著『日本仏教再入門』となって講談社文庫から10日ほど前に刊行されました。最近の研究成果を踏まえた充実した内容になっています。

 末木さんが「はじめに」「序説」と日本仏教の特質に関する諸章、頼住さんが人物を中心として古代から中世までの諸章、大谷栄一さんが近代仏教の形成・グローバル化・社会活動などの諸章を担当し、最後の第十五章「日本仏教の可能性 まとめ」は、頼住「仏教思想の観点から」、大谷「近代仏教の観点から」、末木「仏教土着の観点から」という形で三人がそれぞれの立場で語っています。従来の日本仏教史の本とは異なる視点での記述が目立ち、有益です(献本してくださった三人の著者の皆さん、有難うございます)。

 ここは聖徳太子ブログですので、この本のうち、

頼住光子「第二章 仏教伝来と聖徳太子 日本仏教の思想Ⅰ」

をとりあげます。頼住さんは、日本倫理思想史を専門とする東大の教授でしたが、道元の研究で知られているためか、私が3年前に定年退職した曹洞宗系の駒澤大学仏教学部にこの4月から移られたため、私とはすれ違いになってます。

 この第三章では頼住さんは、人間は「超越的なるもの」を見いだすことによって、「この私」を成立させ、また「この私」の延長上にある共同体を成立させたというところから話を始めます。これは、日本人にその「超越的なるもの」を教えたのは仏教だからです。

 むろん、日本には日本なの信仰があったものの、それを意識して言葉で表現することを可能にさせたのは仏教でした。神道は、土着のカミ信仰が仏教の刺激によって自覚され、形成されていったのです。

 また逆に、日本の伝統的など土壌が仏教の受容に影響を与えますし、仏教や儒教のような外来の思想同士がある時には融合し、ある時には反発しあいながら日本風な仏教や儒教が形成されていったのだと頼住さんは説きます。
 
 日本には儒教と中国化された仏教が入ってきますが、儒教と仏教の関係について、頼住さんは3つの類型をあげます。(1)対立、(2)融和、(3)包摂、です。これは、宗教的多元論に関する議論で用いられる分類ですね。「包摂」というのは、どちらかが上となって相手を取り込む関係です。
 
 そして、頼住さんは、儒教は日本においては支配層からは、統治のための教え・道徳として摩擦なく抵抗なく受容されたとします。ただ、日本は儒教を受容したものの、天皇による神々の祭祀と衝突するため、「祭天」の儀礼は取り入れなかったことに注意します。

 これは重要な指摘ですね。唐王朝は北方遊牧民族出身ながら老子を祖先と称して祀っていたためめか、日本は遣唐使を送って盛んにあれこれ学んでおりながら、老子に基づくとされる道教の導入は拒否したこととも関わるのでしょう。

 一方、仏教については、受容に際して神々の祭祀と関わるとされ、紆余曲折があったことは良く知られていますが、受容されて王権守護、祖先祭祀などの面で共同体と結びつけられてからは、日本文化の最深部にまで浸透していったとします。これは、仏教教理の専門家などはあまり注意しない視点です。

 頼住さんは、そうした状況で登場したのが聖徳太子の「十七条憲法」であったと説きます。

 なお、私の方で補足しておくと、「十七条憲法」という呼び方には注意が必要です。『日本書紀』では「憲法十七条」とありましたし、古い注釈では「十七条憲章」とか「十七条之憲法」などと称していました。やや遅れる『聖徳太子平氏伝雑勘文』では「十七条憲法」と呼んでいますが、そういう呼び方が広く用いられるようになったのは、明治になって「大日本帝国憲法」が制定され、その先蹤という意味で用いられることが増えてからのことです。

 ともあれ、著者が用いているのでここではその呼び方を用いますが、「十七条憲法」の作者とされる聖徳太子については、その実在性も含めて議論が盛んであるものの、後に聖徳太子と呼ばれる人物が推古朝に蘇我氏の協力のもとで国政にたずさわったことは確かとされている、と頼住さんは述べます。

 さらに、国語学・歴史学の側からも『日本書紀』掲載の「十七条憲法」、少なくともその原型は推古朝にさかのぼる可能性が指摘されているとします。これが最近の学界の動向ですね。

 そして、「十七条憲法」は、地方官たちに対する倫理規定である北周の「六条詔書」など、北朝の官僚に対する倫理規定と類似しており、その影響下で作成されたと言われていると述べたうえで、「和」を冒頭にかかげるのは「十七条憲法」の特徴であることに注意します。
 
 ついで、第一条が強調する「和」に関して儒教由来・仏教由来とする議論を紹介したうえで、儒教であれば「和」と結びつくはずの「礼」がここで説かれていないことを指摘します。

 また、仏教では僧伽(僧団)の平等な和合を重視し、また様々なことを共に行うべきだとする「六和敬」を説いていることに注目し、「十七条憲法」が想定する官人集団も「共にこれ凡夫」と言われている点などから見て、仏教の「和」と似た性格を持つとします。

 となると、「憲法十七条」は全体として仏教色が強いものいうことになります。こうした理解を強調したのは、日本思想史の村岡典嗣であって、その考察が優れていることは、このブログでも指摘しました(こちら)。

 ただ「六和敬」については、隋の三大法師とも称される慧遠や吉蔵などもしばしば触れていますが、具体的なあり方に関する議論はほとんどなく、また三経義疏では六和敬について説明していないことが気になります。

 また、頼住さんが重視する「憲法十七条」の「共にこれ凡夫」の「凡夫」は、仏教の「凡夫」ではなく、儒教の人性論における「並みの人間」を指すことは、拙著の『聖徳太子―実像と伝説の間―』でも書いておきました。「和」を仏教色が強いものと見る点は賛成ですが、その基盤を大乗の「自他不二」の思想に求めるのは、理想主義的すぎる見方のように思われます。

 頼住さんは、拙著をこの章の参考文献としてをあげてくれているうえ、このブログも時々見てくださっているようですが、山下洋平さんが法家の影響の強さを強調したように(こちら)、「憲法十七条」はあくまでも統治の法であって、ここに仏教の道徳面を見いだそうとしすぎる点は賛成しかねます。

 「憲法十七条」の「和」については、拙著で触れたほか、古い論文でも書いたうえ(こちら)、少し前に「憲法十七条」の基盤となる仏教経典をを発見し(こちら)、「礼楽」という言葉が示すように、儒教の「礼」は「和音」を重要要素とする「楽」と結び着いているのに、「憲法十七条」では「楽」に触れず、仏教がその代役を果たしていることなどは、このブログでも報告しました(こちら)。「憲法十七条」については本を執筆中ですので、詳しいことはそちらに書きます。

 ともかく、この頼住さんによる第三章の聖徳太子論は、枚数の制限もあって簡略に書かれていますが、全体としては現在の学問成果を考慮した穏健な論述となっており、重要な視点も示した概説となっていると言えるでしょう。儒教の受容のされ方と仏教の受容のされ方の違いを指摘した点などは、大事な点です。

【追記:2024年4月28日】
頼住さんは、ネットの動画でも聖徳太子について3回の連載で解説しています(「憲法十七条」に触れた回は、こちら)。ネット上には、頼住さん以外にも聖徳太子について解説する動画がたくさんあがってますが、日本を闇雲に礼賛するサイトで予備校講師などが多くの分野について自信満々に語っている類の動画は、話題の本を数冊かじっただけの内容を受け狙いで大げさに話していることが多く、専門知識がないため初歩的な間違いをしているうえ、中には陰謀説のようなトンデモ論も混じっているものが目立ちます。ここで紹介して批判しようかと考えたこともあるのですが、その動画を見る人が増えても困るので、やめています。この手の人たちの特徴は、原文を自信をもって解説することはできないため、原文には触れないか、他の人の訳を利用して一部だけとりあげ、「要するに~ということです」などとまとめることです。「教科書では教えませんが、実は~」などと語ることも多いですね。私も大学院生時代に予備校や塾でバイトで教えていた頃は、生徒の注意を引こうとしてそうした話し方をしたこともあるため、分かるのですが、問題は上記のような人たちの中には、表現をおだやかにしてあるものの、論旨そのものは戦前の狂信的な右翼の主張や戦後のオカルト説に似ている場合が多いことです。「聖徳太子はいなかった。不比等と長屋王と道慈がでっちあげたのだ」というセンセーショナルな説もそうでしたが、陰謀説だと、すべてを簡単に説明できてしまい、聞いている側はスッキリするうえ、自分はそうした歴史の秘密を知っているのだという優越感を味わえるのですね。この点は九州王朝説も同じですね。実際の歴史は、諸要素がからみあっていて複雑であるうえ、資料不足で断定できない場合が多いわけですが。


