旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

京都ミニ等伯めぐり~妙蓮寺と本法寺

2019-04-08 17:00:00 | 国内
養父母が没し、妻と幼子の手を引いて能登から上洛してきた長谷川等伯。

京都では故郷の寺からの縁で日蓮宗の寺に世話になっていた。
本法寺には旅姿の等伯の像がある↓

これと同じ像が故郷七尾の駅前にもあるのだそうだ。
**
最初に訪れた妙蓮寺は

桜に日蓮さんが迎えてくださり

散りはじめた花びらが水たまりをふちどっていた

本堂に入って

さいしょのふすまをあけてびっくり

暗闇でこんな子たちがうごいている

「こんな妖怪たちがいたらおもしろいね」という思いで

若いアーティストたちが作品を展示しているのだそうな。

↓この十六羅漢の石庭もよいが

奥の宝物室に保管されている長谷川派の障壁画群は一見の価値がある。
特に杉をデザイン化してならべたような「鉾杉図」は↓
※こちらから「京都観光ナビ」の頁になります
惜しむらくは、収蔵スペースが狭いのでガラスケースに押しこめられている状態になっていること。
距離をとって、上記のもとあったような環境のもとで観たいものだ。
***
★本法寺も桜の盛りだった





ここに収蔵されている等伯の巨大涅槃図(縦10m×横6m)は、この期間に限って、ホンモノが展示されている。
※こちらの英文ページの写真が絵の中心部分をクローズアップして見せてくれます
※この写真でいちばん左端に、緑色の袈裟姿の五十三歳の等伯自身が描きこまれている

この時期の等伯は息子の久蔵を二十六歳で亡くしたばかり。
すでに自分以上の才気を輝かせ始めていた我が子を失くした痛手はどんなだっただろう。
※前出の妙蓮寺に収蔵されていた「鉾杉図」を描いたのは等伯を超える才能をみせた久蔵によるものと推察されている

悲嘆に暮れて絵筆などとれなくなった彼を、この寺の住職が勧めて供養のための大涅槃図を描かせた。
釈迦の死を嘆く衆生が描かれているなかで、ひとり等伯自身が大げさな動きはないが絶望に囚われてしまったような表情で描かれていた。

実際に目にすると圧倒される巨大さ。
これだけの大きさの軸を飾る建物があったのだろうか。
材質は和紙だそうだが、それでもかなりの重さがあるだろう。

伺えば、当時の本堂正面いっぱいに吊り下げられていたのだが、
重さに耐えられずに上部が破れて落ちた。
それ以来、専用のケースに丸めて収納されるのが常になった。
1788年の大火もそれで被災しなかった。
上部に確かに破れた跡が見えた。
***
この寺には本阿弥光悦が製作した「巴の庭」がある

↓左の丸い石と右の小さな池、何を表しているか?

右の池に蓮が咲くと、「日蓮」と読める。なるほど(^.^)

↓廊下の突き当たりに消えそうな鶴が描かれているが、これは下村観山画↓

大観や観山もこの庭を楽しんだのだろう

↓燈籠のひとつを指さして「マリヤ観音が刻まれているようです」とおしえてくださった↓

裏側にまわってみると、たしかに手を合わせる姿があった↓

かつては半分ぐらい埋まっていたので見つからずにすんだようです、とのこと。
解説書に載らない歴史はまだたくさんあるのだろう。

入口のところにお花いっぱいの甘茶池が用意されていて↓

真ん中の生まれたばかりで「天上天下唯我独尊」と歩む小像にかけてさしあげる。
そうか、今日はお釈迦様の誕生日とされている4月8日「はなまつり」だった。




このあたりは京都らしい佇まいが生きていると感じさせる

千利休が住んでいたのもこのあたりだったのか


少し陽がかたむきはじめ、吹いてきた風が花びらをちらした





午後五時、予定通り京都駅に到着!


秋にも大津と京都をめぐり、丹後半島でまぼろしの間人カニを食べる旅をかんがえております

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