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晩期資本論(連載第65回)

2015-09-21 | 〆晩期資本論

十四 銀行資本と信用制度(3)

 銀行資本が象徴しているのは信用制度であるが、銀行信用を含めた信用制度の基礎には「再生産に携わっている資本家たちが互いに与え合う信用」、すなわち商業信用がある。

この信用(商業信用)を代表するものは、手形、すなわち確定支払期限のある債務証券、延払証券・・・・・である。

 典型的には、約束手形が想定される。マルクスはここで、「われわれはさしあたり銀行業者信用は全然考慮しないこととする。」と断っているが、実際のところ、手形の支払い資金は銀行預金から支出されることが通常であり、また銀行は手形割引に引受人として関与し、その割引金利はプライムレートの基準となるなど、商業信用と銀行信用は密接にリンクしている。
 ただ、こうした銀行信用との絡みを捨象した「純粋な商業信用の循環については、二つのことを言っておかなくてはならない」。

第一に、このような相互の債権の決済は、資本の還流にかかっている。すなわち、ただ延期されただけのW―Gにかかっている。

 例えば、約束手形を振り出した業者Aが受取人の業者Bに支払うには、Aの商品が期日までに売れなければならない。すなわち、「支払は、再生産すなわち生産・消費過程の流動性にかかっているのである」。言い換えれば、「各人は、自分が手形を振り出したときには、自分自身の事業での資本の還流をあてにしていたか、またはその間に彼に手形の支払いをすべき第三者の事業での還流をあてにしていたかのどちらかでありうる」。

第二に、この信用制度は、現金支払の必要性をなくしてしまうものではない。

 手形は貨幣の代替物ではないので、満期が到来すれば、現金決済しなければならない。「還流の見込みを別とすれば、支払いは、ただ、手形振出人が還流の遅れたときに自分の債務を履行するために処分できる準備資本によってのみ、可能となることができるのである」。

この商業信用にとっての限界は、それ自体として見れば、(1)産業家や商人の富、すなわち還流が遅れた場合の彼らの準備資本処分力であり、(2)この還流そのものである。

 「手形が長期であればあるほど、まず第一に準備資本がそれだけ大きくなければならず、また価格の下落や市場の供給過剰による還流の減少または遅延の可能性がそれだけ大きくなる。さらに、もとの取引が商品価格の騰落をあてこんだ思惑によってひき起こされたのであれば、回収はますます不確実である」。そして、手形不渡りは企業倒産にもつながる信用失墜となる。

ところが、労働の生産力が発展し、したがってまた大規模生産が発展するにつれて、(1)市場が拡大されて生産地から遠くなり、(2)したがって信用が長期化されざるをえなくなり、したがってまた、(3)思惑的要素がますます取引を支配するようにならざるをえないということは、明らかである。

 生産力が発展すれば遠隔取引や思惑取引も増大するため、商業信用は不可欠となる。「信用は、量的には生産の価値量の増大につれて増大し、時間的には市場がますます遠くなるにつれて長くなる。ここでは相互作用が行なわれる。生産過程の発展は信用を拡大し、そして信用は産業や商業の操作の拡大に導くのである」。

・・・・いま、この商業信用に本来の貨幣信用が加わる。産業家や商人どうしのあいだの前貸が、銀行業者や金貸業者から産業家や商人への貨幣前貸と混ぜ合わされる。

 冒頭でも注記したとおり、商業信用は銀行信用とリンクしている。典型的には、手形割引である。手形割引などは実質上金融手段であり、これにより「各個の製造業者や商人にとって、多額の準備資本の必要が避けられ、また現実の還流への依存も避けられるのである」。

しかし、他面では、一部はただ融通手形のやりくりによって、また一部はただ手形づくりを目的とする商品取引によって、全過程が非常に複雑にされるのであって、外観上はまだ非常に堅実な取引と順調な還流とが静かに続いているように見えても、じつはもうずっと前から還流はただ詐欺にかかった金貸業者とか同じく詐欺にかかった生産者とかの犠牲によって行なわれているだけだということにもなるのである。

 手形詐欺は資本主義経済ではしばしば発生する典型的な経済犯罪である。「それだから、いつでも事業は、まさに破局の直前にこそ、ほとんど過度にまで健全に見えるのである。」というのも、経験則であろう。
 もっと大きく見れば、「事業は相変わらずいたって健全であり、市況は引き続き繁栄をきわめているのに、ある日突然崩壊が起きるのである」。これはいささか誇張であり、崩壊の前には市況に何らかの予兆が現われているものであるが、信用取引は複雑で目に見えにくいため、予兆の発見が遅れがちであることはたしかであり、それは信用経済が最高度に拡大した現代資本主義の恐ろしさである。

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晩期資本論(連載第64回)

2015-09-09 | 〆晩期資本論

十四 銀行資本と信用制度(2)

銀行資本は、(1)現金、すなわち金または銀行券と、(2)有価証券とから成っている。

 銀行資本の構成要素はこの二つに大別される。これをさらに細かくみると、前者(銀行券は現代では中央銀行に集中される)は銀行業者自身の投下資本と預金に分かれ、後者は手形に代表される商業証券と、国債証券に代表される公的有価証券、各種株式等である。

利子生み資本という形態に伴って、確定した規則的な貨幣収入は、それが資本から生ずるものであろうとなかろうと、すべて資本の利子として現われることになる。まず貨幣収入が利子に転化させられ、次に利子といっしょに、その利子の源泉となる資本も見いだされる。同様に、利子生み資本とともに、どの価値額も、収入として支出されさえしなければ、資本として現われる。すなわち、その価値額が生むことのできる可能的または現実的な利子に対立して元金(principal)として現われるのである。

 マルクスが挙げる簡単な例で言えば、25ポンドの利子を生む500ポンドの資本があるとして、「25ポンドの源泉が単なる所有権また債権であろうと、地所のような現実の生産要素であろうと、とにかくそれが直接に譲渡可能であるか、または譲渡可能になる形態を与えられる場合を除けば、純粋に幻想的な観念であり、またそういうものでしかないのである」。
 このような幻想的な資本のことを「仮想資本」(擬制資本)という。なお、「架空資本」という言い方もあるが、これでは作為的に仮装された資本というニュアンスになりかねないので、一般的ではないが、ここでは「仮想」の語を用いる。

仮想資本の形成は資本換算と呼ばれる。すべて規則的に繰り返される収入は、平均利子率で計算されることによって、つまりこの利子率で貸し出される資本があげるはずの収益として計算されることによって資本換算される。

 例えば年収入100ポンドで利子率5パーセントとすると、計算上これは2000ポンドの年利子と想定され、「そこで、この2000ポンドは年額100ポンドにたいする法律上の所有権の資本価額とみなされる」。
 「こうして、資本の現実の価値増殖過程とのいっさいの関連は最後の痕跡に至るまで消え去って、自分自身によって自分を価値増殖する自動体としての資本の観念が固められるのである」。これが先に利子生み資本の呪物的性格と言われたもののからくりである。

債務証書―有価証券―が国債の場合のように純粋に幻想的な資本を表わしているのではない場合でも、この証券の資本価値は純粋に幻想的である。

 国債の場合は、「資本そのものは、国によって食い尽くされ、支出されている。それはもはや存在しない。国の債権者がもっているものは、・・たとえば100ポンドといった国の債務証書である」。これに対して、「会社の株式は、現実の資本を表わしている。すなわち、これらの企業に投下されて機能している資本、またはこのような企業で資本として支出されるために株主によって前貸しされている貨幣額を表わしている」。とはいえ、「株式は、この資本によって実現されるべき剰余価値にたいする按分比例的な所有権にほかならないのである」。

国債証券だけではなく株式を含めてのこのような所有権の価値の独立な運動は、この所有権が、おそらくそれがもとづいているであろう資本または請求権のほかに、現実の資本を形成しているかのような外観を確定する。

 ここで、「仮想資本」という語の意味がより明瞭になる。しかも―

・・このような所有権は、その価格が独特な運動をし独特な定まり方をする商品になるのである。その市場価値は、現実の資本の価値が変化しなくても(といってもその価値増殖は変化するかもしれないが)、その名目価値とは違った規定を与えられる。一方では、その市場価値は、その権利名義によって取得される収益の高さと確実性とにつれて変動する。