古代日本は家族が未成立、中国と違って直系相続の意識無し:官文娜「日本古代社会における王位継承と血縁集団の構造」

2024年04月22日 | 論文・研究書紹介

 前回、日中を比較して「朝政」の検討をした馬豪さんの論文を紹介しましたので、同様に中国人研究者による日中比較の論文を紹介しておきます。

官文娜「日本古代社会における王位継承と血縁集団の構造-中国との比較において-」
(『国際日本文化研究センター紀要』28号、2004年1月)

です。20年前の論文ですが、この方面の論文は以後、あまり見かけないため、取り上げることにしました。

 官氏は、冒頭で「日本古代社会には有力豪族による大王推戴の伝統がある」と断言し、大伴氏・物部氏・蘇我氏・藤原氏らは次々に王位継承の争いに巻き込まれ、その勢力は関係深い王の交代によって増大したり衰えたりしたことに注意します。

 そして、6~8世紀には、王位継承をめぐる豪族同士の争いにおいて非業の死をとげた皇族が10数人以上におよぶのに対し、古代の中国では、王位をめぐる争いは常に統治集団内部の権力闘争だったと官氏は述べます。

 中国では、夏の時代に「父子相承」の形での直系相続が既に確立していたものの、後継ぎの子が幼い場合など、王の弟らが争って王族内に殺し合うことが多かったため、殷の時代には一時期ながら兄弟継承という形態がとられました。ただ、この混乱を避けるため、周の時代に嫡長男が王位を継承する制度が確立され、以後、これが中国の伝統となりました。

 これは兄弟姉妹が王位を継承した古代日本と違うところです。官氏は、日本の学者の一部が姉妹による継承を「中継ぎ」とみなしていることに反対します。直系相続が伝統になっていない状況では、直系相続をおこなうための臨時の中継ぎという形はありえないからです。

 女性の天皇たちについては諸説がおこなわれており、亡くなった天皇の皇后が即位することもあったものの、官氏は、皇族の女性という資格だけで即位している例もあることに注意し、当時にあっては、王位の継承者は成人(30才以上)でなければならないとする習慣の存在が大きかったと見ます。

 中国でも兄弟継承はおこなわれていましたが、これは「父子相承」の習慣が確立した後のことであり、王の子が幼いために王の弟が即位した場合、弟は自分の子を次の王にすることもありましたが、それは利己的な行為とされ、非難されたため、継承制度の主流にはならなかったと官氏は説きます。

 王の弟が即位しても、亡き王の子が成人したり、戦争などが終わって政治が安定したら、王位を前王の子に譲るのがあるべき姿とされたのです。

 一方、日本では30才以上でないと王位につけなかったうえ、譲位の習慣が無かったのですから、「中継ぎ」はありえないことになります。女性の身で即位して初めて譲位した皇極天皇は、軽皇子(孝徳天皇)に王位を譲ったわけですが、軽皇子は自分の子ではなく、前の天皇の子でもなく、自分の弟ですので兄弟姉妹継承であって、「中継ぎ」とも言えないことになります。

 しかも、古代日本の王位継承者は、有力な豪族たちの合意によって決定されていました。「皇太子」の制度は律令制からとはいえ、王を補佐し、その後継候補となる皇族はいたでしょうが、欽明天皇の嫡子であって「皇太子」となったとされる敏達天皇が亡くなり、その異母妹であった皇后の推古が天皇となると、推古は敏達と自分の間に生まれた皇子ではなく、自分の兄である用明天皇の子を「皇太子」としているのです。

 官氏は、『日本書紀』が「皇太子」としている皇族が必ずしも即位していないことに注意し、持統朝までの立太子は皇位継承者という位置づけより、天皇の補佐役となってある場合は天皇に代わって国政に参与する立場であったとする村井邦彦氏の説を紹介して賛同し、ヒツギノミコは一人とは限らなかったとする説もあることに注意します。

 そして7世紀にあっては、天皇を中心とする単位家族は成立していないため、直系相続もなかったのであって、これが変化するのは持統・元明朝からとします。持統天皇は在位中の11年(697)の春に15才だった軽皇子を太子に立て、同年8月に譲位して文武天皇とします。歴史上初の未成年の天皇の誕生です。

 しかし、文武天皇が25才で亡くなり、文武と不比等の娘の宮子の間に生まれた首皇子は僅か7才であって、天智の娘、持統の妹、草壁皇子の妃、文武の母である言天皇が即位し、首皇子が14才になった段階で皇太子としたものの、まだ幼いという理由で、自分と草壁の間の娘であって文武天皇の姉であった元正に譲位します。男子の直系相続はなされていません。

 いずれの国においても、王位の継承法はその国の血縁集団の特質と結びついており、中国の法令制度が日本に伝わっても、日本の血縁集団の構造自体は変わらないのです。持統天皇以後も、直系、あるいは嫡子相続はなされておらず、中国と違って女性たちが何人も皇位についているのです(女性を認めない儒教社会である中国において、皇位についたのは、仏教を利用して弥勒の化身と称して即位した則天武后ただ一人ですね)。

 官氏は、推古と持統は「優れた政治的能力を持った女帝」だったと評価します。お飾りでも中継ぎでもなかったのです。しかも、皇位継承をめぐる争いの中で多くの皇子たちが殺されたにもかかわらず、推古から元正に至るまでの六人、八代、計86年の間、女帝に反対して争いが起きたことはなかったと、官氏は指摘します。これは重要ですね。

 官氏は、当時は特定の天皇の単位家族は成立しておらず、近い皇族であれば男女の誰もが王位継承の資格があるとされ、皇后になっていなくても皇女であれば即位できたとし、だからこそ皇族内での極端な近親結婚が行われたのだと結論づけています。

 こうして見ると、「女帝中継ぎ論」は、儒教的な考えが広まった近世以後、明治以後の発想だったことが良くわかりますね。その国の特徴を知るには、やはり他の国と比較しなければならないということです。なお、私の『東アジア仏教史』(岩波新書)は、諸国の仏教の比較だけでなく、相互交流・相互影響という点に重点を置いて書いてあります。


朝政成立史においては推古朝が画期的:馬梓豪「日中比較からみる日本古代朝政の特色」

2024年04月17日 | 論文・研究書紹介

 まだ中国です。中国はネット規制が強いため、前の記事では次の記事は帰国後にアップすると書きました。実際、泊まっているホテルのWi-Fiではこの太子ブログにアクセスできなかったのですが、帰国する日の早朝(時差は1時間)に目が覚めてしまったため、別の経路でアップすることにしました。

 古代史は東アジアの政治情勢の中で展開していきましたので、海外からの視点から見てみることも必要です。その一つが、

馬梓豪「日中比較からみる日本古代朝政の特色」
(『国際日本研究』10号、2018年3月)

です。つくば大学の雑誌であって、この時の馬氏は大学院の博士後期課程の学生です。

 馬氏は、「朝政」という言葉の検討から始め、古代中国では、朝、臣下たちが君主にまみえたことが原義であったとし、平安時代では『源氏物語』に「朝政」を「あさのまつりごと」と呼んでいる例があるが、飛鳥時代から奈良時代にかけては、分析に足るだけの「朝政」の用例がないと述べます。

 ただ、政治がおこなわれる場所である朝堂については、7世紀には成立していたとされており、最古の遺跡は、孝徳朝の難波長柄宮と推定される前期難波宮の朝堂院です。『日本書紀』の推古紀や孝徳紀には、「庁」に関する記述が散見されるものの、朝堂の前身と推測されているだけであって、実態は不明です。

 実際、天武・持統期の飛鳥浄御原宮の遺跡では朝堂の遺跡は発見されていません。平安時代の十二朝堂は、中国の朝堂とは異なりますし、どこまで遡れるのかは明らかになっていないのです。

 とりあえず、馬氏は中国における「朝政」について、「朝」の字について検討することから始めます。諸文献に見える用例の変化を追い、馬氏は、両漢から魏晋南北朝までは、皇帝と官僚集団が相対的に独立しており、政策は各層の会議による官僚の集団意志と皇帝の裁可によって成立していたのに対し、隋唐になると、朝堂を外朝化することによって皇帝一人による一元的な「朝政」が出現したとします。

 一方、日本については、7世紀までは秦漢頃までの中国に似ており、諸豪族の連合政権であったと言えるとします。そして奈良時代の律令制は遣唐使を通じて唐の政治を取り入れたとされるものの、むしろ平安前中期の方が唐の制度に近いと述べます。律令制は、大化以前の伝統が唐制と妥協して生まれたものとするのが馬氏の見解です。

 『日本書紀』における「朝政」の初出は天武12年であって、「朝」は「みかど」と訓まれ、「朝政」が行われていた場所を指し、「政」は君臣に通じる「まつりごと」であったというのが馬氏の見解です。

