聖徳太子研究の最前線

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『日本書紀』で後に増補されたのは天孫降臨・聖德太子・大化改新・壬申の乱:瀬間正之「日本書紀形成論に向けて」

2024年03月16日 | 論文・研究書紹介

 少し前に瀬間正之さんと葛西太一さんの論文が掲載された『日本書紀』の論文集を紹介しました(こちら)。その瀬間さんの新著が3月1日に刊行されました(瀬間さん、有難うございます)。

瀬間正之『上代漢字文化の受容と変容』(花鳥社、2024年)

です。この3月で上智大学を定年退職するにあたり、最近の論文をまとめたものである由。構成は以下の通り(詳しい目次は、花鳥社のサイトにあります。こちら)。

初出及び関連論文
序に代えて
はじめに——上代という特殊性——
第一篇 表記と神話——東アジアの文学世界——
 第一章 高句麗・百済・新羅・倭における漢字文化受容
 第二章 〈百済=倭〉漢字文化圏——音仮字表記を中心に——
 第三章 『古事記』の接続詞「尒」はどこから来たか
 第四章 上代日本敬語表記の諸相——「見」「賜」「奉仕」「仕奉」——
 第五章 文字言語から観た中央と地方——大宝令以前——
 第六章 漢字が変えた日本語——別訓流用・字注訓・字形訓の観点から——
 第七章 高句麗・百済建国神話の変容——古代日本への伝播を通して——
 第八章 歌謡の文字記載
 第九章 清明心の成立とスメラミコト——鏡と鏡銘を中心に——
第二篇 文字表現と成立——達成された文字表現から成立論へ——
 第一章 万葉集巻十六題詞・左注の文字表現
 第二章 『論語』『千字文』の習書木簡から観た『古事記』中巻・下巻の区分
 第三章 藤原宇合の文藻——風土記への関与を中心に——
 第四章 菟道稚郎子は何故怒ったのか——応神二十八年高句麗上表文の「教」字の用法を中心に——
 第五章 欽明紀の編述
 第六章 続・欽明紀の編述
 第七章 『日本書紀』β群の編述順序——神武紀・景行紀の比較から——
 第八章 日本書紀形成論へ向けて
  一 記紀の成立年と日本書紀区分論
  二 日本書紀と太安万侶
  三 アマテラスの成立と記紀
  四 形成論に向けて
後記
総合索引/研究者・辞典類・研究機関索引

以上です。ここでは、聖德太子に関わる第八章を紹介しますので、そこだけ節の名もあげておきました。この目次を見てもわかるように、『日本書紀』読解の進展ぶりが分かりますね。

 『日本書紀』のあちこちから目についた単語だけ拾い、「『日本書紀』は~」などと論じることはもはやできず、執筆者の違い、元の文章なのか編集の最後になって訂正・加筆された部分なのか、また朝鮮資料や半島系渡来人が書いた資料、仏教文献の語法が色濃く出ている箇所などに注意しなければ、正確に読めない時代になったわけです。

 瀬間さんは、国語学者としては珍しいことに、早くから日本古来の伝承とされてきた『古事記』の内容や表現が仏典と類似していることに注意し、梁代の宝唱が516年に編纂した仏教の類書である『経律異相』に着目、パソコンの草創期のため自ら電子化したうえで『古事記』と比較し、『古事記』の説話は意外にも仏典に基づいた部分があることなどを発見してきました。私はその頃からのパソコン仲間です。

 これまでの自他の研究を踏まえて今後の研究の方向を示したこの第八章では、瀬間さんはまず、720年に成立した『日本書紀』の僅か8年前に『古事記』が成立しており、しかも、内容から見ると『古事記』の方が新しいとする見方が現在の通説であることに注意をうながします。

 そして、歌謡と訓註の仮名が中国語原音に依拠しており、中国人の執筆と見られるα群とそうでないβ群による区分論を唱えた森博達さんの説を紹介したうえで、β群はα群よりも『古事記』に近い面がある例をあげます。

 太安万侶の太氏の子孫である多人長「弘仁私記序」や「日本紀饗竟宴和歌序」では、『日本書紀』は舎人親王と太安万侶などが撰述したとしていることに触れ、恩師である太田善麿氏が太安万侶の『古事記』序と『日本書紀』巻13以前の類似を指摘したことをさらに詳細に検討します。