 こうして、株式市場に代表される有価証券市場が形成される。周知のとおり、晩期資本主義はこうした有価証券市場を中心に回っていると言っても過言でない。しかし―

これらの証券の減価または増価が、これらの証券が表わしている現実の資本の価値運動にかかわりのないものであるかぎり、一国の富の大きさは、減価または増価の前も後もまったく同じである。

 つまり、こうした証券市場の変動は、実体経済とは離れて生じる。しかし、そうした言わば仮想市場が巨大化した晩期資本主義にあっては、仮想市場の動向が実体経済にも影響を及ぼす。証券バブル経済とその破局はその極端な例である。この点、マルクスも「利子生み資本や信用制度の発展につれて、同じ資本が、または同じ債権でしかないものさえもが、いろいろな人手のなかでいろいろな形で現われるいろいろに違った仕方によって、すべての資本が二倍になるように見え、また三倍になるようにも見える。」と予見していた。

最後に、銀行業者の資本の最後の部分をなすものは、金または銀行券から成っている彼の貨幣準備である。預金は、契約によって比較的長期間にわたるものとして約定されていないかぎり、いつでも預金者が自由に処分できるものである。それは絶えず増減している。しかし、ある人がそれを引き出せば他の人がそれを補充するので、営業状態が正常なときには一般的な平均額はあまり変動しない。

 とはいえ、預金は「利子生み資本として貸し出されており、したがって銀行の金庫のなかにあるのではなく、ただ銀行の帳簿の上で預金者の貸方として現われているだけである。他方では、預金者たちの相互の貸しが彼らの預金引き当ての小切手によって相殺され互いに消去されるかぎりでは、預金はこのような単なる帳簿金額として機能する」。その点では、預金も仮想資本としての性格を持つ。「預金とは、じっさいただ公衆が銀行業者にたいして行なう貸付の特殊な名称でしかないのである」。まとめると―

 すべて資本主義的生産の国には、このような形態で巨大な量のいわゆる利子生み資本またはmoneyed capitalが存在している。そして、貨幣資本の蓄積というものの大きな部分は、生産にたいするこのような請求権の蓄積のほかには、すなわちこのような請求権の市場価格の蓄積、その幻想的な資本価値の蓄積のほかには、なにも意味しないのである。

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晩期資本論(連載第63回)

2015-09-08 | 〆晩期資本論

十四 銀行資本と信用制度(1)

信用制度の一方の面は貨幣取引業の発展に結びついており、この発達は当然、資本主義的生産のなかでは商品取引業の発展示と同じ歩調で進んでいく。すでに前の篇(第十九章)で見たように、事業家の準備金の保管、貨幣の受け払いや国際的収支の技術的操作、したがってまた地金取引は貨幣取引業者の手に集中される。この貨幣取引業と結びついて、信用制度のもう一方の面、すなわち利子生み資本または貨幣資本の管理が、貨幣取引業者の特殊な機能として発展する。貨幣の貸借が彼らの特殊な業務になる。

 こうした特殊業務としての貨幣貸借がむしろ中核業務となったのが、近代的な銀行制度である。「貨幣資本の現実の貸し手と借り手とのあいだの媒介者」となった「銀行は、一面では貨幣資本の集中、貸し手の集中を表わし、他面では借り手の集中を表わしている」。

まず第一に、銀行は産業資本家たちの出納係であるから、銀行の手中には、各個の生産者や商人が準備金として保有する貨幣資本や彼らのもとに支払金として流れてくる貨幣資本が集中する。

 こうした「商業世界の準備金は、共同の準備金として集中される」という形で、銀行は「貨幣資本の一般的な管理者」ともなる。

第二に、銀行の貸付け可能な資本が貨幣資本家たちの預金によって形成され、彼らはこの預金の貸出を銀行に任せる。さらに、銀行制度の発達につれて、またことに、銀行が預金に利子を支払うようになれば、すべての階級の貨幣貯蓄や一時的な遊休資本は銀行に預金されるようになる。それだけでは貨幣資本として働くことのできない小さな金額が大きな金額にまとめられて、一つの貨幣力を形成する。

 こうした銀行の小資金集積機能は、マルクスの時代にあっては「銀行制度の特殊な機能として、本来の貨幣資本家と借り手とのあいだでの銀行制度の媒介機能からは区別されなければならない。」とも付言されていたが、現代資本主義では貸付と並ぶ銀行の中核的機能として定着している。

最後に、少しずつしか消費できない収入も銀行に預金される。

 これも周知のとおり、現代資本主義では労働者階級も多くは銀行に預金口座を保有し、小額消費に充てる賃金収入等を預金しているところである。ここにおいて、銀行は全階級横断的な「貨幣資本の全般的な管理者」として経済支配力を持つに至る。

・・・・銀行業者が与える信用は、いろいろな形で与えられることができる。たとえば、他行あての手形、他行あての小切手、同種の信用開設、最後に、発券銀行の場合は、その銀行自身の銀行券によって与えられる。

 この記述は金本位制時代の兌換銀行券を前提としており、金本位制度が廃され、銀行券の発行権限を中央銀行に集中する体制が一般化した現代ではすでに失効している。むしろ、「実際には銀行券はただ卸売業の鋳貨をなしているだけであって、銀行で最大の重要性をもつものはつねに預金である。」という付言のほうが、より現代の銀行制度に適合的である。

種々の特殊な信用制度は、また銀行そのものの特殊な諸形態も、われわれの目的のためにはこれ以上詳しく考察する必要はない。

 マルクスの時代には、一般的な銀行以外の信用制度や特殊銀行は未発達であり、特段論及の必要はなかったであろうが、現代資本主義では労働者階級を顧客とする消費者信用も重要な信用制度として定着しているし、信託銀行や投資銀行のような特殊銀行も発達し、一般銀行とともに金融インフラを形成しているところである。

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晩期資本論(連載第62回)

2015-09-07 | 〆晩期資本論

十三 金融資本の構造(6)

 第一巻でマルクスは商品の持つ呪物的性格について、「商品形態は人間にたいして人間自身の労働の社会的性格を、労働生産物そのものの対象的性格として反映させ、これらの物の社会的な自然属性として反映させ、したがってまた、総労働にたいする生産者たちの社会的関係をも、かれらの外に存在する諸対象の社会的関係として反映させるということである。」と指摘して、商品フェティシズム論を展開していたが、第三巻で再びこの経済人類学的モチーフを援用し、金融資本を資本関係の最高度の呪物的形態と規定している。

利子生み資本では資本関係はその最も呪物的な形態に到達する。ここでは、G―G´、より多くの貨幣を生む貨幣、自分自身を増殖する価値が、両極を媒介する過程なしに、現われる。

 すなわち一般的な商業(商人)資本と対比すると、「商人資本(G―W―G´)の形態は、まだ一つの過程を、反対の両段階の統一を、商品の買いと売りという二つの反対の過程に分かれる運動を、表わしている。これは、G―G´すなわち利子生み資本の形態では消えてしまっている」。
 言い換えれば、「資本が、利子の、資本自身の増殖分の、神秘的な自己創造的な源泉として、現われている。(貨幣、商品、価値)が今では単なる物としてすでに資本なのであって、資本は単なる物として現われる。総再生産過程の結果が、一つの物におのずからそなわっている属性として現われるのである」。

利子生み資本では、この自動的な呪物、自分自身を増殖する価値、貨幣を生む貨幣が純粋につくり上げられているのであって、それはこの形態ではもはやその発生の痕跡を少しも帯びていない。社会的関係が、一つの物の、貨幣の、それ自身にたいする関係として完成されているのである。

 より具体的には、「利子は利潤の、すなわち機能資本家が労働者からしぼり取る剰余価値の一部分でしかないのに、今では反対に、利子が資本の本来の果実として、本源的なものとして現われ、利潤は今では企業者利得という形態に転化して、再生産過程でつけ加わるただの付属品、付加物として現われる」。マルクスによれば、利子生み資本の呪物的性格の正体は、こうしたかの「利潤の質的分割」にある。