 そこで、『日本書紀』における政治関連の「朝」「朝庭(廷)」の用例を検討し、「天皇・中央政府」、「宮・庭などの場所」、「天皇の治世」、「国家・国土」の4種に分けられるとして、崇神天皇紀以後の用例を分類していきますが、「天皇・中央政府」の用例が急に増えるのは、敏達朝と崇峻朝です。

 そして、「宮・庭」などの用例が急に増えるのは、推古・舒明・皇極・孝徳・斉明天皇の時であって、「朝廷」の語は推古朝に1例、孝徳朝に3例、天武朝では6例も見られます。推古朝に続く舒明朝では、「天皇の治世」「国家・国土」の例もそれぞれ1例登場します。このため、馬氏は小墾田宮が造営された推古朝を画期とみなします。

 つまり、宗教的な「まつりごと」を主としていた時代が終わり、様々な政治協議をおこなう朝堂の前身となる「庁」が設置され、複数の「庁」を包含する「ニハ(庭)」が成立したと見るのです。

 「朝廷」の語は、推古以前は中央政府を指すのが一般的であるのに対し、推古朝からは天皇を指す場合が多くなると、馬氏は指摘します。

 推古朝での変化は契機については、当然ながら、推古8年(600)の遣隋使が倭国の「まつりごと」について報告し、文帝に「おおいに義理無し」と評されたことをあげます。これをきっかけとして、一連の改革事業がなされていることは、良く知られている通りですが、「朝」の字の用例を見ても、それが裏付けられるのです。

 欽明朝あたりから政治と祭事が分離するようになり、推古朝の小墾田宮造営によって朝廷機能が変化し、伝統を反映させながら律令制を整備することによって、日本は固有のあり方から隋唐の式の朝廷・朝政へと変化していったというのが、馬氏の結論です。


大山誠一・吉田一彦氏に遠慮しつつ、ついに聖徳太子虚構・道慈作文説を否定:榊原史子「『日本書紀』崇峻即位前紀七月条と四天王寺の創建」

2024年04月12日 | 論文・研究書紹介

 こちらも論文集を紹介し始めたところで中断していた例です(こちら)。

榊原史子「『日本書紀』崇峻即位前紀七月条と四天王寺の創建」
(小林真由美・鈴木正信編著『日本書紀の成立と伝来』、雄山閣、2024年)

 四天王寺の研究者である榊原氏については、若い頃、大山誠一氏や吉田一彦氏に評価され、両氏が編集する論文集や雑誌の特集で論文を発表させてもらうようになった恩義があるためか、虚構説に遠慮して是非の判断を避ける書き方をしている本を以前紹介しました(こちら)。

 今回は、遠慮しつつも虚構説を否定し、注での目立たない書き方ですが、以前支持していた道慈作文説を撤回すると明記しています。

 今回の論文でも、冒頭で厩戸皇子については諸説があるとし、「近年においては、大山誠一氏によって聖徳太子虚構説が提起された」として、その説の内容を簡単に紹介します。

 そして、大山説以後も、「聖德太子をめぐっては、さまざまな説が提示されている」とし、具体的な活動については「いまだ十分に明らかになっていない」と述べるにとどめ、大山説が学界で相手にされなくなっていることには触れません。

 ここから四天王寺に関する検討に入り、若草伽藍で用いられた瓦当笵がすりへった段階で四天王寺の瓦作成に用いられたことなど、考古学の研究成果を紹介し、四天王寺の創建は若草伽藍の創建時期に近いが、それより遅かったことを再確認します。

 そして、どの程度遅れるかに関する諸説、また厩戸皇子の建立とする説と、難波吉士氏の建立であって厩戸皇子との関係は認められないとする説などを紹介します。

 ついで、文献から見て、当初、玉造に造営された寺が現在の地に移築されたとする説を紹介したのち、『日本書紀』の記事と考古学の成果から見て移築説を否定します。

 また、『四天王寺縁起』(1007年)は寺の所有として多くの土地や建物などの名をあげ、物部氏の旧領・邸宅・資材・人民が四天王寺に施入されたとしていますが、『法隆寺伽藍縁起并流記資材帳』が法隆寺のものと記している「水田」「薗地」「庄倉」は、物部氏の本拠であった渋川にも見られることに着目します。

 これらのことから、榊原氏は、四天王寺は厩戸皇子によって創建されたと考えるの妥当と結論づけます。

 ついで、創建説話については、『元興寺伽藍縁起并流記資材帳』は信じがたいとする吉田氏の説を紹介し、同様に古い『四天王寺縁起』に基づいて『日本書紀』の創建説話が書かれたとは考えるのは難しいだろうと述べます。

 しかし、『日本書紀』は厩戸皇子が登場せず、四天王寺創建にも触れない記事の部分ですら四天王寺系の資料を用いており、すべて最終段階の編者の筆と見ることはできないことは、前回の記事で示しておきました(こちら)。

 榊原氏がその部分を疑うのは、厩戸皇子が勝たせてくれたら四天王の為に寺を建てますと誓った箇所のうち、「護世四王」とある部分は、『日本書紀』完成の少し前の702~703年に西明寺で義浄が訳した(そして、聖徳太子虚構説では、それを西明寺に留学していて718年に帰国した道慈がもたらし、道慈が理想的な厩戸皇子を記述するなど、『日本書紀』の原稿を潤色する際に用いたとされる)『金光明最勝王経』に見えるからです。

 しかし、5世紀初めに訳された『金光明経』には確かに「護世四王」の語は見えないものの、この語は、597年に訳された増補版であって中国でもかなり読まれた『合部金光明経』には見えています。創建説話のその箇所には後代の潤色があるとしても、7世紀の末頃までに四天王寺で創建説話の原型ができていて不思議ではありません。

 なお、榊原氏は、『日本書紀』の編者が『金光明最勝王経』を参照しながら四天王寺創建説話を書いたことは疑いないとし、「四天王像を頭に載せるという記述は、仏像が宝冠を頭に載せていることに想を得たのではなかろうか」と述べています。

 榊原氏は、いなかった説を痛罵した石井公成さんの『聖徳太子ー実像と伝説の間ー』は読んでおられないのか、大山氏や吉田氏への遠慮もあって引用しにくいのか、まったく言及していませんが、小さな仏像をお守りにする際は髷の中に入れるのがインドの習慣であることは、本に書いておきました。あるいは、榊原氏は、絵本などに描かれる巳の刻参りや八つ墓村のような太子の姿を思い浮かべているのでしょうか。

 榊原氏は、『日本書紀』編纂の最終段階で四天王寺創建説話が書かれたことについて、新川登亀男氏の説などを紹介し、「皇太子の制度の理想型」を示すために厩戸皇子が「皇太子」と呼ばれて活躍が強調されたとし、『日本書紀』の最終編纂時期に、理想的な皇太子が『金光明最勝王経』の教えを実践していたことにするためだったと推測します。

 そして、四天王寺は、一時期、古代史学で強調されたような外敵退散のためではなく、上宮王創建の他の寺と同様、追善のためとする三船隆之氏の説を紹介し、難波、斑鳩、飛鳥を結ぶ交通網が整備されたことに注意し、斑鳩宮への移住は対外交渉の拠点づくりのためとする塚口義信氏の説を紹介します。

 そして、推古朝は推古女帝のもとに、聖德太子と蘇我馬が共同執政の形で政治をおこなったとする塚口氏の説を「妥当な見解」と評価します。塚口氏の説の追認という形ですが、太子虚構説は完全に否定されていますね。

 ここまで書いてしまった以上、曖昧な書き方は無理とあきらめたのか、榊原氏はその後で、「厩戸皇子は、実在した勢力のある王族であり、有能な人物であったと評価することができるのではないだろうか」と述べ、ついに虚構説を否定してしまいました。しかも、馬子との共同執政であったものの「外交に関しては、厩戸が主導していた」と明言しています。いやいや。

 なお、注58では、自分の旧稿では道慈が創建説話を述作した可能性があるとしたが、「現在では、具体的な人物を特定することは難しいと考えている」と述べています。読んでいて感慨深いです。いろいろと迷った末の決断でしょう。

 なお、お知らせです。本日の夜の飛行機で中国に向かい、浙江大学、浙江理工大学、杭州仏学院などで「禅宗の成立と疑偽経類」「中日仏教文化交流」その他について連日講演し、最後に1日だけ寺院や遺跡をめぐって翌日に帰国しますので、次の記事は少し遅れるかもしれません。

 杭州は、鎌倉・室町時代には日中貿易や僧侶の往来の中心地だったところであって、また私が近代中国の思想家の中で最も高く評価する章太炎の旧居と墓があるところです。10月開催の唯識学会にも呼ばれてますので、杭州にはまた行くことになります。コロナ禍がおさまり、ようやく海外の研究者を受け入れるようになったため、秋には長らく延期になっていた北京の人民大学などでの講義もありそうです。


