旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

チチェスター大聖堂

2014-01-18 14:06:47 | イギリス
2014年1月の夕方、はじめて訪れたチチェスター大聖堂は夕暮れに沈もうとしていた

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1066年に勝利したノルマン人のウィリアム征服王は、アングロ・サクソン時代のSelsyに代わり、このチチェスターに司教区教会を移す。

そして建設がはじまった初代の大聖堂は1108年、司教Ralph de Luffaの時一応完成。しかし、多くが木製だっただろうこの聖堂は1187年に火災に遭って焼失した。

現在の石の天井はこの後の、1199年再建時のものと考えられている。

現在地上で見られるもっとも古い部分はこの時代のものであるようだ


全体の空撮は紹介パネルから

印象的な中央の塔は1402年に完成したが、1861年に一度崩落している。その時の写真がこれ。

1859年に堂内仕切り壁の一部を取り壊したのが発端となり、建物に亀裂が生じはじめた。
その「仕切り壁」は、再建の時に復元された。この写真で内陣と一般席を遮るように横断している↓

様々な補修が試みられたが、亀裂は大きくなり、軋み、石が落ちてくるに至り、持ち出せるものは避難させた。そして、ついに崩落したのである。

崩落以前の塔が描かれた版画現在のものと微妙な違いがある。

塔と同じ時期に建設された15世紀の鐘楼は、中世的な重々しさを見せて立ち続けている

最初の大聖堂の頃のモノで今でも堂内で見られるのは、この彫刻。貴重なのはわかるが、ガラスカバーがあまりにも見づらい展示されていた写真の方がよく見える⇒「ラザロを復活させるキリスト」中部フランスから北スペインの巡礼の道あたりで見られるロマネスクに似て、素朴で力強く、信仰心を感じさせる。

堂内には20世紀の作品もある。その代表作は正面祭壇のカラフルなタピスリー。

1966年にイギリス人画家ジョン・パイパーのデザインによりフランスで制作された。三位一体と四つの福音書をあらわしている。

主祭壇裏手にも彼の作品がもうひとつある

この作品はすぐ近くにあるシャガールのステンドグラスと呼応するような色使いだ

単調な色が多い大聖堂の中にあって、これら20世紀の作品はとても目を惹く。
※案内をしてくれた地元ガイドさんはあんまり評価していないようだったが、小松は結構好きです。

★二つ目のタピスリーの前は、聖リチャードの墓があった。彼は1245年~1253年までチチェスター司教だった人物で、宗教改革以前にカトリック教会時代の聖人とされていた。多くの巡礼が集まる聖地となっていたが、1538年ヘンリー八世の宗教改革によって墓は完全に破壊された。二十世紀になり1930年にひとつの祭壇が復元されている。
《聖リチャードの生涯》
後の聖リチャードRichard of Wychは1197年、裕福な農家に生れたが両親の死により貧困に陥る。苦学してオックフフォード大学へすすみ、ボローニャ、パリという当時最高の大学へ留学。帰国後オックスフォードの学部長となる。 
旧師のエドムンド・リッチがカンタベリー大司教となった事で、このチチェスターの司教に任命されたが、師がイギリス王ヘンリー三世との確執によりフランスへ亡命し、追従。

この師の死後、次のカンタベリー大司教からチチェスターの司教に任命されるが、イギリス王は別の人物を認定した。フランスのリヨンに居た法皇に直訴し認められたが、祖国に戻ってもリチャードは自らの教区に入る事が出来なかった。収入の道も途絶え、粗衣粗食に耐える二年となるが、この時期の彼こそがウェストサセックスの人々の心をとらえていったようである。
二年後に確執がとけ、チチェスターの司教区を良く治めた。
1250年、イギリス王が十字軍を提唱したのに応えてエルサレムへ行こうとするが、1253年4月3日ドーバーで病没した。※第七回十字軍には実質イギリスは参加していない。


*ヘンリー八世の宗教改革の後、カトリックの習慣である巡礼や修道院システムは廃絶され、英国教会の長である王から新たな司教が任命されてくる。この様子を描いた巨大な板絵が残されている。


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