貨幣資本においてはじめて資本は商品となったのであって、この商品の自分自身を増殖するという性質は、そのつどの利子率で決定されている固定価格をもっている。

 このような資本=商品にあっては、「種々の使用価値としての種々の商品の相違が消え去っており、したがってまたこれらの商品やその生産条件から成っている種々の産業資本の相違も消え去っている」のに加え、「資本によって生みだされる剰余価値も、ここでは再び貨幣の形態にあって、資本そのものに属するものとして現われる」。
 第一巻の商品フェティシズムの論述において、「商品形態のこの完成形態―貨幣形態―こそは、私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的諸労働者の社会的諸関係をあらわに示さないで、かえってそれを物的におおい隠すのである。」とも指摘されていたことが、ここで改めて想起されている。

☆小括☆
以上、十三では、利子生み資本について扱う『資本論』第三巻第五篇のうち、総論的な初めの四つの章、すなわち第二十一章乃至第二十四章を参照しながら、金融資本の構造的な特質について概観した。

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晩期資本論(連載第61回)

2015-08-26 | 〆晩期資本論

十三 金融資本の構造(5)

資本主義的生産の基礎の上では、資本家は生産過程をも流通過程をも指揮する。生産的労働の搾取は、彼が自分でやるにせよ、彼の名で他人にやらせるにせよ、努力を必要とする。だから、彼にとって彼の企業者利得は、利子に対立して、資本所有にはかかわりのないものとして、むしろ非所有者としての―労働者としての―彼の機能の結果として、現われるのである。

 このように、企業者利得が資本家自身の「労賃」として立ち現われる場合、労働の監督に対する賃金という意味で、「監督賃金」と呼ばれる。

・・・・・・(監督賃金は)普通の賃金労働者の賃金よりも高い賃金である。なぜ高いかといえば、(1)その労働が複雑労働だからであり、(2)彼は自分自身に労賃を支払うのだからである。

 たしかに監督賃金は通常の労賃より高額だが、その理由は(1)複雑労働だからというよりも、(2)自分自身に支払うお手盛りだからという理由のほうが大きいだろう。複雑労働というだけならば、通常の賃金労働にも複雑労働は存在するからである。

彼(資本家)が剰余価値をつくりだすのは、彼が資本家として労働するからではなく、彼の資本家としての属性から離れて見ても彼もまた労働するからである。だから、剰余価値のこの部分は、もはやけっして剰余価値ではなく、その反対物であり、遂行された労働の等価である。

 より抽象化すれば、「資本の疎外された性格、労働にたいする資本の対立が、現実の搾取過程のかなたに、すなわち利子生み資本のなかに移されるので、この搾取過程そのものも単なる労働過程として現われるのであって、そこでは機能資本家もただ労働者がするのとは別の労働をするだけである」。要するに、「企業者利得には資本の経済的機能が属するが、しかしこの機能の特定な、資本主義的な機能は捨象されている」。

資本主義的生産それ自身は、指揮の労働がまったく資本所有から分離して街頭をさまようまでにした。だから、この指揮労働が資本家によって行われる必要はなくなった。

 すなわち経営管理者制度への移行である。この場合、「管理賃金は、商業的管理者にとっても産業的管理者にとっても、企業者利得からまったく分離されて現われるのであって、労働者の協同組合工場でも資本家的株式企業でもそうである。企業者利得からの管理賃金の分離は、他の場合には偶然的に現われるが、ここでは恒常的である」。なかでも「一般に株式企業―信用制度とともに発展する―は、機能としてのこの管理労働を、自己資本であろうと借入資本であろうと資本の所有からはますます分離して行く傾向がある」。その結果―

・・・単なる資本所有者である貨幣資本家に機能資本家が相対し、信用の発展につれてこの貨幣資本そのものが社会的な性格をもつようになり、銀行に集中されて、もはやその直接の所有者からではなく銀行から貸し出されるようになることによって、また、他方では、借入れによってであろうとその他の方法によってであろうとどんな権原によっても資本の所有者でない単なる管理者が、機能資本家そのものに属するすべての実質的な機能を行なうことによって、残るのはただ機能者だけになり、資本家はよけいな人物として生産過程から消えてしまうのである。

 現代資本主義において、上場公開企業の多くはこうした機能者のみの企業である。そこには、もはや言葉の真の意味での「資本家」は存在せず、経営管理者がすべてを統括している。一方で、貨幣資本を代表する銀行は最大の債権者として、貸出し先企業の経営にも関与している。

資本主義的生産の基礎の上では、株式企業において、管理賃金についての新たな欺瞞が発展する。というのは、現実の管理者の横にも上にも何人かの管理・監督役員が現われて、彼らの場合には管理や監督は実際に、株主からまきあげて自分のものにするための単なる口実になるからである。

 現代的な株式企業では、大企業ほど多数の役員を擁しているが、かれらに支払われる管理賃金が、上で述べられたように企業者利得から完全に分離されているかどうかは疑問である。特にアメリカ企業ではしばしば最高経営責任者をはじめとする役員報酬の突出した金額が問題とされる。マルクスも、多数の会社の役員を兼任して儲けている銀行家や商人の存在に関する1845年のロンドン実業界のゴシップ記事を引用して、次のように指摘する。

このような会社の重役が毎週の会議に出席して受け取る報酬は、少なくとも1ギニー(21マルク)である。破産裁判所の審理が示しているところでは、通例この監督賃金は、これらの名目上の重役たちが実際に行なう監督に反比例しているのである。

 資本主義が先行的に発達した英国では、19世紀半ばの段階でこうした不当高額報酬を受け取る重役たちが存在していた。このような役員報酬はまさにお手盛り的に、企業者利得から配分されていると見る余地もある。
 長く重役を労働者からの内部抜擢制によってきた日本的企業経営では監督(管理)賃金の企業者利得からの分離傾向は大きかったと言えるが、グローバルスタンダードの名の下に、アメリカ型企業組織の導入が進んだ近年は、日本でも兼任役員や役員報酬の高額化が見られる。

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晩期資本論(連載第60回)

2015-08-25 | 〆晩期資本論

十三 金融資本の構造(4)

・・・資本家が貨幣資本家と産業資本家とに分かれるということだけが、利潤の一部分を利子に転化させ、およそ利子なる範疇をつくりだすのである。そして、ただこの二種類の資本家のあいだの競争だけが利子率をつくりだすのである。

 前回も見たように、資本家階級内部での貨幣資本家vs.産業資本家の階級内対立構造が、利子と利子率決定の根源となる。

・・・・・・資本本来の独自の生産物は剰余価値であり、より詳しく規定すれば利潤である。ところが、借りた資本で事業をする資本家にとっては、資本の生産物は利潤ではなく、利潤・マイナス・利子であり、利子を支払ったあとに彼の手に残る利潤部分である。・・・・・・・・彼が総利潤のうちから貸し手に支払わなければならない利子に対して、利潤のうちまだ残っていて彼のものになる部分は、必然的に産業利得または商業利得という形態をとる。または、この両方を包括するドイツ的表現で言えば、企業者利得という姿をとる。

 利潤・マイナス・利子を企業者利得と呼ぶわけは、「この利得は、ただ彼(借入資本で事業をする資本家)が再生産過程でこの資本を用いて行なう操作や機能だけから、したがって、特に、彼が企業者として産業や商業で行なう機能から発生する」ことによる。

・・・・利子は資本自体の果実、生産過程を無視しての資本所有の果実であり、企業者利得は、過程進行中の、生産過程で働いている資本の果実であり、したがって資本の充用者が再生産過程で演じる能動的な役割の果実であるということ―このような質的な分割は、けっして一方では貨幣資本家の、他方では産業資本家の、単に主観的な見方ではない。それは客観的な事実にもとづいている。

 このように、マルクスは利子と企業者利得との関係構造を「総利潤の質的分割」という視座でとらえる。「そして、このように、総利潤の二つの部分がまるでそれぞれ二つの本質的に違った源泉から生じたかのように互いに骨化され独立させられるということは、いまや総資本家階級にとっても総資本にとっても固定せざるえない」。

自分の資本で事業をする資本家も、借り入れた資本で事業をする資本家と同じように、自分の総利潤を、資本所有者としての自分、自分自身への資本の貸し手としての自分に帰属する利子と、能動的な機能資本家としての自分に帰属する企業者利得とに分割する。