 たとえば、その両方に見える「未経幾〇」という語法は、中国古典にはなく、漢訳仏典に含まれており、『古事記』の潤色に用いられた『経律異相』にも数例見えるのです。

 β群は仏教漢文の影響が強いことを瀬間さんが指摘したこともあって、森博達さんはβ群の筆者として、新羅に留学した後に還俗した山田御方だとし、『万葉集』に見える「三方沙弥」がその前身だとしたのですが、瀬間さんは森さんのα群β群説を評価しつつも、「三方沙弥」が山田御方かどうかは異説もあるとし、『古事記』との類似から見て、太安万侶も有力視されると述べます。そうなると、太安万侶と仏教の関係を知りたくなりますね。

 『古事記』は一貫して「天照大神」の語を用いており、『日本書紀』β群にもその呼称が見えるものの、α群では「日神」「伊勢大神」の呼称しか出てきません。そこで、瀬間さんは、森さんの主張と筑紫申真氏の天照大神論により、『日本書紀』はα群から書き始められたことは確実とします。アマテラスも儀鳳暦を用いているβ群に見えることから、元嘉暦から儀鳳暦に移った698年以後にβ群が書き始められ、アマテラスもそれ以後の成立と説きます。

 そして『日本書紀』区分論については、このブログでも紹介した葛西太一さんの区分、森さんの区分、そして変格漢文の有無その他による榎本福寿氏の区分論を以下のように対比します。

  

 また、聖德太子の姉であた酢香手姫が伊勢の斎宮になったことについて、用明紀に「炊屋姫天皇の紀に見ゆ」という注があるものの、現在の推古紀には見えないことから、元になった現在とは別の推古紀があったとする森さんの説に賛成し、α群風な推古紀があったと推測します。

 以上の検討を踏まえ、瀬間さんは、『日本書紀』が強調している天皇家支配の正当性を示す箇所として、天孫降臨、聖德太子伝説、大化の改新、壬申の乱をあげ、これらは大化の改新以外はすべてβ群であることに注意します。大化の改新の部分は、α群でありながら変格漢文がきわめて多く、後から加筆されていることで有名ですね。

 聖德太子と山背大兄について詳しく説いているのは巻22と23であって、ともにβ群に属します。瀬間さんは、この両巻も元はα群で書かれていたものが、大幅に改稿されたと見るのです。

 大化の改新前後も、歌謡の部分はα群ですが、漢文の誤用の多さはβ群と較べても際だっています。このため、瀬間さんは、孝徳紀も「原孝徳紀」を大幅に書き改めたことが推定されると述べます。

 瀬間さんはこのように結論づけたうえで、α群において誤用・奇用が多いのは朝鮮半島関連記事の編述がなされた時期、また仏教漢文による潤色がどの時期になされた時期など、検討しなくてはならない課題は多いとしてしめくくっています。

 これ以外の章を読んでみても、『日本書紀』編纂の経緯がこれまで以上に明らかになっています。アマテラスの成立と神武天皇の記述は同じ時期、つまり天武天皇以後になること、しかも仏教の影響もあることについては、今後も検討してゆくべき指摘です。

 なお、瀬間さんは『アリーナ2008』に書いた論文では、推古朝遺文と呼ばれるものは7世紀末から8世紀初めの成立と見る立場であって、他の用例から見て「天寿国繍帳銘」などは文武天皇以後などと推測していました。

 ただ、「天寿国繍帳銘」などが現存最古の例だったらどうなるのか。奈良時代の正倉院の写経関連記録のように、何年何月何日に書写が終わるとか、何年何月何日に経典をどこどこに返した、といった記事がずらっと揃っているなら、「こういう表現は何年から後になって使われる」と言えますが、上代の文字資料で残っている例はごく僅かです。

 また、後世の偽作説や中国伝来説もあった三経義疏は、文体・用語がそっくりであって、いずれも100年近く前の南朝の梁の注釈を種本にしていました。645年に中国に戻った玄奘三蔵が新しい訳語を盛んに作り、教義も進んだ7世紀後半になって、こんなに時代遅れの古くさい注釈を手本にして書くでしょうか。

 しかも、変格漢文満載で、それも韓国の変格漢文には見られない、『源氏物語』を思わすようなうじうじと長たらしい文体で書かれた注釈であることを考えねばならず、そのうえ、その三経義疏と「憲法十七条」は、語法を含めて共通する点が多いことを考えてみる必要がありますね。

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