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晩期資本論(連載第71回)

2015-10-20 | 〆晩期資本論

十五 農業資本の構造(4)

差額地代を分析するにあたっては次のような前提から出発した。すなわち、最劣等地は地代を支払わないということ、または、もっと一般的に言い表せば、地代を支払う土地は、ただ、その生産物にとっては個別的生産価格が市場規制的生産価格よりも低く、したがってそこに地代に転化する超過利潤が生ずるような土地だけだということである。

 個別的生産価格と一般的生産価格の差額として把握される差額地代は、理論上そのような差額を生み出す土地においてのみ成立することになる。しかし、土地所有者にしてみれば、最劣等地だからといって、それを無償で貸し出すほど甘くはない。となると、差額地代の前提は崩れる。

・・・もし最劣等地Aが―その耕作は生産価格をもたらすであろうにもかかわらず―この生産価格を越える超過分すなわち地代を生むまでは耕作されることができないとすれば、土地所有はこの価格上昇の創造的原因である。土地所有そのものが地代を生んだのである。

 これが差額地代に対して絶対地代と呼ばれる地代の形態である。差額地代が土地そのものではなく、土地の豊度の違いに応じた言わば相対地代であることに対照される。

土地の単なる法律上の所有は、所有者のために地代を生みだしはしない。しかし、それは、土地が本来の農業に使用されるのであろうと、建物などのような別の生産目的に使用されるのであろうと、その土地の経済的利用が所有者のためにある超過分をあげることを経済的諸関係が許すまでは、自分の土地を利用させないという力を、所有者に与える。

 土地所有権の法的効力は土地を排他的に支配することであり、地代を当然に含むものではないが、地代が発生するまでは土地を未開発に保持する権利がある。そこで、「この土地所有の存在こそは、まさに、土地への資本の投下にとっての、また土地での資本の任意の増殖にとっての、制限をなしているのである。」とも言われる。

・・・・土地所有が設ける制限のために、市場価格は、この土地が生産価格を越える超過分すなわち地代を支払うことができるようになる点まで、上がらざるを得ない。ところが、農業資本によって生産される商品の価値は、前提によれば、その商品の生産価格よりも高いのだから、この地代は(すぐあとで検討する一つの例外[本来の独占価格にもとづく場合]を除いては)生産価格を越える価値の超過分またはそれの一部分をなしている。

 このように、絶対地代の本質は農産物の価値が生産価格を越える超過分である。つまり、「この絶対的な、生産価格を越える価値の超過分から生ずる地代は、ただ、農業剰余価値の一部分でしかなく、この剰余価値の地代への転化、土地所有者によるそれの横取りでしかないのであって、ちょうど、差額地代が、一般的規制的生産価格のもとで、超過利潤の地代への転化、土地所有者によるそれの横取りから生ずるのと同じことである」。

・・・・理論的に確実なことは、ただこの前提のもとでのみ農業生産物の価値はその生産価格よりも高くありうるということである。すなわち、与えられた大きさの資本によって農業で生産される剰余価値は、または、同じことであるが、その資本によって動かされ指揮される剰余労働(したがってまた充用される生きている労働一般)は、社会的平均構成をもつ同じ大きさの資本の場合より大きいということである。

 言い換えれば、農業における資本構成が社会的平均資本の構成よりも低いということであり、従って「もし農業資本の平均構成が社会的平均資本の構成と同じかまたはそれよりも高ければ、絶対地代はなくなるであろう」。また「もし農業資本の構成が耕作(技術)の進歩につれて社会的平均資本の構成と平均化されれば、やはり同じことが起きるであろう」。実際、近年における農業の機械化や遺伝子組み換え技術、さらには未来先取り的な栽培工場制度などの発達により、農業における資本構成は高度化しているように見える。
 ただし、マルクスも予測したように、「農業での社会的生産力の増進は、自然力の減退をただ埋め合わせるだけか、または埋め合わせもせず―この埋め合わせはつねにある期間だけしか作用できない―、したがって農業では技術的発展が起きても生産物は安くならないで、ただ生産物がさらにより高くなることが妨げられるだけだということもありうる」。そのため、現代でも農業の高度な資本化は起きていないのだとも考えられる。


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