 出資者が拠出した自己資本で事業を展開する場合にも、利子に当たる利益配当と企業者利得との分割を観念することは可能であり、この場合、「彼の資本そのものが、それがもたらす利潤の諸範疇との関連において、資本所有、すなわち生産過程のにあってそれ自体として利子をもたらす資本と、生産過程のにあって過程を進行しながら企業者利得をもたらす資本とに分裂するのである」。これにより、所有と経営の分裂(分離)構造が生じる。
 とはいえ、借入金の利子と利益配当は性質の異なるものであって、「質的な分割としてのこの分割にとっては、資本家が現実に他の資本家と分け合わなければならないかどうかは、どうでもよいことになる。」というのは、行き過ぎた一般化であろう。自己資本による事業展開の場合は、所有と経営の分裂が起こるかぎりにおいて、利潤の内的な分割が生じるに過ぎない。一方、内部留保等を活用したいわゆる自己金融による場合は利子の支払いは不要であり、利子と企業者利得の分割は起こらない。

・・・・彼(個別資本家)は、自分の資本で事業をする場合でも、自分の平均利潤のうち平均利子に等しい部分を、生産過程を無視して、自分の資本そのものの果実とみなすのであり、また、利子として独立させられたこの部分に対立させて、総利潤のうち利子を越える超過分を単なる企業者利得とみなすのである。

 仮に個別資本家がこのような意識で動いているとすれば、先の自己金融の場合にも質的分割は生じていることになるが、実際のところ、このような意識は個別資本家、特に経営者にはないであろう。またこうした主観的説明は、先に質的分割を「客観的事実」と規定したところとも整合しない。

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晩期資本論(連載第59回)

2015-08-24 | 〆晩期資本論

十三 金融資本の構造(3)

他の事情はすべて変わらないとすれば、すなわち利子と総利潤との割合を多かれ少なかれ不変のものと仮定すれば、機能資本家は、利潤率の高さと正比例してより高いかまたはより低い利子を支払うことができるであろうし、また支払うことを辞さないであろう。すでに見たように、利潤率の高さは資本主義的生産の発展に反比例するのだから、したがってまた一国の利子率の高低の産業的発展の高さにたいしてやはり反比例するということになる。

 より一般化すれば、「利潤の平均率は、利子を究極的に規定する最高限界とみなされるべきである」。これが利子率決定の一般原則である。また資本主義の発展段階で見れば、資本主義が発達するほど利潤率は低下し、従ってまた利子率も低下することになる。

しかしまた、利子率が利潤率の変動にはまったくかかわりなしに低落する傾向もある。そして、それには次のような二つの主要な原因がある。

 ここでマルクスが挙げているのは、まず発達した資本主義社会における金利生活者や年金生活者の増大現象である。すなわち、「古くて豊かな国では、新しくできた貧しい国でよりも、国民資本のうち所有者が自分で充用しようとしない部分が、社会の総生産資本にたいしてより大きい割合をなしている」(ラムジ引用)。
 次に、「信用制度が発達するということ、またそれにつれて社会のあらゆる階級のあらゆる貨幣貯蓄を産業資本家や商人が銀行業者の媒介によってますます多く利用できるようになるということ、またこの貯蓄の集積が進んで、それが貨幣資本として働くことができるような量になるということ、これらのこともやはり利子率を圧迫せざるをえない」。
 これら二つの要因は、まさに晩期資本主義社会においては定在化していることである。これに、中央銀行による政策的な金利操作という政治的な要因も加わるであろう。

・・・絶えず動揺する利子の市場率について言えば、それは、商品の市場価格と同様に、各瞬間に固定的な大きさとして与えられている。なぜならば、貨幣市場ではすべての貸付可能な資本が総量として機能資本に対立しており、したがって、一方では貸付可能な資本の供給と他方ではそれにたいする需要との関係が、そのつどの利子の市場水準を決定するからである。

 別の角度から言い換えれば、「利子生み資本は、商品とは絶対に違った範疇であるにもかかわらず、独特な種類の商品となり、またそれゆえに利子は利子生み資本の価格となるのであって、この価格は、普通の商品の場合にその市場価格がそうであるように、そのつど需要供給によって確定される」。
 このように、利子生み資本とは利子を市場価格として資本そのものが商品化されたようなものである。「資本はここでは、産業資本がただ特殊な諸部面のあいだの運動と競争のなかだけで現われるところのものとして、階級のそれ自体で共同的な資本として、現実に、重みにしたがって、資本の需要供給のなかで現われるのである」。

 他方、貨幣資本は貨幣市場では現実に次のような姿をもっている。すなわち、その姿で貨幣資本は共同的な要素として、その特殊な充用にはかかわりなしに、それぞれの特殊な部面の生産上の要求に応じていろいろな部面のあいだに、資本家階級のあいだに、配分される。そのうえに、大工業の発展につれてますます貨幣資本は、それが市場に現われるかぎりでは、個別資本家、すなわち市場にある資本のあれこれの断片の所有者によっては代表されなくなり、集中され組織された大量として現われるようになるのであって、この大量は、現実の生産とはまったく違った仕方で、社会的資本を代表する銀行業者の統制下に置かれている。したがって、需要の形態から見れば、貸付可能な資本には一階級の重みが相対しており、同様に供給から見ても、この資本は、それ自体、大量にまとまった貸付資本として現われるのである。

 ここでは、銀行を中心とする金融資本の支配する構造が簡明に描写されている。利子率と利潤率とが一致しないことは、このように、生産資本家階級と相対する形で、金融資本家階級が形成され、主導権を握る構造を作り出す。

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晩期資本論(連載第58回)

2015-08-11 | 〆晩期資本論

十三 金融資本の構造(2)

貨幣は、自分が貨幣としてもっている使用価値のほかに、一つの追加使用価値、すなわちそれが資本として機能するという使用価値を受け取るのである。ここで貨幣の使用価値とは、まさに、それが資本に転化して生みだす利潤のことである。このような可能的資本としての、利潤を生みだすための手段としての属性において、貨幣は商品に、といっても一つの独特な種類の商品となるのである。あるいは、結局同じことであるが、資本が資本として商品となるのである。

 貨幣の面から見れば、資本主義とは物品の交換手段である貨幣が利潤を増殖的に生みだす資本に転化することに特徴があった。そうすると、資本主義における貨幣はそれ自体が資本に転化する一つの商品となり、そうした商品としての貨幣を専業的に取り扱うのが銀行を含む貨幣取引業である。

・・・利子とは、利潤のうち機能資本が自分のポケットに入れないで資本の所有者に支払ってしまわなければならない部分を表わす特殊な名称、特殊な項目にほかならないのである。

 マルクスが挙げている簡単な設例で言えば、年平均利潤20パーセントで、100ポンドの貨幣を所有する資本家Aが資本家Bにその100ポンドを一年間貸し付けたとして、Bが5ポンドを利子としてAに支払う場合、この利子5ポンドは20ポンドの利潤を生みだす資本=商品の使用価値の代価として利潤の一部をAに支払う計算になる。この場合、資本家Aはまさに貨幣を融通する金融資本して機能している。これが利子生み資本の最も原初的な形態である。
 実際のところ、金貸し業者は資本主義が勃興する以前から商品経済内に出現していたが、資本主義における金融は単なる金貸しではなく、商品としての資本を融通する特殊な資本であるということになる。

自分の貨幣を利子生み資本として増殖しようとする貨幣所有者は、それを第三者に譲り渡し、それを流通に投じ、それを 資本として 商品とする。それは、それを譲り渡す人にとって資本であるだけでなく、はじめから資本として、剰余価値、利潤を創造するという使用価値をもつ価値として、第三者に引き渡される。すなわち、運動のなかで自分を維持し、機能を終わったあとでその最初の支出者の手に、ここでは貨幣所有者の手に還ってくる価値として、引き渡されるのである。

 この「還流」ということが、利子生み資本を特徴づける性質である。そして、資本が商品であるということは、それが貸し手のみならず、借り手にとっても資本であること―他人資本―であることを意味している。

貸し手も借り手も、両方とも同じ貨幣額を資本として支出する。しかし、ただ後者の手のなかだけでそれは資本として機能する。利潤は、同じ貨幣額が二人の人にとって二重に資本として存在することによっては、二倍にならない。その貨幣額が両方の人にとって資本として機能することができるのは、利潤の分割によるよりほかはない。貸し手のものになる部分は、利子と呼ばれる。

 先に「利子とは、利潤のうち機能資本が自分のポケットに入れないで資本の所有者に支払ってしまわなければならない部分を表わす特殊な名称、特殊な項目」と説かれていたこととつながる記述である。ここでは「利潤の分割」という規定がポイントとなる。