高句麗の影響を受けた百済の石積みによる造墓技術が方墳へ:坪井恒彦「大王(倭国王)陵としての前方後円墳の終焉」

2024年04月08日 | 論文・研究書紹介

 恒例となっている4月1日限定の特別記事では、蘇我馬子の「桃原」の墓と桃つながりらしい高桃塚古墳?を紹介しました(こちら)。

 飛鳥の古墳については新たな発見が続いており、その最新成果を収めた明日香村教育委員会編『遺跡の発掘からみた飛鳥』が刊行されるはずでした。しかし、1年半くらい前に予約したのに、発売延期、延期が続き、いよいよ刊行されるはずの日程の直前になってまた「5月末に発売」という延期通知が来ました。狼少年もこんなに繰り返し「出るぞ、出るぞ」とは言ってなかったんじゃないか……。

 それはともかく、古墳は重要なので、坂田原から桃原にかけての一帯の地の古墳について論じた最近の論文を紹介しましょう。

坪井恒彦「大王(倭国王)陵としての前方後円墳の終焉-敏達・用明朝の墳墓観変遷の背景-」
(『羽衣大学現代社会学部研究紀要』第6号、2017年)

です。

 前方後円墳が造られなくなることは、以前、取り上げた半沢英一氏も画期として注目していたところです。ただ、半沢氏は、母親の古墳に合葬された敏達天皇はそれ以前の天皇たちと違い、巨大な前方後円墳を造ってもえなかったとし、守屋合戦に勝利した厩戸が仏教的な法王として即位した結果、新たな時代が始まったたとする強引な仏教革命説を繰り広げていました(こちら)。

 一方、坪井氏のこの論文は、朝鮮の造墓技術との関連に着目した考古学の立場での考察です。氏は天皇のことを「大王」と記していますので、この記事ではそれに従います。

 坪井氏は、三輪山西麓に広がる纒向の地に初めて登場した前方後円墳、つまり、墳丘280メートルもある箸墓古墳の話から始めます。この巨大な古墳が倭国王の墓であることは疑いなく、その前方後円という特異な形は、大王の墓として考案されたものでした。

 以後、7世紀初めまで、何千という古墳が造営されましたが、大王墓と見られる前方後円墳は、いずれも首長クラスの 墓とは異なり、きわだって巨大なものでした。

 ところが、6世紀後半になって、大王が一般的に見える「方墳」に葬られるようになってしまうのです。7世紀半ばになると、高御座と共通する八角形の墳墓が作られるようになり、再び王権独自の墓が造営されるようになります。

 坪井氏は、考古学では、異論はあるものの、最後の前方後円墳は、太子町奧城にある墳丘長93メートルの太子西山古墳であろうとし、敏達大王(585年没)の墓とする説が有力だとします。この墓は、大型の方墳や円墳から成る磯長谷古墳群を見下ろす尾根の上に、いちはやく営まれています。

 続く用明大王陵は、春日向山古墳と推定されており、こちらは東西66メートル、南北60メートルの方墳です。用明大王の墓は初め磐余にあり、後に磯長に改葬したとする説もあるものの、磐余近辺にも前方後円墳の遺跡は見つかっていません。

 次に倉梯岡陵と記されている崇峻大王陵は、宮内庁は桜井市倉橋金福寺跡と治定していますが、考古学では同じ倉橋にある一辺50メートルの赤坂天王山古墳の可能性が高いとしています。

 推古大王については、大野岡上にあった竹田皇子陵に合葬され、後に磯長に改葬されたとされており、前者は橿原氏の上山古墳(東西40メートル、南北27メートルの長方墳)、後者は太子町の方墳である山田高塚古墳(東西66メートル、南北58メートル)と見られています。

 これらの大王たちの祖である欽明天皇の墓について、宮内庁は平田梅山古墳を治定していますが、考古学では墳丘長318メートルという巨大さを誇る五条野丸山古墳が有力です。

 平田梅山古墳については、被葬者をめぐって諸説があり、敏達埋葬のために造られたが何かの事情でそうならなかったとする説もあるものの、坪井氏は、いずれにしても敏達の墓を前方後円墳にしようとした事実はゆるぎないとします。

 『日本書紀』によれば、敏達は母である石姫の墓に合葬されたとあります。白石太一郎氏は、継体天皇は、それ以前の大和・河内勢力によるヤマト王権と血がつながっておらず、ヤマト王権の仁賢大王の皇女である手白香との婚姻が不可欠であったとしますが、坪井氏は、その継体から敏達に至るまでの大王はすべてヤマト王権の血を引く女性を妃としており、その系統が前方後円墳と結びついていたと見ます。

 一方、用明は、敏達の弟であるとはいえ、ヤマト王権の血とはつながりのない蘇我稻目の娘、堅塩媛から生まれています。続く崇峻も推古も欽明天皇と蘇我氏の女性の間に生まれています。

 ですから、ヤマト王権の伝統である前方後円墳にこだわる必要はなかったと坪井氏は説きます。しかも、この頃には、前方後円墳は大王陵としては既に形骸化していたと推測します。

 磯長古墳群は、蘇我氏系の大王の墓が林立することで有名ですが、坪井氏は、最初は蘇我氏の血を引かない敏達大王の墓で始まっていることを重視します。つまり、これによってこの地が皇室の墓の地として格付けされ、以後、前方後円墳にこだわらず、方墳を進展させた蘇我氏の影響が発揮されたとするのです。

 そもそも方墳は、4~5世紀の百済に普及していった高句麗系の「石基壇石塚古墳」と称されるものがルーツとなっていると、坪井氏は主張します。それが、6世紀後半に蘇我氏の宗主の墓に用いられ、やがて蘇我氏系の大王の墓に用いられたとするのです。

 ここで注目されるのが、一辺が41~42メートルであって、7~8段ほどの石積みとなっている都塚古墳です。この古墳は、大きさはさほどではないものの、人の頭ほどの石を12万9千個くらい積み上げてあり、大変な労力をかけたものです。これが百済の王陵と良く似ているのです。

 都塚古墳が位置する明日香村阪田から祝戸にかけての地域は、朝鮮半島からの渡来集団が配されていた地です。中国南朝出身の司馬達等もこの辺りに棲んでいました。

 その都塚古墳の北西400メートルほどのところにあるのが、巨大な石を積み上げ、「桃原」に造営された馬子の墓とされる石舞台です。つまり、渡来人を配下に持つ蘇我氏が、高句麗系の様式による百済の石積みの造墓技術を採用して自分たちの墓に用いたのであり、それが蘇我氏系の大王の墓に用いられるようになったとするのです。

 坪井氏は、こうした古墳の型式の変遷は、朝鮮半島の状況、それと日本との関係が大きな影響を及ぼしていることに注意して論をとじています。


『日本書紀』の守屋合戦に続く敵将と忠犬の記述こそ語りものの元祖、編者は元資料を貼り込んだだけ:石井公成「お説教でない仏教説話」

2024年04月04日 | 論文・研究書紹介

 葛西太一さん、瀬間正之さん、森博達さんと、『日本書紀』の語法に関する論文が続きましたが、今回は私の番で、

石井公成「お説教でない仏教説話」
(『日本文学研究ジャーナル』第29号、2024年3月)

です。「仏教説話」特集の冒頭のエッセイを依頼されたため、「ですます調」の気楽な感じで書いておきました。

 仏教説話というと、仏教関連の興味深い話を紹介し、最後に教訓となるよううな言葉を述べるというのが通例です。ただ、仏教的な題材であっても、興味深いだけで最後に教訓が述べていない場合は、仏教説話と呼べるのか。

 こうした点についていくつか例をあげて検討した後、取り上げたのが『日本書紀』の守屋合戦の記事です。この記事では、厩戸皇子と馬子が造寺を誓って誓願すると、敵を打ち破ることができたとし、合戦がおさまった後、「摂津の国に四天王寺を造る。大連の奴の半ばと宅とを分け、大寺の奴・田荘とす」と記し、馬子は飛鳥寺を建てたとしています。

 天皇の勅願寺院でない四天王寺のことに「大寺(おおてら)」と呼んでいるのですから、この書き手はおそらく四天王寺の僧であったと考えられます。守屋の「奴」と「宅」の半分を四天王寺に納めたということは、あとの半分は馬子のものになったということですね。

 守屋合戦の記事としては、これで終わりにして良いはずです。しかし、『日本書紀』では、これに続いて守屋に仕えていた武将である捕鳥部万の奮戦ぶりと戦死を描いたうえ、その愛犬についてまで記しています。その後半の内容は以下の通りです。

