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奴隷の世界歴史(連載第25回)

2017-10-30 | 〆奴隷の世界歴史

第三章 世界奴隷貿易の時代

逃亡奴隷共同体
 大西洋奴隷貿易で「輸出」されたアフリカ奴隷の行き先は、サントメ島のような近場を例外として、多くは新大陸のプランテーションであった。そこでは、過酷な強制労働が待ち受けていたが、当然と言うべきか、逃亡者も絶えなかった。
 これらの逃亡奴隷はマルーンと呼ばれ、山中で武装化し、自治的共同体を形成するようになる。こうしたマルーン共同体は、新大陸とその周辺島嶼各地に散在するようになるが、その最も古いものはポルトガル植民地ブラジルで形成された。広大なブラジルには、マルーンが集住するに適した未開拓地が多数残されており、かれらには有利な条件があった。
 キロンボと呼ばれたブラジルの逃亡奴隷共同体はブラジル各地に多数形成されたが、中でも17世紀初頭、北東部に形成されたキロンボ・ドス・パルマーレスは最盛期2万人の人口を擁する一種の自治国家として、一世紀近く存続していく。
 先住民や貧困層白人なども吸収しつつ独立を目指したパルマーレスは17世紀後半、ポルトガルに敗れて奴隷として連行されたコンゴ王国王族の出身とも言われるガンガ・ズンバとその甥ズンビの下で一種の王国として最盛期を迎えるが、ズンビがポルトガル植民地軍に敗れ、終焉した。  
 一方、フランス植民地島ハイチではマウォンと転訛したマルーンは国家的な共同体よりも、ゲリラ的なネットワークを形成し、白人プランテーションを襲撃、奴隷を救出解放する活動を展開した。中でも1750年代に活躍したフランソワ・マッカンダルは西アフリカ由来のブードゥー教司祭でもあり、プランテーションの飲食物に毒を仕込んで殺害するテロ作戦により恐れられた。
 彼は結局、捕らえられ残酷に処刑されたが、ハイチにおけるマウォンのゲリラ活動は後世に引き継がれ、マッカンダルの死からおよそ30年後のハイチ独立革命につながっていくのである。
 同じカリブ海域の英国植民地島ジャマイカでも18世紀、マルーンが団結して反英闘争を開始した。その中心に立ったのは、クジョーとその妹分の女性戦士ナニーであった。クジョーは1739年まで8年間続いた対英戦争(第一次マルーン戦争)を率いた。ナニーのほうは後にナニー・タウンと命名された町にマルーン共同体を形成し、事実上の首長として統治した。
 ただ、第一次マルーン戦争を終結させた条約はマルーン共同体の存続を認める見返りに逃亡奴隷拘束に協力するという妥協的な内容であったため、1795年には再び一部マルーンが蜂起し、第二次マルーン戦争となるが、結局、英国の実質勝利に終わり、反乱したマルーンはカナダと西アフリカのシエラレオーネへ強制送還されてしまう。
 とはいえ、ジャマイカのマルーン戦争は19世紀初頭以降、人道主義的潮流からの奴隷制廃止運動とは別に、奴隷制度の持続可能性に関して懐疑を生じさせ、英国の奴隷貿易・奴隷制廃止へ向けた政策転換の契機になったと考えられる。

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