ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

晩期資本論(連載第75回)

2015-11-10 | 〆晩期資本論

十六 資本主義的階級の形成(2)

資本―利潤(企業者利得・プラス・利子)、土地―地代、労働―労賃、これは、社会的生産過程のあらゆる秘密を包括している三位一体形態である

 マルクスは、資本主義社会の三大階級の形成要因となる資本主義的生産様式の三つの要素を、このように―いささか皮肉的に―キリスト教の三位一体論になぞらえて、定式化している。ただし、「利子は資本の本来の特徴的な所産として現われるが、企業者利得は、それとは反対に、資本にはかかわりのない労賃として現われるので」、第一位の要素である資本―利潤は、資本―利子に集約される。

・・・資本―利子、土地―地代、労働―労賃という定式では、資本、土地、労働は、それぞれ、その生産物であり果実である利子(利潤ではなく)、地代、労賃の源泉として現われる。前者は理由で後者は帰結であり、前者は原因で後者は結果である。・・・・・・・・すべての三つの収入、すなわち利子(利潤ではなく)、地代、労賃は、生産物の価値の三つの部分であり、つまり一般に価値部分であり、または、貨幣で表現すれば、ある貨幣部分であり価格部分である。

 マルクス特有の皮肉的な比喩によれば、「公証人の手数料とにんじんと音楽との関係」ぐらいに表面上は無関係に見える利子、地代、労賃の三つの部分が、資本主義経済システムにおいては、三位一体的に結びついている。この理をマルクスは木にたとえて、「この三つの部分は、一本の多年生の木の、またはむしろ三本の木の、年々消費してよい果実として現われる。」と表現している。この結合関係をより経済学的にまとめると―

土地所有と資本と賃労働とは、次のような意味での収入の源泉から、すなわち、資本は資本家が労働から引き出す剰余価値の一部分を利潤の形で資本家のもとに引き寄せ、土地の独占は別の一部分を地代の形で土地所有者のもとに引き寄せ、そして労働は最後に残る処分可能な価値部分を労賃の形で労働者のものにするという意味での源泉から、・・・・・・・・・・・現実の源泉に転化して、この源泉からこれらの価値部分が発生し、また、生産物中のそれに相当する部分、つまりこれらの価値部分がそのなかに存在するかまたはそれに転換されうる生産物部分そのものが発生することになり、したがって、それを究極の源泉としてそこから生産物の価値そのものが発生することになるのである。

 こうしたメカニズムはしかし、「生産関係そのものを一つの物に転化させる」物象化が支配的な資本主義社会における「現実の生産過程は、直接的生産過程と流通過程との統一として、いろいろな新たな姿を生みだすのであって、これらの姿ではますます内的な関連の筋道はなくなって行き、いろいろな生産過程は互いに独立し、価値の諸成分は互いに独立な諸形態に骨化するのである」。

企業者利得と利子への利潤の分裂は、・・・・・・・・剰余価値の形態の独立化を、剰余価値の実体、本質にたいする剰余価値の形態の骨化を完成する。

 先の「骨化」の第一段階である。すなわち、「利潤の一部分は、他の部分に対立して、資本関係そのものからまったく引き離されてしまい、賃労働を搾取するという機能から発生するのではなく資本家自身の賃労働から発生するものとして現われる。この部分に対立して、次には利子が、労働者の賃労働にも資本家自身の労働にもかかわりなしに自分の固有な独立の源泉としての資本から発生するように見える」。

最後に、剰余価値の独立な源泉としての資本と並んで、土地所有が、平均利潤の制限として、そして剰余価値の一部分を次のような一階級の手に引き渡すものとして、現われる。その階級とは、自ら労働するのでもなければ労働者を直接に搾取するのでもなく、また利子生み資本のようにたとえば資本を貸し出すさいの危険や犠牲といった道徳的な慰めになる理由を楽しんでいることもできない階級である。 

 土地―地代の段階まで来ると、このように価値の諸成分の骨化と呼ばれる現象は完璧の域に達する。すなわち、「ここでは剰余価値の一部分は、直接には社会関係に結びついているのでなく、一つの自然要素である土地に結びついているように見えるので、剰余価値のいろいろな部分の相互間の疎外と骨化の形態は完成されており、内的な関連は決定的に引き裂かれており、そして剰余価値の源泉は、まさに、生産過程のいろいろな素材的要素に結びついた様々な生産関係の相互にたいする独立化によって、完全にうずめられているのである」。

資本―利潤、またはより適切には資本―利子、土地―地代、労働―労賃では、すなわち価値および富一般の諸成分とその諸源泉との関係としてのこの経済的三位一体では、資本主義的生産様式の神秘化、社会的諸関係の物化、物質的生産諸関係とその歴史的社会的規定性との直接的合生が完成されている。

 マルクスはこうした資本主義的社会編制を「魔法にかけられ転倒され逆立ちした世界」と揶揄しているが、「現実の生産当事者たちがこの資本―利子、土地―地代、労働―労賃という疎外された不合理な形態でまったくわが家にいるような心安さをおぼえるのも、やはり当然のことである。なぜならば、まさにそれこそは、彼らがそのなかで動きまわっており毎日かかわりあっている外観の姿なのだからである。」とも指摘する。実際、われわれ資本主義社会の住人は、まさに魔法にかかったように、この三位一体を当然のごとくに受け止め、通常は疑問を感ずることなく、生活しているのである。 


コメント    この記事についてブログを書く
« 晩期資本論(連載第74回) | トップ | 戦後ファシズム史(連載第4回) »

コメントを投稿