朝廷は、万の死体を八つに切り、八つの国に分けて串刺しにしてさらせと命じた。国司がその通りに死体を斬って串刺しにしようとすると、雷が鳴り大雨が降った。この時、万が飼っていた白い犬が、その屍の回りを俯したり仰いだりしながら回って吠えた。ついに屍の頭をくわえ、古い冢に収め、枕の横に伏せてその前で餓死した。国司が、その犬をきわめて不思議に思い、朝廷に報告すると、朝廷はひどく気の毒に思い、命令を下した。「この犬は世に稀な存在でって、後世に示すべきだ。万の一族に墓を作って葬らせよ」と。このため、万の一族は、二つの墓を有真香邑に立て、万と犬を葬った。

以上です。

 雷が鳴り大雨が降ったとなれば、八つに切ることはできなかったことになります。こうした天変地異の記述は、朝廷の命令が適切でないため、天が警告を与えたことを示していますね。

 この万の奮戦と忠犬の話については、『法華経』の文句をそのまま用いているため、僧侶か還俗僧か『法華経』を暗記している在家信者が書いたことは間違いありません。問題は、この記述は、忠犬を讃える形で終わっており、仏教の教訓になっておらず、また四天王寺創建とも関係ないことです。

 この話を喜んで聞いたのは、万の親族を含め、守屋側で戦った人々の子孫でしょう。そのことは、万と忠犬の話に続けて、同じような戦死者と忠犬の話がもう一つ、付されていることからも推察できます。聞いた人々の中には、四天王寺の「奴」とされた者たちもいたかもしれません。むろん、こちらも仏教の教訓はなされておらず、四天王寺との関係も記されていません。

 しかも、この万の奮戦と忠犬の話については、変格漢文が目立つのです。たとえば、「万所養之犬」などとせず、「万養犬」と記しているのは、「万が飼っていた犬」という和語の文をそのまま漢字にしたためでしょう。

 つまり、合戦場面が臨場感をもって描かれ、哀れな犬の振舞いが生き生きと描かれており、それも変格漢文が目立つのは、「語りもの」として語られていたものを無理に漢文にしたためと考えられるのです。

 日本の絵解きは、聖徳太子伝で始まりましたが、この守屋の武将と忠犬の話は絵に描かれるとは考えにくいため、語りものにとどまったと思いますが、聖德太子と芸能の結びつきは、この話からも推察できますね。

 ところで、この話で重要なのは、厩戸皇子と山背大兄に関する記述は、『日本書紀』の最終段階でかなり増訂されたことが明らかにされているものの、この話はそうではないということです。そもそも、厩戸皇子が登場しないどころか、厩戸皇子たちの軍勢と戦った側について好意的に描いているため、廐戸皇子をやたらと神格化しようとした『日本書紀』の方針とは異なるのです。

 上記の拙文は「仏教説話」特集の冒頭エッセイであったため、『日本書紀』における位置づけなどについては触れていませんが、この万と忠犬の話は、『日本書紀』編集の最終段階で創作されたり、書き換えられたりしたものではありえません。四天王寺系の資料をそのまま貼り込んだとしか考えられないものです。

 となると、『日本書紀』における厩戸皇子関連の記述には、他にも四天王寺系の文献や他の系統の文献をそのまま貼り込んだものが含まれている可能性が高いということになります。

 その一番の候補は、厩戸皇子が亡くなったあとの慧慈の述懐の部分でしょうね。用明紀では豊耳聡聖徳、豊聡耳法大王、法主王などの異名をあげており、推古紀の本文では、徹底的に「皇太子」と呼んでおりながら、この箇所に限って、厩戸皇子とも皇太子とも呼ばず、これまで登場していない「上宮太子」という呼び方が複数回使われているのは、何かの資料を貼り込んだだけで呼称の統一などの編集作業をしていなかった、ということですね。私は、「天皇」という語も「神」という語も使わない「憲法十七条」は、その可能性が高いと考えているのです。

【追記:2024年4月6日】
厩戸皇子の異名について、少し補足しました。


吉備池廃寺(百済大寺)と百済益山の帝釈寺から考える:小田裕樹「法隆寺式伽藍配置の由来に関する覚書」

2024年03月28日 | 論文・研究書紹介

 年度末のため、研究助成を受けた共同研究の報告書や出版助成による出版が多く出されており、献本していただいた本も多いため、少し前に紹介した新刊の論文集の報告(こちら)が中途で止まっていました。今回は、その論文集のうちから、

小田裕樹「法隆寺式伽藍配置の由来に関する覚書」
(網伸也編『東アジアの都城と宗教空間』、京都大学出版会、2024年)

を紹介します。

 創建期の斑鳩寺であった若草伽藍は、南門、塔、金堂が南北に一直線に並ぶ四天王式伽藍配置とされてきました。実際には、若草伽藍の配置に基づいて後で四天王寺が建立されたのですが、命名された当時は、若草伽藍の発掘がなされておらず、そうした状況は知られていなかったのです。

 同じ状況が、南門の北に塔と金堂が東西に並ぶ現在の法隆寺西院の配置を、法隆寺式伽藍配置と呼ぶことにも当てはまります。それは、吉備池廃寺の発掘調査が進み、舒明天皇の百済大寺の跡と推測されるに至って、この寺の伽藍配置こそが現在の法隆寺の伽藍配置の先蹤であることが判明したためです。

 小田氏は、1997年に始まった吉備池廃寺の調査結果から話を始めます。金堂の基壇はなんと、東西37メートル、南北25メートルという巨大さであって、ほぼ同時代の山田寺の2.8倍でした。金堂の西に位置する塔の基壇は、一辺が約32メートル。飛鳥時代の寺でこうした大きさのものはなく、文武朝の大官大寺や新羅の皇龍寺など、国家を代表する最大の寺クラスであるため、それらと同じく九重塔であったと推測されました。

 そして、軒瓦の型式から見て630年代から640年代の創建と推測されたうえ、遺跡の巨大さに較べて瓦が少ししか出ていないため、移建されたと推測されました。この条件を満たすのは、舒明11年(639)に舒明天皇によって百済宮と並ぶ形で創建された百済大寺と見るほかないことが確定したのです。

 しかも、軒平瓦は、斑鳩の若草伽藍忍冬唐草文の型を再利用していたうえ、金堂の掘り込み地業や塔の版築が、若草伽藍と共通しており、百済の技術で作られた飛鳥寺などと違い、若草伽藍と同様に隋の技術を用いていることが指摘されています。

 小田氏は触れていませんが、この時期は厩戸皇子は没していたものの、山背大兄が生きていて斑鳩の地で仏教事業をやっていた時期ですので、上宮王家が百済大寺の建設に協力したことは明らかですね。山背大兄は、推古天皇の後継者争いでは田村皇子(舒明天皇)に敗れたものの、その次の可能性もありましたし。

 さて問題は、百済大寺がなぜ塔を西、金堂を東に並置する形をとったかであって、現在は中国・朝鮮の型式を日本で改良した形と推測されています。しかし、小田氏は、韓国の益山の帝釈寺址に注目します。益山地域は、扶余の中心部から35キロほど南東にいちしており、武王の代(600-641)に遷都を考慮して造営した別宮と見られる王宮里遺跡があります。

 帝釈寺については、日本に残る『観世音応験記』によれば、貞観13年(639)に激しい雷雨があり、「七級浮屠」、つまり巨大な七重塔を含めて「帝釈精舎」の仏堂や回廊がみな焼失したとあります。

 帝釈寺の伽藍配置は何期かに分けて変動しますが、小田氏は、韓国の調査報告を参考にして、639年に焼失したのは第一期の建物であって、これが同時期の百済大寺の伽藍配置と関連しているはずと推測します。

 それは、百済大寺以後の薬師寺式には新羅の影響、大安寺式には唐の影響が見られるため、それ以前に日本独自の伽藍配置がなされていたのは考えがたいためです。そして、この帝釈寺の伽藍配置は、中国の型式に由来すると推測するのです。

 益山には、百済最大の寺院である弥勒寺も建立されており、639年には西石塔が建立され、中央に国家を代表することを示す九重塔と金堂と北の講堂の造営が進んでいたことが明らかになっています。この寺は名が示すように、弥勒信仰に基づく寺です。

 帝釈寺の方は、帝釈天信仰と百済の伝統信仰である天神信仰が融合し、国祖崇拝と結び着いて王室の権威を高める寺として王室によって尊重されており、王宮里遺跡の東側に並ぶように造営されていました。

