最近では都城制に関する研究、都と地方を結ぶネットワークの研究が盛んになっていますが、古代日本の都を「仏都」と位置づけ、その勢力圏を論じた論文が、
吉川真司「日本古代の仏都と仏都圏」
(堀裕・三上喜孝・吉田歓編『東アジアの王宮・王都と仏教』、勉誠社、2023年)
です。
文献研究を進めるだけでなく、考古学にも通じている吉川氏は、7世紀の倭京から8世紀の平城京に至る倭・日本のミヤコは、政治・経済の中心となる王都であると同時に、王権によって交流された仏教の根拠地でもあって「仏都」と位置づけることもでき、その周辺地域も仏都の影響を受けていて他の地域と異なる特色を持っていたとします。
平城京に至る諸地域で営まれた都も「小さな仏都」であって、仏都の最大のもののは平城京だが、長岡京は平城京の寺院が移されず、さらに平安京となると、東寺・西寺しか寺院が認められなかったため、旧都の平城京がそれを補完せねばならず、平城京は「純然たる仏都」として存続していったと見通しを語ります。
「仏都圏」というのは、吉川市が考案した用語であって、仏都を支える社会的・経済的基盤となった地域のことです。これは、「首都圏」という言葉に示唆されたものである由。
吉川氏は、官大寺の僧尼たちは寺と山林で活動するだけでなく、その寺と関係が深い地域を行き来し、法会をおこなっていたこと、しかも、その地域は、播磨・紀伊・陸奥・近江その他、かなり限られていたことに注意します。
その関係性を示す一例として、吉川氏は、飛鳥・白鳳期の寺院の数とその地域の人口の比を取り上げます。寺院の数は1983年の奈良国立文化財研究書の目録によっています。これ以後、各地で寺の遺跡が発見されていますが、全国にわたる発掘状況の報告としては、今も価値があるとして使うのです。そして、最近の人口研究の成果を踏まえて作成したのが、下の図です。
A級の国は2000人以下に1寺院、B級は2~4000人に1寺院、という具合であって、一番少ないF級は16000人以上に1寺院となっています。見れば明らかなように、A級は大和・近江・和泉・河内・山城であって、畿外であるにもかかわらず、近江が第二位になっていることが注目されます。
B級は、紀伊・播磨・尾張・摂津・讃岐・備前・飛騨であって、畿内の摂津が入っており、順位が低くなっています。C級のうち、伊勢はB級の最下位に近いため、準B級とみなされます。また、飛騨については、飛騨匠の存在による可能性が大きいため、考察から外すとします。
こうして見ると、九州の少なさが目立つものの、渡来人が多い豊前、国際交渉の玄関口である筑前は、さすがに多少は多くなっています。九州王朝論者によると、九州王朝は強大であって東国にまで勢力を及ぼしていたそうですが、仏教先進国であって隋と仏教外交をしたはずなのに、この結果によると、寺には興味がなくてあまり建てず、臣下であった大和王権に建築や瓦作成の最新技術を下付した、ということになります。なんと寛大な王朝なんでしょう!
吉川氏は、尾張・讃岐・備前などを仏都圏に含めることについては異論があるだろうが、『延喜式』が「近国」としている17国に、尾張・備前は含まれています。問題は讃岐ですが、奈良時代における諸大寺の寺領を見ると、尾張・讃岐・備前は入っていると説きます。
そして、法隆寺領と上宮王領、大安寺領と舒明・天武天皇領、興福寺領と藤原鎌足領の関係が推測されるとし、上記のような地域は、王都の強い影響下にあって社会的・経済的に王都を支えた地域だと論じます。
なお、平安京内には東寺と西寺しか認められなかったが、都の郊外には王族・貴族の寺が乱立し、その結果、平城京と並ぶ仏教の中枢地となったと吉川氏は説き、東国などと結び着いていた延暦寺は、それまでとは異なる存在だったと述べています。