・・・利子と本来の利潤とへの利潤の分割が商品の市場価格とまったく同様に需要供給によって、つまり競争によって規制されるかぎりでも、資本は商品として現われる。しかし、ここでは相違も類似と同様にはっきりと現われている。

 利潤の分割の割合を示す指標が利子率であるが、この利子率も一般商品の市場価格のように需給関係によって決定される。しかし、一般商品との相違もある。すなわち―

利子の場合には、競争が法則からの偏差を規定するのではなく、競争によって強制される法則よりほかには分割の法則は存在しないのである。なぜならば、・・・・・・・・・利子率の「自然的な」率というものは存在しないからである。利子率の自然的な率というのは、むしろ、自由な競争によって確定された率のことである。

 一般商品では、需要と供給が一致すれば、商品の市場価格は原理的な、つまりは「自然的な」生産価格に一致する。この法則は、マルクスによれば労働力商品の価格としての労賃にも当てはまる。
 ところが、利子率に関してはこうした法則が妥当せず、それはひとえに競争の結果として確定する。「競争がただ単に偏差や変動を規定するだけではない場合、つまり、競争の互いに作用し合う諸力が均衡すればおよそあらゆる規定がなくなってしまう場合には、規定されるべきものが、それ自体として無法則なもの、任意なものなのである」。こうした恣意的な利子率の変動に関する考察は次回に回される。

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晩期資本論(連載第57回)

2015-08-10 | 〆晩期資本論

十三 金融資本の構造(1)

 マルクスは商業資本の分析に続いて、金融資本の分析に取り組む。もっとも、彼は金融資本という機能的な語は用いず、利子という利潤形態に着目して「利子生み資本」と呼ぶが、ここでは現代的に金融資本と称することにする。金融資本のプロトタイプとなるのは旧両替商のような貨幣取引資本である。マルクスはこれについて、さしあたり商業資本の特殊形態として分析している。

産業資本の流通過程で、また今ではわれわれがつけ加えることのできる商品取引資本の流通過程で(というのは商品取引資本は産業資本の流通運動の一部分を自分自身の特有な運動として引き受けるのだから)貨幣が行なう純粋に技術的な諸運動―この諸運動は、それが独立して一つの特殊な資本の機能となり、この資本がそれを、そしてただそれだけを、自分に特有な操作として営むようになるとき、この資本を貨幣取引資本に転化させる。

 具体的には、「貨幣の払出し、収納、差額の決済、当座勘定の処理、貨幣の保管などは、これらの技術的な操作を必要とさせる行為から分離して、これらの機能に前貸しされる資本を貨幣取引資本にする」。

貨幣取引業、すなわち貨幣商品を扱う商業も、最初はまず国際的交易から発展する。いろいろな国内鋳貨が存在するようになれば、外国で買い入れる商人は、自国鋳貨を現地の鋳貨に、また逆の場合には逆に両替えしなければならないし、あるいはまたいろいろな鋳貨を世界貨幣としての未鋳造の純銀や純金と取り替えなければならない。こうして両替商が生まれるのであるが、これは近代的貨幣取引業の自然発生的な基礎の一つとみなすべきものである。

 かくして両替商は金融資本の原初形態となるが、今またビットコインのような新たな電子貨幣システムの発明により、その取引を仲介する一種の両替商が出現してきていることは注目される。貨幣の電子化という段階に達した現代資本主義が生みだす新たな貨幣取引資本とも言える。

貨幣取引業が媒介するのは貨幣流通の技術的操作であって、この操作を貨幣取引業は集中し短縮し簡単にする。貨幣取引業は、蓄蔵貨幣を形成するのではなく、この蓄蔵貨幣形成が自発的であるかぎり(したがって遊休資本や再生産過程の撹乱の表現ではないかぎり)、それをその経済的最小限に縮小するための技術的な手段を提供するのである。

 貨幣取引業の本質は仲介であって、「貨幣取引業は、ここで考察しているような純粋な形態では、すなわち信用制度から切り離されたものとしては、ただ、商品流通の一契機としての貨幣流通の技術と、この貨幣流通から生ずるいろいろな貨幣機能とに関係があるだけである」が、それは貨幣流通の効率化という点で不可欠の役割を果たすことになる。

貨幣取引資本は、それの元来の機能に貸借の機能や信用の取引が結びつくようになれば、もはや十分に発展しているわけである。といっても、このようなことはすでに貨幣取引業の発端からあったのではあるが。これについては、次篇、利子生み資本のところで述べる。

 貨幣取引業は仲介業であるとはいえ、通常は金融機能が付加され、信用取引の仲介も展開する。その結果、貨幣取引資本はその発端から金融資本としての性格を有していた。現代資本資本主義においては、そうした金融資本が貨幣取引資本を吸収しているので、純粋形態の貨幣取引資本はほとんど見られない。

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晩期資本論(連載第56回)

2015-07-28 | 〆晩期資本論

十二 商業資本と商業利潤(4)

 第二巻では、資本の回転が主要なテーマとして扱われていたが、そこでは主として産業資本のことが念頭に置かれていた。第三巻のマルクスは産業資本と商業資本の構造的な相違を踏まえて、改めて商業資本の回転について取り上げている。

産業資本の回転は、その生産期間と流通期間との統一であり、したがって全生産過程を包括している。これに反して、商人資本の回転は、事実上商品資本の運動が独立したものでしかないのだから、ただ、商品変態の第一段階W―Gを一つの特殊な資本の自己還流運動として表わしているだけである。

 簡単に言えば、「商人は、まず買い、自分の貨幣を商品に転化させ、次に売り、同じ商品を再び貨幣に転化させる。そしてこの同じことを絶えず繰り返す」。より詳しく商業資本の回転の特徴を見ると、次のようである。

商人の利潤は、彼が回転させる商品資本の量によってではなく、この回転の媒介のために彼が前貸しする貨幣資本の大きさによって規定されている。

 「商人資本は利潤または剰余価値の創造に直接に協力するのではなく、ただ、自分が総資本のなかで占める割合に応じて、産業資本が生産した利潤量から自分の配当を引きだすかぎりで、一般的利潤率の形成に規定的に参加するだけである」からして、常に所与の一般的利潤率のなかで利潤を上げることになる。
 従って、「商業部門の相違による回転期間の相違は、一定の商品資本の一回転であげられる利潤がこの商品資本を回転させる貨幣資本の回転数に反比例するということに現われる。少ない利潤で速い回収〔small profits and quick returns〕、これはことに小売商人にとっては彼が主義として守る原則として現われるのである

・・いろいろな商業部門での商人資本の回転数は、諸商品の商業価格に直接に影響する。

 その結果、「商業価格への商人資本の回転の影響が示す諸現象は、・・・・・・・・価格のまったく勝手な規定を、すなわち資本が一年間に一定量の利潤を上げようと決心するというただそれだけのことによる価格の規定を前提するように見える。ことに、こういう回転の影響によって、まるで流通過程そのものが、ある限界のなかでは生産過程にかかわりなしに、商品の価格を規定するかのように見える」という現象を生ずることにもなる。
 もちろん、このような価格の恣意的決定性は表面的なものにすぎず、生産過程への依存性を否定できないのではあるが、発達した資本主義のもとでの商業資本は貨幣資本を通じた市場支配力と独立性を有している。

・・・・・商人資本は、第一に、生産的資本のために段階W―Gを短縮する。第二に、近代的信用制度のもとでは、商人資本は社会の総貨幣資本の一大部分を支配しており、したがって、すでに買ったものを最終的に売ってしまわないうちに、自分の買入れを繰り返すことができる。

 いわゆる在庫をもって販売行為を繰り返すのは、商業資本の常道である。こうした無制限的な回転が可能となるのも、商業資本が独立しているせいである。それにより、恐慌の要因ともなるような「ある仮想的な需要がつくりだされる」。

・・・・その独立性のおかげで、商人資本はある範囲内では再生産過程の限界にはかかわりなく運動するのであり、したがってまた再生産過程をその限界を越えてまでも推進するのである。内的な依存性、外的な独立性は、商人資本を追い立てて、内的な関連が暴力的に、恐慌によって回復されるような点まで行かせるのである。
 それだからこそ、恐慌がまず出現し爆発するのは、直接的消費に関係する小売業ではなく、卸売業やそれに社会の貨幣資本を用立てる銀行業の部面だという恐慌現象が生ずるのである。