 つまり、弥勒寺より王宮に近く、王権の私的な面が強い寺院であったことが推定できると、小田氏は述べます。

 推測が多いのですが、小田氏は、帝釈寺と王宮里遺跡の関係は、百済大寺と百済宮、四天王寺と難波宮というあり方と関連するものと見ます。そのため、百済大寺、つまり吉備池廃寺の伽藍配置は、帝釈寺の配置と関連しているだろうと推察します。

 法隆寺式伽藍配置、つまり、百済大寺の伽藍配置は、仏舎利を蔵する塔を寺院の中心とする四天王寺式から、仏像を納めた金堂の前に儀式ができる空間を作るものでした。このため、小田氏は、百済大寺は、百済の帝釈寺を含め、高層塔を有する東アジアの多くの寺院を参考にし、取捨選択したうえで日本独自の王権の寺院として造営されたのではないかと推測するのです。

 なお、上記のような性格を持つ百済大寺(吉備池廃寺)の創建瓦が難波の四天王寺の再整備に用いられたことは、前に紹介しました(こちら)。


『日本書紀』における仏教漢文の語法が示す重要事実:森博達「仏教漢文と『日本書紀』区分論」(2)

2024年03月23日 | 論文・研究書紹介

  前回の続きです。まずは被動句例、つまり受け身の語法から。漢訳経典では、通常の「為A所B(AのBする所となる=AによってBされる)」などの形とは異なる受け身形がしばしば用いられるだけでなく、動作主なしで「所~」という形だけで受け身を示すことがあります。梵語では受け身形が多いので。

 森さんは、『日本書紀』に見えるそうした例をあげます。たとえば、巻21の「妣皇后所葬之陵」という部分は、普通の漢文であれば、「所」の前は動作主となるため、「妣皇后」、つまり亡き母である皇后が誰かを葬った陵という意味になるはずのところが、「妣皇后の葬られたまひし陵」と受け身になっているのです。この箇所はα群ですが、森さんは用明紀と崇峻紀から成る巻21には後人の加筆が多いことを指摘していました。

 巻24では、蝦夷が国史を焼こうとした際の記事として、船史恵尺が「疾取所焼国記奉中大兄」とあり、「焼かるるる国記」となっています。これはまさに中大兄こそが史書を継承したとするものであって、中大兄の意義を強調し、中大兄の子孫やその親しい氏族の系統である自分たちにとって都合の良い史書を書こうとする者たちの作為が見える箇所ですね。

 次は、仏典に良くみられる「~已(~しおわりて)」の語法であって、これは梵語の ~tvā や ~tya (~して、~しおわって)の訳です。『日本書紀』では、この用例は4例あり、すべてα群です。そのうち、巻19は、欽明天皇時の仏教伝来の有名な箇所、「天皇聞已、歓喜踊躍」であって、最新の『金光明最勝王経』の「四天王聞是頌已、歓喜踊躍」を利用したことが知られています。

 問題は、巻21のうち、守屋合戦において四天王に誓願した後、「誓已厳種種兵、而進討伐(誓ひ已りて、種種の兵を厳りて、進みて討伐す)」とある箇所です。森さんは、これを『金光明最勝王経』の「時王見已。則厳四兵、発向彼国、欲為討伐」に基づくとし、最終段階の加筆と説きます。

 「時王見已。」の「已」は「見已(おわ)りて」であるため、「。」でなく「、」ですが、確かに『金光明最勝王経』利用の可能性はあります。ただ、隋の闍那崛多訳『添品妙法華経』にも、「時転輪王、起種種兵、而往討伐」と近い表現がありますので、そちらの可能性もないではありません。

 なお、大山説では、703年に長安の西明寺で訳されたばかりの『金光明最勝王経』を用いたのは、西明寺に留学していた道慈であって、その道慈が理想的な聖人である<聖徳太子>を描き出したとしていました。

 そうであるなら、厩戸皇子が活躍する巻22の推古紀やそれに続いて山背大兄の言動が記される巻23や巻24で『金光明最勝王経』が盛んに用いられるはずなのに、そうなっていないのは不自然ということになります。特に、推古紀で重要な「憲法十七条」が『最勝王経』の表現をまったく利用していないのはなぜなのか。

 森さんは、他の仏教漢文の特徴も検討したのち、これらの語法が『日本書紀』では巻によって偏って用いられていることに注意します。

 仏教漢文の語法は、β群にだけ見られることが多く、たとえば理由を示す「因以~」は、106例もあるのにすべてβ群であり、「有~之情」も11例すべてがβ群である由。これには気づきませんでした。驚きですね。

 「動詞 + 之日(〇〇する/した日)」という語法も、全28例のうち、β群が25例で、α群に2例、巻30に1例という偏った分布になっており、α群の2例は例のように乙巳の変と大化の改新の詔勅です。正格漢文に近い文体で書かれてる巻30のこの箇所は、新羅の弔使への詔勅であって、この詔勅は倭習が目立つため、森さんは原資料を転載した可能性が高いとします。

 森さんはこれまでの著作では、『日本書紀』で倭習が目立つのは、上宮王家滅亡、乙巳の変、大化改新の詔勅の3箇所だと指摘してきましたが、仏教漢文が目立つのも、まさにこれらの箇所だったのです。

 結論として、森さんは『日本書紀』における仏教漢文の大きさを知ったとし、これまでβ群の撰述者として、渡来系氏族出身で僧侶として新羅に渡って学び、還俗して文人学者となった山田史御方を想定してきたが、今回の検討によってもそれが裏付けられたと説きます。

 そして、α群は唐人の音博士であった続守言と薩弘恪が正格漢文で書いたが、最終段階で三宅藤麻呂がα群を中心として特定の記事に潤色・加筆したのであって、α群に見える変格漢文は、この加筆か原史料の反映と見ます。

 藤麻呂についても、おそらく新羅からの渡来系氏族であって、御方と同様に仏教を学んだろうと推測します。ただ、御方と藤麻呂では、「使用する仏典表現にも相違があるのだ」と説いてしめくくっています。

 これは画期的です。同じく仏教漢文の語法でありながら、人によってどの語法を用いるかの違いが出るというのは重要な発見です。この論文によって、『日本書紀』の語法研究は新しい段階に入りました。

 ただ、聖德太子関連の箇所に見える仏教漢文の語法については、『日本書紀』の編者の文ではなく、四天王寺系の聖徳太子伝ないし四天王寺縁起を利用した結果である可能性もありますね。『日本書紀』以前にそうした文献が出来ていたことについては、今月中に私の論文が刊行されますので、出たら紹介します。

 なお、仏教の表現がいかに日本の文章表記に影響を与えたかは、先日刊行された私の『源氏物語』論文でも指摘しておきました(こちら)。

 つまり、「思い知る」は漢訳の「念知」であり、「心から」という語は近世以前は「自業自得」の「自」を和語化したものであって、これを最も多く使って登場人物の心理を描きわけたのは『源氏物語』であり、女は「宿世」に流され、男は「心から」行動して悩むというのが『源氏物語』の基本構造だと論じたのです。

 近世になると、「欲の心から」などの用例が示すように、「~の心に基づいて」の意味で「心から」という言い方が用いられるようになりますが、現在のような「心から申し訳なく思います」といった言い方は、from the bottom of my heart などの翻訳語法だろうと説きました。

 これからも分かるように、仏教の影響に注意しないと、古代・中世の文献は読めないのです。


『日本書紀』における仏教漢文の語法が示す重要事実:森博達「仏教漢文と『日本書紀』区分論」(1)

2024年03月20日 | 論文・研究書紹介

 久しぶりの森博達さんの力作の論考です。定年退職後、日本語と系統が近いトルコ語の勉強を始め、一昨年と昨年は、イスタンブールのトルコ語の学校に2ヶ月つづ通われた由。

 凄いですね。私は、退職後はベトナム語の学校に通う予定でしたが、コロナ禍でのびのびになったままです。たくさん抱えている仕事を一段落させて、来年あたりから通ってしっかり学び、2010年に不出来なまま出してしまったベトナム仏教史の概説を書き直したいものですが。

 さて、その森さんが、『日本書紀』に見える仏教漢文の語法に関する画期的な論文を発表されました(有難うございます)。森さんには、2012年から4年間、私が代表となり、科研費研究「古代東アジア諸国の仏教系変格漢文に関する基礎的研究」にご瀬間さんとともに参加いただきました。

 日本からは森博達・金文京・瀬間正之・奥野光賢・師茂樹、中国からは董志翹・馬 駿、韓国からは鄭在永・崔鈆植などの諸先生にご参加いただいたのですが、森さんには上記の人選を含め、いろいろと助言していただきました。後に若手研究者となって『日本書紀』の語法の本(こちら)を出した葛西太一さんも、当時は瀬間さんの指導を受ける大学院生として参加したことがあります。

