千の天使がバスケットボールする

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『ブライト・スター/いちばん美しい恋の詩(うた)』

2010-06-21 22:31:32 | Movie
「輝く星よ」1819年

輝く星よ
その誠実なきらめきは 夜空に高く孤独を知らぬ
その目は永遠の瞼を開き
受難者か隠遁僧の如く見守りつづける
世を取り巻く大地の岸を
絶えず清め 流れる水を
その目はまた 山や沼を覆う 淡き初雪を見守る
永遠に誠実にして変わることなし
恋人の豊かな胸を枕にその柔らかなうねりを感じつつ目覚めよう
甘き不安の中で
静かに彼女の息づかいを聴き 永遠の生か恍惚の死を求めん

わずか25歳で夭折した英国を代表するロマン派詩人のジョン・キーツJohn Keatsの「Bright Star」の詩は珠玉のように美しく、しかも官能的でもある。
しかも英語の原詩はもっと美しい。

Bright Star

Bright star, would I were stedfast as thou art--
Not in lone splendour hung aloft the night
And watching, with eternal lids apart,
Like nature's patient, sleepless Eremite,
The moving waters at their priestlike task
Of pure ablution round earth's human shores,
Or gazing on the new soft-fallen mask
Of snow upon the mountains and the moors--
No--yet still stedfast, still unchangeable,
Pillow'd upon my fair love's ripening breast,
To feel for ever its soft fall and swell,
Awake for ever in a sweet unrest,
Still, still to hear her tender-taken breath,
And so live ever--or else swoon to death.


1818年の夏。新鋭の詩人、ジョン・キーツ(ベン・ウィショー)はロンドン郊外ハムステッドに住む親友の編集者ブラウン(ポール・シュナイダー)に招かれて同じ屋敷に暮らすようになった。当時も新進の詩人は作品の価値が高くても世間や権威的な評論家たちの評価はなかなか追いつかず、彼は貧しく生活に困窮していたのだった。お隣の家の長女ファニー(アビー・コーニッシュ)は、少々生意気だがお洒落が大好きで活発な女性。彼女は、ブラウンには、詩なんて役に立たないと会えば喧嘩の犬猿の仲だが、繊細で才能ある詩人を体現したかのようなキーツには一目ぼれをしてしまう。
聡明なファニーだったが、恋というものを彼女なまだ知らない。しかし、そんなファニーの心を見透かすブラウンは、キーツの創作のために彼女を遠ざけようとするのだったが。。。

Bright Star はキーツの生涯ただ一度の恋をした女性、ファニーのために書かた詩である。本作はふたりの恋をファニーの側から描いており、監督は、『ピアノ・レッスン』で世界中にその名を知らしめたジェーン・カンピオン監督。おそらく映画好きの女性でジェーン・カンピオンの名前を知らない人はいないであろうと同じく、『ピアノ・レッスン』を観たことがない人もいないであろう。職業を紹介する記事に”女性”や”女流”の冠がとれたことを喜ぶ記事を最近読んで私も同感したが、カンピオン監督に限っては”女性”監督であるという性が、作品に独特な感性と男性には決して描くことができない繊細な官能の世界を映像美で見事に表現している。女性の視点から振り返ると、直裁的なベットシーンなくして『ピアノ・レッスン』ほど官能的な映画はなかった。はっきり言って、あの映画のエロティシズムは男には理解できないだろう。本作も「ニューズ・ウィーク」誌には、最も革新的なのは”ふたりが寝ないこと”だったとジョークの酷評がされていた。それはともかく、カンピオンが監督が務めるならキーツではなくファニーが主人公でなければならない。

アビー・コーニッシュは、瑞々しい美しさだけでなく躍動感に溢れる生命力を感じさせるファニー役を好演している。彼女のまろやかな体のラインの健やかさと一途な乙女ぶりが、キーツ役の「猫のような美しい生き物」と監督お気に入りのベン・ウィショーの初夏のあわいに漂う華奢でかげろうのような雰囲気をひきたてている。しかし、私が最も注目したのは、キーツをとりあう擬似三角関係にあるブラウンの存在である。ドレスのフリルをオリジナルで三重にも重ねてゴージャスさを装うファニーは、当時のいわばファッションリーダーのようなタイプ。裕福に育った彼女は、育ちからくる素直さそのものでメジャーデビューを果たした美形ミュージシャンに憧れるように、ひと目で詩人・キーツに恋をする。美的感性に優れていた彼女ではあったが、キーツが影響を受けたミルトンの詩が韻をふまないblank verseを用いていることも知らなかったように、その美意識はファッションへの関心にとどまっている。ブラウンはそんな彼女の人柄を見事に喝破して、キーツの短命を予感したかのように創作の時間をファニーのために削られることを恐れて、彼女を厳しく批判する。その舌鋒が鋭く厳しければ厳しいほど、ブラウンのキーツの才能への偏愛ぶりが遺憾なく発揮される。男としてのキーツを愛したファニーの女性としての官能と彼の才能を愛でたブラウンの情熱、キーツを手離したことへの身をきるように後悔するブラウンの存在があってこの映画は素晴らしい恋愛映画になりうる。そして、プラトニックなふたりの恋に、「彼女と寝ればよいのに」とつぶやくブラウンの心理を忖度すると、彼自身がたいして好きでもなかった女中に手をつけて孕ませて養育に追われていくさまも、夭折するキーツと純粋なファニーの恋心がより一層美しくも感じられる。

キーツがファニーとの恋の成就をためらったのは、果たして無一文なだけが理由だろうか。母と弟を結核で失い、自身医学生でもあったキーツには、常に自分も同じ病に倒れる覚悟があったのではないだろうか。

「Bright Star 」の詩は”And so live ever--or else swoon to death”で結ばれている。 恋する女性を謳いながら永遠の生命と死を見つめるキーツの孤独と幸福、そして慟哭を思う。