 銀行のような金融資本の問題は後に詳論されるが、独立性の強さという点ではすぐれて商業資本的な卸売業や銀行業の部面が恐慌の導火線となるという現代資本主義にも通ずる法則がここで提示されている。

☆小括☆
以上、十二では『資本論』第三巻第四篇のうち、第十六章「商品取引資本」、第十七章「商業利潤」、第十八章「商人資本の回転 価格」までを参照しつつ、商業資本と商業利潤の構造的な特徴を見た。ただし、第十九章「貨幣取引資本」は、現代では銀行業の一機能として吸収されていることから、続いて金融資本を扱う十三の導入部に組み入れることにする。

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晩期資本論(連載第55回)

2015-07-27 | 〆晩期資本論

十二 商業資本と商業利潤(3)

 商業資本が隆盛な現代資本主義にあっては、商業資本の下に雇用される商業賃金労働者の割合が高まっている。かれらはマルクスの時代にはまだ少数派であったが、マルクスは時代先取り的に商業賃金労働者の問題にも考察を進めていた。

一面から見れば、このような商業労働者も他の労働者と同じに賃金労働者である。第一には、労働が商人の可変資本によって買われ、収入として支出される貨幣によって買われるのでなく、したがってまた、個人的サービスのためにはなく、ただそれに前貸しされる資本の自己増殖という目的だけのために買われるというかぎりで、彼は賃金労働者である。第二には、彼の労働力の価値、したがって彼の労賃が、他のすべての賃金労働者の場合と同じように、彼の独自な労働力の生産・再生産費によって規定されていて、彼の労働の生産物によって規定されてはいないというかぎりで、彼は賃金労働者である。

 つまり、不払い剰余労働を強いられる点では、産業労働者と商業労働者の違いはない。とはいえ、両者の間には、産業資本と商業資本の構造的な相違に照応する相違点が存する。すなわち―

商人は単なる流通担当者としては価値も剰余価値も生産しないのだから・・・・・・・・・、商人によって同じ諸機能に使用される商業労働者も商人のために直接に剰余価値をつくりだすことはできないのである。

 この相違点は前回見た「商人資本は、剰余価値の生産には参加しないにもかかわらず、(それが総資本の中に占める割合に比例して)剰余価値の平均利潤への平均化には参加する。」という定理に対応して、「労働者の不払労働が生産的資本のために直接に剰余価値をつくりだすのと同様に、商業賃金労働者の不払労働は商業資本のためにこの剰余価値の分けまえをつくりだす。」という形でまとめられる。その結果―

彼ら(商業労働者)のための出費は、労賃の形でなされるとはいえ、生産的労働の買入れに投ぜられる可変資本とは異なっている。それは、直接には剰余価値を増加させることなしに、産業資本家の出費、前貸しされるべき資本の量を増加させる。なぜならば、この出費によって支払われる労働は、ただすでに創造されている価値の実現に用いられるだけだからである。この種の出費がどれでもそうであるように、この出費も利潤率を低下させる。なぜならば、前貸資本は増大するのに剰余価値は増大しないからである。

 利潤率低下を避けるために、分業が進展する。また、マルクスも例に挙げているように、歩合制のような賃金形態が現われる。また現代的な非正規労働者への置換も類例である。結局のところ―

彼が資本家に費やさせるものと彼が資本家の手に入れてやるものとは、違った大きさになる。彼が資本家の手に入れてやるというのは、彼が直接に剰余価値を創造することによってではないが、彼が一部分は不払いの労働をするかぎりで、剰余価値を実現するための費用の節減を助けるからである。

 ここでマルクスは、剰余価値の創造に直接関与しない商業労働における搾取を費用節減という節約説に立って説明している。剰余価値の創造そのものである生産労働との構造的な相違点を踏まえてのことではあるが、説明の統一性を欠いていることは否めない。これは電気やガスのような無形的なサービスの生産に従事する現代的なサービス生産労働(商業的生産労働)の場合、説明に困難を生じさせることになるだろう。

本来の商業労働者は、賃金労働者は、賃金労働者の比較的高給な部類に属する。すなわち、その労働は技能労働であって平均労働の上にある賃金労働者の部類に属する。とはいえ、その賃金は、資本主義的生産様式が進むにつれ、平均労働に比べてさえも下がってくる傾向がある。

 このような矛盾現象の要因として、マルクスは事務所内分業と国民教育の普及による商業労働者の競争激化を挙げている。いずれも、現代資本主義において起きている現象である。

資本家は、より多くの価値と利潤とを実現することになれば、このような労働者の数をふやす。この労働の増加は、つねに剰余価値の増加の結果であって、けっしてその原因ではないのである。

 商業労働は技術的には高度な技能労働ではあるが、「労働といっても、価値の計算とかその実現とか実現された貨幣の生産手段への再転化とかに伴う媒介的操作でしかない労働、したがってすでに生産されていてこれから実現されるべき価値の大きさによってその規模が定まるような労働、このような労働が、直接に生産的な労働のようにこれらの価値のそれぞれの大きさや数量の原因として作用するのでなく、その結果として作用するということは、当然のことである」。これは、生産労働と商業労働の構造的な相違を、改めて原因と結果の観点から説明し直したものである。

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晩期資本論(連載第54回)

2015-07-15 | 〆晩期資本論

十二 商業資本と商業利潤(2)

商人資本そのものは剰余価値を生まないのだから、平均利潤の形でその手に落ちる剰余価値は、明らかに生産的資本全体が生みだした剰余価値の一部分である。だが、いま問題なのは、どのようにして商人資本は、生産的資本が生みだした剰余価値または利潤のうちから自分のものになる部分を自分に引き寄せるのか?ということである。

 マルクスが挙げている簡単な具体例で言えば、3000ポンド(スターリング;以下省略)を取引資本とする商品取引業者が、この資金で30000エレのリンネルを1エレ当たり2シリングでリンネル製造業者から買ってこれを販売するとして、年間平均利潤率が10パーセントで、すべての経費を差し引いて10パーセントの年間利潤を上げるとすると、年末時点で3000ポンドは3300ポンドに転化することになる。この利潤はいったい何に由来するのか、というのがここでの問題である。

・・・彼(商品取引業者)は彼の利潤を流通のなかで流通によってあげるのであり、ただ彼の購買価格を越える彼の販売価格の超過分によってあげるのではあるが。しかし、それにもかかわらず、彼はそれらの商品を価値よりも高く、または生産価格よりも高く、売るのではない。というのは、彼がそれらの商品を価値よりも安く、または生産価格よりも安く、産業資本家から買ったからにほかならないのである。

 商人は一見すると、商品の価値を吊り上げて儲けているように見えるが、そうした詐欺的販売行為は一部に過ぎず、正常な販売においては、商人は価値よりも安く購入して、価値どおりに販売しているというわけである。

つまり、生産価格または産業資本家自身が売る場合の価格は、商品の現実の生産価格よりも小さいのである。あるいは、諸商品の総体を見れば、産業資本家階級がそれを売る価格は、その価値よりも小さいのである。

 ここで、マルクスは本来の生産価格と現実の生産価格という二種の生産価格概念を持ち出しているため、わかりにくくなっている。ここでの「現実の」生産価格とは、「商品の費用(商品に含まれている不変資本価値・プラス・可変資本価値)・プラス・それにたいする平均利潤に等しい商品価格」と言い換えられる。

平均利潤率には、総利潤のうち商業資本の手に落ちる部分がすでに算入されている。それゆえ、総商品資本の現実の価値または生産価格はk+p+h(このhは商業利潤)に等しいのである。

 そうであれば、ここでの「総商品資本の現実の価値」は生産価格と呼ぶべきではなく、端的に商品価格もしくは商業価格と呼ぶほうがよいであろう。しかし、マルクスには「生産価格」という名辞へのこだわりがあるようで、やや紛らわしいが、産業利潤と商業利潤とを次のように対照・総括している。

われわれは以上に述べたようないっそう詳しい意味で生産価格という表現を保持しておこうと思う。そうすれば、産業資本家の利潤は商品の費用価格を越える生産価格の超過分に等しいということも、この産業利潤とは違って、商業利潤は、商人にとっての商品の購買価格であるところの生産価格を越える販売価格の超過分に等しいということも、しかし商品の現実の価格は、商品の生産価格・プラス・商業利潤に等しいということも、明らかである。