 今回の森さんの論考は、この共同研究がきっかけとなり、仏教漢文にも注意されるようになって始めた研究をまとめられたものです

 その論文は、

森博達「仏教漢文と『日本書紀』区分論」
(吉田和彦編『ことばの不思議ー日本語と世界の言語』、松香堂書店,]2024年)

です。奥付では3月31日刊行となっていますが、刊行元である京都産業大学の学術リポジトリには既にPDFが掲載されました(こちら)。

 私は森さんの『日本書紀の謎を解くー述作者は誰かー』(中公新書、1999年)に衝撃を受け、三経義疏の変格漢文について調査を始め、その一環として『日本書紀』の一部に見られる仏教漢文についても検討し、論文をを書いたのですが(こちら)、今回の森論文はそれを『日本書紀』全体にあてはめ、仏教漢文の語法について徹底した検討を加えたものです。

 『日本書紀』が『金光明最勝王経』などの文章を使っていることは、家永三郎が早くに指摘しており、小島憲之などが仏典利用の研究を進め、瀬間さんも『風土記』と『日本書紀』に見える仏教漢文の語法の例を指摘したのですが、今回の森論文によって、これまで以上に語法に注意して読む必要性が高まりました。

 仏教漢文の語法についてこれだけ網羅的な研究がなされたのは初めてであって、まさに画期的なものです。結果としては、これまでも森さんの区分論と、それぞれの部分の担当者に関する主張を裏付けるものとなった由。

 いずれにしても、『日本書紀』中で目についた単語だけ拾い、「日本は伝統的に~だった」などと論じることはできなくなったのです。なお、森さんは「倭習」という言葉を使っているため、この記事ではそれに準じます。

 構成は、簡単にまとめると、

 1.『日本書紀』に関してこれまで指摘された仏典の利用

 2.近年の仏教漢文に関する研究、『日本書紀』におけるそうした語法の例

 3.『日本書紀』の変格表現のいくつかは仏教漢文であったこと

 4.『日本書紀』における仏典表現の偏在、各群の性格と編集過程

となっています。

 最初に1では、森さんの『日本書紀の謎を解く』『日本書紀 成立の真実ー書き換えの主導者は誰かー』(中央公論社、2011年)とその他の論文で明らかにしたことが示されます。『日本書紀』区分論、すなわち、α群は持統朝に中国人の続守言と薩弘恪が書き、β群は文武朝に新羅留学の山田史見方が書き、元明朝に紀朝臣清人が正格漢文に近い文体で巻30を述作し、三宅臣藤麻呂が誤用・奇用が目立つ文体で全体に潤色・加筆をおこなったとする説を、まず提示します。

 続いて、従来の研究を紹介しており、小島憲之は、703年に義浄によって漢訳されたばかりの『金光明最勝王経』が、巻15・16・17・19・20・21で用いられていることを指摘したと述べます。これらはすべてα群です。

 (この指摘が、義浄の住した長安の西明寺に留学した道慈による聖徳太子伝説執筆説の背景の一つとなったわけですが、聖德太子の活動が特記される肝心の巻22の推古紀で用いられていないのが致命的ですね)

 続いて、瀬間さんによる研究が紹介されます。瀬間さんは、仁徳紀の兄弟相譲譚や時代来上の火仲出征譚には仏典の影響があるとし、また「未経幾〇(いまだ幾ばくの〇を経ずして)」という語法は、『経律異相』などの仏典に多く見られるものであってβ群に偏在することを明らかにしました。

 森さんは、本来は主語の後に来る「亦」がβ群に偏在することを指摘しましたが、これについては、石井氏からこうした語法は仏教漢文には多いことを指摘されたと述べます。

 そして、森さんは、言うという意味の「噵」は朝鮮俗漢文と仏典に見られることを指摘し、この字は『日本書紀』ではα群に8例、β群に3例見られるものの、α群のうちの4例は朝鮮関係記事、巻24の2例は上宮家滅亡記事、そしてβ群の3例は巻23の舒明即位前紀であって、舒明と山背大兄の後継争いの部分であって、この箇所は和習が見られるβ群の中でも変格用法が特に目立つ由。

 つまり、上宮王家関係であって、後の加筆と思われる部分に多いということになります。

 ついで、仏教関係記事が見える巻19の欽明紀から上宮家滅亡が記される巻24までの仏教漢文や変格漢文を指摘した石井の論文の内容を詳しく紹介します。森さんはそれに基づいて考察を加え、「到於~(~に到る)」と「於」を入れて字数を調えて四字句にする例は、大化の改新の詔勅に見えるとします。この時期の詔勅は、一連の詔勅はα群の中でも特に倭習が目立つ箇所なのであって、『日本書紀』編集の最終段階近い頃に後から書かれたものなのです。

 次に、中国で急に発展してきた仏教漢文の研究状況について紹介します。その一例が、四字句や五字句に調えるために不要な「於」などの助字を加えることです。『日本書紀』にもそれが見られるのであって、中国の標準的な漢文と比較していた森さんの以前の著作では、これらを「奇用」としていたのですが、森さんは「結局、これは仏教漢文だったのだ」と感慨を漏らしています。

 β群で3例、特別である巻30の1例をのぞけば、他の18例はすべてα群であり、特に目立つのは、巻25の孝徳紀に4例見えていて、そのうちの3例が大化の改新の詔勅であることだと述べます。

  他に目立つのは朝鮮漢文の記事であって、これは森さんが前著で既に指摘したよう、朝鮮の原史料を尊重してそのまま用いたためと見ます。目立つのは、巻21の崇峻紀に4例見え、しかも3例は崇峻暗殺の記事であって、この部分には「所」という字の誤用も見られる由。崇峻紀にはかなりの加筆がなされているのです。

 漢籍で用いられ、仏教漢文でも良く見られる「~不?」という疑問の形については、例によって朝鮮関係の記事と大化改新の詔勅に集中して出てくると述べます。大化の改新の詔勅は本当に怪しいですね。

 明らかに仏教漢文の特色とされる「除~(~を除いて)」の語法については、口語表現であって中国では唐代まではほとんど現れないにもかかわわらず、仏典にはしばしば見え、『日本書紀』ではβ群にのみ11例も登場します。

 そこで、森さんは、新羅に僧侶として留学し、後に還俗して文人学者となり、大学頭にまでなった山田史御方がβ群の筆者だとする自説が確認できるとします。そして、仏教漢文の語法と言っても、α群とβ群では個性の違いがあるとします。これは重要な発見ですね。 


『日本書紀』で後に増補されたのは天孫降臨・聖德太子・大化改新・壬申の乱:瀬間正之「日本書紀形成論に向けて」

2024年03月16日 | 論文・研究書紹介

 少し前に瀬間正之さんと葛西太一さんの論文が掲載された『日本書紀』の論文集を紹介しました(こちら)。その瀬間さんの新著が3月1日に刊行されました(瀬間さん、有難うございます)。

瀬間正之『上代漢字文化の受容と変容』(花鳥社、2024年)

です。この3月で上智大学を定年退職するにあたり、最近の論文をまとめたものである由。構成は以下の通り(詳しい目次は、花鳥社のサイトにあります。こちら)。

初出及び関連論文
序に代えて
はじめに——上代という特殊性——
第一篇 表記と神話——東アジアの文学世界——
 第一章 高句麗・百済・新羅・倭における漢字文化受容
 第二章 〈百済=倭〉漢字文化圏——音仮字表記を中心に——
 第三章 『古事記』の接続詞「尒」はどこから来たか
 第四章 上代日本敬語表記の諸相——「見」「賜」「奉仕」「仕奉」——
 第五章 文字言語から観た中央と地方——大宝令以前——
 第六章 漢字が変えた日本語——別訓流用・字注訓・字形訓の観点から——
 第七章 高句麗・百済建国神話の変容——古代日本への伝播を通して——
 第八章 歌謡の文字記載
 第九章 清明心の成立とスメラミコト——鏡と鏡銘を中心に——
第二篇 文字表現と成立——達成された文字表現から成立論へ——
 第一章 万葉集巻十六題詞・左注の文字表現
 第二章 『論語』『千字文』の習書木簡から観た『古事記』中巻・下巻の区分
 第三章 藤原宇合の文藻——風土記への関与を中心に——
 第四章 菟道稚郎子は何故怒ったのか——応神二十八年高句麗上表文の「教」字の用法を中心に——
 第五章 欽明紀の編述
 第六章 続・欽明紀の編述
 第七章 『日本書紀』β群の編述順序——神武紀・景行紀の比較から——
 第八章 日本書紀形成論へ向けて
  一 記紀の成立年と日本書紀区分論
  二 日本書紀と太安万侶
  三 アマテラスの成立と記紀
  四 形成論に向けて
後記
総合索引/研究者・辞典類・研究機関索引

