ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

奴隷の世界歴史(連載第23回)

2017-10-17 | 〆奴隷の世界歴史

第三章 世界奴隷貿易の時代

大西洋奴隷貿易:最盛期
 ポルトガルが先鞭をつけた大西洋奴隷貿易が最盛期を迎えるのは、16世紀末にポルトガルが台頭したスペインによって併合され後退した後の17世紀から18世紀にかけてのことである。
 スペインでは先住民奴隷が酷使や疫病により激減すると、補完として黒人奴隷を必要とするようになり、王室が商人集団に対して保証となる前金と引き換えに一定数の奴隷輸送販売の独占権を付与するという一種の請負契約(アシエント)の法的仕組みを整備して奴隷貿易を促進したのであった。
 ポルトガルの後退に付け込む形でオランダが割り込み、1637年、奴隷貿易の拠点であったエルミナ城をポルトガルから奪取し、17世紀前半までにギニア海岸を我が物とした。その後、ポルトガルは南下してアンゴラを征服するとともに、東アフリカ方面に侵出してモザンビークを植民地化し、新たな奴隷貿易拠点とした。
 イギリスは、初めロンドン商人を中心とする王立アフリカ会社が奴隷貿易を独占し、欧州とアフリカ西海岸とカリブ海域(西インド諸島)をつなぐいわゆる三角貿易の経済的な仕組みを最初に確立した。王立会社は独占批判を受け17世紀末に解散となったが、イギリスはスペイン王位継承戦争後の1731年ユトレヒト条約でスペインのアシエントを譲り受ける形で三角貿易を継続し、以後18世紀を通じて三角貿易の利益をほぼ独占した。
 この大西洋奴隷貿易は貿易船による奴隷の長距離輸送という過酷なプロセスを含む点で、イスラーム奴隷貿易にも見られない非人道的な性格を帯びていた。過密状態の輸送船内の環境は劣悪で、約5週間を要した航海中の死亡率は最大20パーセントに達したとされる。
 衰弱した奴隷は海中に遺棄されることもあった。そのことが保険金訴訟に発展したのが、ゾング号虐殺事件である。一方、奴隷船内で奴隷が反乱を起こすこともあったが、成功することはなく、残酷に制圧されるか、乗っ取りに成功しても漂流するだけであった。
 また、いったん奴隷として売却されれば後宮職員や側女、軍人としての立身もあり得たイスラーム奴隷とは異なり、大西洋奴隷貿易における黒人奴隷は、売却先でもプランテーション労働者として過酷な労働を強いられる運命にあった。
 ただし、場合によっては農場主の召使などの家内奴隷となり、主人の温情によって個別的に解放されることもあった。そうした解放奴隷が比較的多かったのが、後に独立するフランス植民地のサン‐ドマングや北アメリカであった。
 かくして初期から通算すれば3世紀に及んだ大西洋奴隷貿易によって輸送された黒人奴隷の総数については正確な記録もなく、論者によって様々な数字が提出されているが、最小推計でも1000万人、最大推計では5000万人に達するとされる。
 いずれにせよ、当時の人口規模では奴隷供給元となるアフリカの諸王国の存亡に関わる数字であり、実際、アフリカ社会は大西洋奴隷貿易の影響で衰退・崩壊していったのである。


コメント    この記事についてブログを書く
« 奴隷の世界歴史(連載第22回) | トップ | 奴隷の世界歴史(連載第24回) »

コメントを投稿