 このように生産価格概念にマルクスがこだわるのは、商業資本も産業資本を含む総資本の中で生産物=商品から生じる利潤の分配に参加的に与るという草刈場的な仕組みを表現したいからかもしれない。要するに―

・・・・商人資本は、剰余価値の生産には参加しないにもかかわらず、(それが総資本の中に占める割合に比例して)剰余価値の平均利潤への平均化には参加する。それゆえ、一般的利潤率は、すでに、商人資本に帰属すべき剰余価値からの控除分、つまり産業資本の利潤からの控除分を含んでいるのである。

 ある意味では、商業資本は産業資本に寄生して、そこから利潤を吸い上げるような存在である。そのため、「産業資本家にたいする商人資本の割合が大きければ大きいほど、産業利潤の率はそれだけ小さく、逆ならば逆である」し、元来労働の搾取度を常に過少に表わしている利潤率の「割合は、いま商人資本の手にはいる分けまえを計算に入れることによって平均利潤率そのものがさらに小さいものとして・・・・・・・・現われるかぎりでは、さらにいっそうかたよってくる」という形で、資本主義経済の桎梏ともなる面を有していることになる。

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晩期資本論(連載第53回)

2015-07-14 | 〆晩期資本論

十二 商業資本と商業利潤(1)

 『資本論』前半の叙述では、主として製造業を想定した産業資本を念頭に置いた議論が展開されていた。しかし『資本論』冒頭の一句にあったように、「資本主義的生産様式が支配的に行われている社会の富は、一つの「巨大な商品の集まり」として現れ、一つ一つの商品は、その富の基本形態として現れる。」のであった。とすると、資本主義経済にあって商業資本は欠かせない要素のはずである。『資本論』後半では、こうした商業資本の特徴とそれに特有の利潤構造が分析される。

商人資本または商業資本は、商品取引資本と貨幣取引資本という二つの形態または亜種に分かれる。この二つのものを、資本の核心的構造の分析に必要なかぎりで、これからもう少し詳しく特徴づけるとしよう。しかも、そうすることがますます必要だというのは、近代経済学が、その最良の代表者たちにあってさえも、商業資本を直接に産業資本と混同していて、商業資本を特徴づける特性を事実上まったく見落としているからである。

 この口上でマルクスが挙げている二つの商業資本形態の形態はそれぞれ小売商と銀行を想定すればよいが、さしあたりは、前者の商品取引資本が考察の対象となる。後半で述べられている近代経済学における混同は、現代ではむしろ「脱工業化」「情報化」等の標語により、依然として経済の土台である産業資本の存在意義を軽視し、かえって「産業資本を直接に商業資本と混同」する傾向に転化していると言える。

・・・社会の総資本を見れば、その一部分は、・・・・・・・いつでも商品として市場にあって貨幣に移行しようとしている。また、他の一部分は貨幣として市場にあって商品に移行しようとしている。それは、絶えずこの移行運動をしており、絶えずこの形態的な変態をしている。流通過程にある資本のこの機能が一般に特殊な資本の特殊な機能として独立化され、分業によって一つの特別な種類の資本家に割り当てられた機能として固定するかぎりで、商品資本は商品取引資本または商業資本となるのである。

 まとめれば、「・・・商品取引資本は、この絶えず市場にあり変態の過程にあってつねに流通部面に包み込まれている流通資本の一部分が転化した形態にほかならないのである」。だとすると―

・・・流通過程では価値は、したがってまた剰余価値も、生産されはしない。ただ同じ価値量の形態変化が行なわれるだけである。じっさい、商品の変態のほかにはなにも行なわれないのであり、この変態そのものは価値創造や価値変化とはなんの関係もないのである。

 すなわち、「商品資本は価値も剰余価値も創造しない」。商業資本の特性とは、このような消極的な点にこそある。実際、例えば小売商は生産者の生産した商品を消費者に売るだけで、自らは生産しないのであるから、これはごく当然のことである。しかし商業資本は単に商品を右から左へ流しているだけではない。

商人資本が流通期間の短縮に役だつかぎりでは、それは、間接には、産業資本家の生産する剰余価値を殖やすことを助けることができる。商人資本が市場の拡張を助け資本家たちのあいだの分業を媒介し、したがって資本がより大きな規模で仕事をすることを可能にするかぎりでは、その機能は産業資本の生産性とその蓄積とを促進する。商人資本が流通期間を短縮するかぎりでは、それは前貸資本にたいする剰余価値の割合、つまり利潤率を高くする。商人資本が資本のよりわずかな部分を貨幣資本として流通部面に閉じ込めておくかぎりでは、それは、資本のうちの直接に生産に充用される部分を増大させる。

 現代資本主義ではこうした媒介・促進的意義を担う商業資本が隆盛であり、しばしば産業資本をしのぐ規模にまで発達しているために、「脱工業化」などと誇張されるが、商業資本は産業資本に対しては不可欠だが補助的な役割を果たしているにすぎず、自動車(新車)のように産業資本が自ら販売部門を擁して商業資本を兼併する形態もなお残されている。

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晩期資本論(連載第52回)

2015-07-01 | 〆晩期資本論

十一 利潤率の低下(4)

 マルクスは、前回取り上げた総論的考察に続き、利潤率の傾向的低下法則が内在矛盾的に資本主義を崩壊に導く要因を改めて「生産の拡大と価値増殖との衝突」と「人口の過剰に伴う資本の過剰」の二つに分けて具体的に考察している。このうち、前者は前回やそれ以前にも指摘されていたことの総括でもある。やや長いが、以下がそのまとめの叙述となる。なお、文中「生産手段が生産者たちの社会のために生活過程を絶えず拡大形成して行くための単なる手段」とは、共産主義経済の特質を対照的に示唆している。

資本主義的生産の真の制約は、資本そのものである。資本とその自己増殖とが生産の出発点と終点、動機と目的として現われるということである。生産はただ資本のための生産だということ、そしてそれとは反対に生産手段が生産者たちの社会のために生活過程を絶えず拡大形成して行くための単なる手段なのではないということである。生産者大衆の収奪と貧困化とにもとづく資本価値の維持と増殖とはただこのような制約のなかでのみ運動することができるのであるが、このような制約は、資本が自分の目的のために充用せざるをえない生産方法、しかも生産の無制限な増加、自己目的としての生産、労働の社会的生産力の無条件的発展に向かって突進する生産方法とは、絶えず矛盾することになる。手段―社会的生産力の無条件的発展―は、既存資本の増殖という制約された目的と絶えず衝突せざるをえない。それだから、資本主義的生産様式が、物質的生産力を発展させこれに対応する世界市場をつくりだすための歴史的な手段だとすれば、それはまた同時に、このようなその歴史的任務とこれに対応する社会的生産関係とのあいだの恒常的矛盾なのである。

 とはいえ、資本主義がこうした内在的矛盾を抱えながらも、崩壊することなく自己を保存していく可能性もまたあるのではないか―。マルクスはその疑問に対して、前回見た大衆の消費力の限界とともに「資本の過剰」(資本の過剰生産)という要因を提出する。

利潤率の低下につれて、労働の生産的充用のために個々の資本家の手になければならない資本の最小限は増大する。・・・・・・それと同時に集積も増大する。なぜならば、ある限界を越えれば、利潤率の低い大資本のほうが利潤率の高い小資本よりも急速に蓄積を進めるからである。この増大する蓄積は、それ自身また、ある高さに達すれば、利潤率の新たな低下をひき起こす。これによって、分散した小資本の大群は冒険の道に追い込まれる。投機、信用思惑、株式思惑、恐慌へと追いこまれる。

 こうした「いわゆる資本の過多は、つねに根本的には、利潤率の低下が利潤の量によって償われない資本―新たに形成される資本の若枝はつねにこれである―の過多に、または、このようなそれ自身で独自の行動をする能力のない資本を大きな事業部門の指導者たちに信用の形で用だてる過多に、関連している」。無数の「新たに形成される資本の若枝」、すなわち新興小資本が分散する晩期資本主義では、こうした資本過多が最高点に達しているとも言える。