以上です。ここでは、聖德太子に関わる第八章を紹介しますので、そこだけ節の名もあげておきました。この目次を見てもわかるように、『日本書紀』読解の進展ぶりが分かりますね。

 『日本書紀』のあちこちから目についた単語だけ拾い、「『日本書紀』は~」などと論じることはもはやできず、執筆者の違い、元の文章なのか編集の最後になって訂正・加筆された部分なのか、また朝鮮資料や半島系渡来人が書いた資料、仏教文献の語法が色濃く出ている箇所などに注意しなければ、正確に読めない時代になったわけです。

 瀬間さんは、国語学者としては珍しいことに、早くから日本古来の伝承とされてきた『古事記』の内容や表現が仏典と類似していることに注意し、梁代の宝唱が516年に編纂した仏教の類書である『経律異相』に着目、パソコンの草創期のため自ら電子化したうえで『古事記』と比較し、『古事記』の説話は意外にも仏典に基づいた部分があることなどを発見してきました。私はその頃からのパソコン仲間です。

 これまでの自他の研究を踏まえて今後の研究の方向を示したこの第八章では、瀬間さんはまず、720年に成立した『日本書紀』の僅か8年前に『古事記』が成立しており、しかも、内容から見ると『古事記』の方が新しいとする見方が現在の通説であることに注意をうながします。

 そして、歌謡と訓註の仮名が中国語原音に依拠しており、中国人の執筆と見られるα群とそうでないβ群による区分論を唱えた森博達さんの説を紹介したうえで、β群はα群よりも『古事記』に近い面がある例をあげます。

 太安万侶の太氏の子孫である多人長「弘仁私記序」や「日本紀饗竟宴和歌序」では、『日本書紀』は舎人親王と太安万侶などが撰述したとしていることに触れ、恩師である太田善麿氏が太安万侶の『古事記』序と『日本書紀』巻13以前の類似を指摘したことをさらに詳細に検討します。

 たとえば、その両方に見える「未経幾〇」という語法は、中国古典にはなく、漢訳仏典に含まれており、『古事記』の潤色に用いられた『経律異相』にも数例見えるのです。

 β群は仏教漢文の影響が強いことを瀬間さんが指摘したこともあって、森博達さんはβ群の筆者として、新羅に留学した後に還俗した山田御方だとし、『万葉集』に見える「三方沙弥」がその前身だとしたのですが、瀬間さんは森さんのα群β群説を評価しつつも、「三方沙弥」が山田御方かどうかは異説もあるとし、『古事記』との類似から見て、太安万侶も有力視されると述べます。そうなると、太安万侶と仏教の関係を知りたくなりますね。

 『古事記』は一貫して「天照大神」の語を用いており、『日本書紀』β群にもその呼称が見えるものの、α群では「日神」「伊勢大神」の呼称しか出てきません。そこで、瀬間さんは、森さんの主張と筑紫申真氏の天照大神論により、『日本書紀』はα群から書き始められたことは確実とします。アマテラスも儀鳳暦を用いているβ群に見えることから、元嘉暦から儀鳳暦に移った698年以後にβ群が書き始められ、アマテラスもそれ以後の成立と説きます。

 そして『日本書紀』区分論については、このブログでも紹介した葛西太一さんの区分、森さんの区分、そして変格漢文の有無その他による榎本福寿氏の区分論を以下のように対比します。

  

 また、聖德太子の姉であた酢香手姫が伊勢の斎宮になったことについて、用明紀に「炊屋姫天皇の紀に見ゆ」という注があるものの、現在の推古紀には見えないことから、元になった現在とは別の推古紀があったとする森さんの説に賛成し、α群風な推古紀があったと推測します。

 以上の検討を踏まえ、瀬間さんは、『日本書紀』が強調している天皇家支配の正当性を示す箇所として、天孫降臨、聖德太子伝説、大化の改新、壬申の乱をあげ、これらは大化の改新以外はすべてβ群であることに注意します。大化の改新の部分は、α群でありながら変格漢文がきわめて多く、後から加筆されていることで有名ですね。

 聖德太子と山背大兄について詳しく説いているのは巻22と23であって、ともにβ群に属します。瀬間さんは、この両巻も元はα群で書かれていたものが、大幅に改稿されたと見るのです。

 大化の改新前後も、歌謡の部分はα群ですが、漢文の誤用の多さはβ群と較べても際だっています。このため、瀬間さんは、孝徳紀も「原孝徳紀」を大幅に書き改めたことが推定されると述べます。

 瀬間さんはこのように結論づけたうえで、α群において誤用・奇用が多いのは朝鮮半島関連記事の編述がなされた時期、また仏教漢文による潤色がどの時期になされた時期など、検討しなくてはならない課題は多いとしてしめくくっています。

 これ以外の章を読んでみても、『日本書紀』編纂の経緯がこれまで以上に明らかになっています。アマテラスの成立と神武天皇の記述は同じ時期、つまり天武天皇以後になること、しかも仏教の影響もあることについては、今後も検討してゆくべき指摘です。

 なお、瀬間さんは『アリーナ2008』に書いた論文では、推古朝遺文と呼ばれるものは7世紀末から8世紀初めの成立と見る立場であって、他の用例から見て「天寿国繍帳銘」などは文武天皇以後などと推測していました。

 ただ、「天寿国繍帳銘」などが現存最古の例だったらどうなるのか。奈良時代の正倉院の写経関連記録のように、何年何月何日に書写が終わるとか、何年何月何日に経典をどこどこに返した、といった記事がずらっと揃っているなら、「こういう表現は何年から後になって使われる」と言えますが、上代の文字資料で残っている例はごく僅かです。

 また、後世の偽作説や中国伝来説もあった三経義疏は、文体・用語がそっくりであって、いずれも100年近く前の南朝の梁の注釈を種本にしていました。645年に中国に戻った玄奘三蔵が新しい訳語を盛んに作り、教義も進んだ7世紀後半になって、こんなに時代遅れの古くさい注釈を手本にして書くでしょうか。

 しかも、変格漢文満載で、それも韓国の変格漢文には見られない、『源氏物語』を思わすようなうじうじと長たらしい文体で書かれた注釈であることを考えねばならず、そのうえ、その三経義疏と「憲法十七条」は、語法を含めて共通する点が多いことを考えてみる必要がありますね。


聖徳太子の磯長墓から出たとされる棺の破片を放射性炭素年代判定:岡田文男「安福寺蔵漆棺考」

2024年03月11日 | 論文・研究書紹介

 聖徳太子の磯長墓から持ち出されたと推測される安福寺所蔵の夾紵棺の断片については、以前、このブログで紹介しました(こちら)。他の夾紵棺の出土例では、漆で貼り合わせた布が20枚とか35枚とかであるのに、安福寺のものは42枚ほど重ねており、飛び抜けて豪華で精緻な作りになっているという内容です。

 今回は、その布をAMS(加速器質量分析法)によって放射性炭素の年代測定をしてみた試みの報告であって、

岡田文男「安福寺蔵漆棺考-AMS14C年代測定・制作技法・部位」
(『国立歴史民俗博物館研究報告』第225集、2021年3月)

です(小さな数字の14は、本来は上つき)。

 岡田氏は、そのうちの剥落した破片をAMS法によって測定してもらったところ、較正による1σは575-620年(確率 68.2%)、2σは563-641年(確率 95.4%)となった由。聖徳太子は622年没とされていますので、この範囲におさまります。前々回に紹介した白石太一郎氏による横穴式石室の年代設定、つまり、太子墓の石室の型式である岩屋山式は7世紀半ばからそれ以降とする設定とは合いませんね。

 構成については、絹布を漆で塗り固めた層と、地粉と漆を混ぜた層を交互に重ねており、表面は漆を二度塗りして「非常に平滑に仕上げている」が、糸が細くて均一な絹布ではなく、糸の太さも形状も様々であって「麁布(粗い布)」とされていた「絁(あしぎぬ)」であった可能性が高いそうです。

 このため、岡田氏は、この破片の元になった棺を夾紵棺と呼ぶのは適切ではないため、奈良時代の呼び方である漆棺と呼ぶべきだとします。

 そして、安福寺の破片はこれまで棺の短辺の一部とされてきましたが、阿武山古墳の漆棺、法隆寺五重塔初層西面金棺その他の夾紵棺の大きさの縦横の比率を考慮すると、これが短辺の場合は長辺は3メートルを超える大きなものとなって棺台におさまらないため、実際には長辺の一部だったと見ます。

 なお、地粉に用いた粉は、多孔質であって火山灰に似ているため、その後に調査したところ、すぐ近くにある二上山麓の火山灰堆積層の火山灰粒子と同様であることが判明した由。適した材料が選ばれ、工夫した作業がなされていたことが分かりますね。