2008、2013《手造の旅》トルコ~黒海沿岸
明日、2020年7月24日、イスタンブルのアヤソフィアがモスクに変えられてしまう。
黒海沿岸トラブゾンのアヤソフィアのようなことにならなければよいと願う。
以下は2013年に、まだ博物館だった時のもの。この二年後には引用するYOUTUBEで見られるようにモスクに変えられ、装飾はほとんど見ることができなくなっている。※こちらからご覧ください
黒海の海岸から少し高くなった場所に位置しているアヤソフィアはビザンチン時代のマヌエル一世コムネノス(1238-1263)時代に建設された教会。
色鮮やかなフレスコ画が残されている。
内部の床も見ることができた
モザイク石の床は、今は絨毯の下で見えない。
キリストの業を記したフレスコ
↑これは水をワインに変える奇跡
↑こちらはパンを増やす奇跡
天井から吊り下げられた板によってほとんど見ることが出来なくなってしまったようだ。
この教会はコンスタンチノープルが陥落した後に逃れてきたビザンチン皇帝の一族が1461年まで教会として使用していた。メフメット二世はこの年の10月26日にトラブゾンを占領してモスクに変えた。
その後荒廃し第一次大戦当時には病院兼倉庫として使われていた。
戦後再びモスクとして使われはじめたが1958-62にエジンバラ大学が調査修復し、その後は博物館としてビザンチン時代の教会の姿を感じることが出来る場所だった。
入口の柱はもっと古い古代のモノの再利用かもしれない
1997年の発掘でハドリアヌス帝時代のエルメス神殿を紀元後二世紀のフラヴィウス帝が修復したものが発掘された。
教会⇒モスク⇒博物館という経緯を、イスタンブルのアヤソフィアもたどっている。
現代トルコは建国の父アタチュルクの敷いた政教分離を守っている筈だが、熱心なイスラム教徒にとっては「ここはかつてのようにモスクであるべきだ」と思う人はいるだろう。
日本にたとえるならば、戦後に国粋主義を牽制するために靖国神社を博物館に変えられてしまったようなもの、なのかもしれないから。
明日、2020年7月24日、イスタンブルのアヤソフィアがモスクに変えられてしまう。
黒海沿岸トラブゾンのアヤソフィアのようなことにならなければよいと願う。
以下は2013年に、まだ博物館だった時のもの。この二年後には引用するYOUTUBEで見られるようにモスクに変えられ、装飾はほとんど見ることができなくなっている。※こちらからご覧ください
黒海の海岸から少し高くなった場所に位置しているアヤソフィアはビザンチン時代のマヌエル一世コムネノス(1238-1263)時代に建設された教会。
色鮮やかなフレスコ画が残されている。
内部の床も見ることができた
モザイク石の床は、今は絨毯の下で見えない。
キリストの業を記したフレスコ
↑これは水をワインに変える奇跡
↑こちらはパンを増やす奇跡
天井から吊り下げられた板によってほとんど見ることが出来なくなってしまったようだ。
この教会はコンスタンチノープルが陥落した後に逃れてきたビザンチン皇帝の一族が1461年まで教会として使用していた。メフメット二世はこの年の10月26日にトラブゾンを占領してモスクに変えた。
その後荒廃し第一次大戦当時には病院兼倉庫として使われていた。
戦後再びモスクとして使われはじめたが1958-62にエジンバラ大学が調査修復し、その後は博物館としてビザンチン時代の教会の姿を感じることが出来る場所だった。
入口の柱はもっと古い古代のモノの再利用かもしれない
1997年の発掘でハドリアヌス帝時代のエルメス神殿を紀元後二世紀のフラヴィウス帝が修復したものが発掘された。
教会⇒モスク⇒博物館という経緯を、イスタンブルのアヤソフィアもたどっている。
現代トルコは建国の父アタチュルクの敷いた政教分離を守っている筈だが、熱心なイスラム教徒にとっては「ここはかつてのようにモスクであるべきだ」と思う人はいるだろう。
日本にたとえるならば、戦後に国粋主義を牽制するために靖国神社を博物館に変えられてしまったようなもの、なのかもしれないから。
しかし、最後の小松氏の
<<現代トルコは建国の父アタチュルクの敷いた政教分離を守っている筈だが、熱心なイスラム教徒にとっては「ここはかつてのようにモスクであるべきだ」と思う人はいるだろう。
日本にたとえるならば、戦後に国粋主義を牽制するために靖国神社を博物館に変えられてしまったようなもの、なのかもしれないから。>>
このコメントでなるほどと分かるようなき気がしました。