・・・労働者人口に比べて資本が増大しすぎて、その人口が供給する絶対的労働時間も延長できないし相対的剰余労働時間も拡張できないようになれば(相対的剰余労働時間の拡張は、労働にたいする需要が強くて賃金の上昇傾向が強いような場合にはどのみち不可能であろうが)、つまり、増大した資本が、増大する前と同じかまたはそれよりも少なく剰余価値量しか生産しなくなれば、そこには資本の絶対的過剰生産が生ずるわけであろう。

 これが資本の過剰である。結果、「・・・・・一般的利潤率のひどい突然の低下が起きるであろうが、しかし今度は、この低下をひき起こす資本構成の変動は、生産力の発展によるものではなく、可変資本の貨幣価値の増大(賃金の上昇による)と、これに対応する必要労働にたいする剰余労働の割合の減少とによるものであろう」。しかし、このような規定は、「人口の過剰に伴う」という与件と矛盾するのではなかろうか。

このような資本の過剰生産が多少とも大きな相対的過剰人口を伴うということは、けっして矛盾ではない。労働の生産力を高くし、商品生産物の量をふやし、市場を拡大し、資本の蓄積を量から見ても価値から見ても促進し、利潤率を低下させた事情、その同じ事情が相対的過剰人口を生みだしたのであり、また絶えず生みだしているのであって、この労働者の過剰人口が過剰資本によって充用されないのは、それが労働の低い搾取度でしか充用できないからであり、または少なくとも与えられた搾取度のもとでそれが与えるであろう利潤率が低いからである。

 つまり、ここで言う人口過剰というのは、あくまでも「相対的」な過剰であり、一方の資本の過剰のほうは「絶対的」であるから、要するに人口の相対的過剰と資本の絶対的過剰の組み合わせである。言い換えれば―

人口中の労働能力のある部分を就業させるには多すぎる生産手段が生産されるのではない。逆である。第一には、人口中の大きすぎる部分が事実上労働能力のない部分として生産されるのであって、この部分は、その境遇のために他人の労働の搾取に依存するか、またはあるみじめな生産様式のなかでしか労働として通用しないような労働に依存するよりほかはないのである。第二には、労働能力人口の全体が最も生産的な事情のもとで労働するには、つまり労働時間中に充用される不変資本の量と効果とによって彼らの絶対的労働時間が短縮されるには、十分でない生産手段が生産されるのである。

 それにしても、この状態からいかにして資本主義は崩壊へと向かうのか。これについて、マルクスが特に注視するのは、「資本の遊休化」という現象である。この現象は、最初は資本間の熾烈な競争、それも損失の押し付け合いという消極的な競争をひき起こす。しかし、問題はそうした資本間の内戦的衝突からの回復過程にこそある。

・・とにかく均衡は、大なり小なりの範囲での資本の遊休によって、または破滅によってさえも、回復するであろう。この遊休や破滅はある程度までは資本の物質的な実体にも及ぶであろう。すなわち、生産手段の一部分は、固定資本であろうと流動資本であろうと、機能しなくなり、資本として作用しなくなるであろう。すでに開始された生産経営の一部分も休止されるであろう。この面から見れば、時間はすべての生産手段(土地を除いて)を侵して悪くするのではあるが、この場合には機能の停止のためにもっとずっとひどく生産手段の現実の破壊が起きるであろう。

 均衡の回復過程でも資本の遊休、破壊に見舞われる―。そうした悪循環サイクルを繰り返していく過程で、資本主義経済は次第にその体力を弱めていくことになる。晩期資本主義において、こうした資本の過剰生産がどの程度生じているかについては、慎重な検証を要するが、生産力のグローバルな拡大と失業者の増大が共存する世界経済の状況を見ると、資本の過剰化の過程にあると言えるのではないか。破局を回避する手段は、労働者数の削減と生産性の引き上げであるが―

労働者の絶対数を減らすような、すなわち、国民全体にとってその総生産をよりわずかな時間部分で行なうことを実際に可能とするような生産力の発展は、革命をひき起こすであろう。なぜならば、それは人口の多数を無用にしてしまうだろうからである。

☆小括☆
以上、十一では『資本論』第三巻第三篇「利潤率の傾向的低下の法則」に沿って、マルクス理論において資本主義の崩壊を導くとされる一般法則を見た。この箇所は従来、恐慌原因論と結びつけて論じられることが多かったが、ここでのマルクス自身は恐慌を主題として論じているわけではないので、恐慌論については割愛した。

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晩期資本論(連載第51回)

2015-06-30 | 〆晩期資本論

十一 利潤率の低下(3)

 利潤率の傾向的低下法則は、あくまでも「傾向」に過ぎないとはいえ、マルクスによれば、資本主義経済を特徴付ける一つの法則である。前回は、この法則を反対方向に作用させる諸要因について見たが、今回はこの法則が作用した際に発生し得る矛盾現象についてである。

利潤率の低下と加速的蓄積とは、両方とも生産力の発展を表わしているかぎりでは、同じ過程の別々の表現でしかない。蓄積はまた、それにつれて大規模な労働の蓄積が行なわれ、したがってまた資本構成の高度化が生ずるかぎりでは、利潤率の低下を促進する。他方、利潤率の低下はまた、小資本家たちからの収奪によって、また最後に残った直接生産者たちからもまだなにか取り上げるものがあればそれを取り上げることによって、資本の集積と集中とを促進する。これによって、他方では蓄積も、その率は利潤率とともに下がるとはいえ、量から見れば促進されるのである。

 利潤率法則に関する復習的なまとめである。利潤率低下と資本蓄積とが矛盾内在的にコインの表裏関係にあることはこの法則の本質であり、これこそが資本主義的矛盾現象の出発点である。

一方、総資本の増殖率すなわち利潤率が資本主義的生産の刺激であるかぎりでは(資本の増殖は資本主義的生産の唯一の目的なのだから)、利潤率の低下は新たな独立資本の形成を緩慢にし、したがって資本主義的生産過程の発展を脅かすものとして現われる。

 これは、上述したような内在的矛盾が次第に資本主義的生産過程の発展そのものにとって脅威となるという矛盾現象である。言い換えれば、「資本主義的生産様式が富の生産のための絶対的な生産様式ではなくて、むしろある段階では富のそれ以上の発展と衝突するようになるということを証明するのである」。この理は、第一巻でも、資本による資本の収奪を経て、資本主義の最後の鐘が鳴るという終末論的な資本主義崩壊論として示されていた。
 ただ、現実の資本主義経済においては、マルクス自身「もしも求心力と並んで対抗的な諸傾向が絶えず繰り返し集中排除的に作用しないならば、やがて資本主義的生産を崩壊させてしまうであろう」と指摘するとおり、独占禁止法の法的制約の下、規制緩和により独立資本の新興が刺激されるため、利潤率の低下が新たな独立資本の形成を緩慢にするとは限らない。このことは、現代資本主義において、無数の新興企業が日々誕生していることからも裏付けられる。
 マルクスも、利潤率低下→資本主義崩壊という単純図式を描いていたわけではなく、「過程の第二幕」として、次のような社会の消費力の限界という過程を付加する。

・・・社会の消費力は絶対的な生産力によっても絶対的な消費力によっても規定されてはいない。そうではなく、敵対的な分配関係を基礎とする消費力によって規定されているのであって、これによって社会の大衆の消費は、ただ多かれ少なかれ狭い限界のなかでしか変動しない最低限に引き下げられているのである。

 資本主義的分配関係は、資本対労働の敵対関係の中での搾取を介して成立することから、一般労働者大衆の消費力は常に最低限度に抑制されている。

社会の消費力は、さらに蓄積への欲求によって、すなわち資本の増大と拡大された規模での剰余価値生産とへの欲求によって、制限されている。これこそは資本主義的生産にとっての法則なのであって、それは、生産方法そのものの不断の革命、つねにこれと結びついている既存資本の減価、一般的な競争戦、没落の脅威のもとでただ存続するだけの手段として生産を改良し生産規模を拡大することの必要によって、与えられているのである。

 これを逆読みすれば、生産方法の不断の革命、すなわち技術革新こそ資本主義存続の条件であり、実際これまでの資本主義はそうした不断の技術革新により自己を保存してきた。

ところが、生産力が発展すればするほど、ますますそれは消費関係が立脚する狭い基礎と矛盾してくる。このような矛盾に満ちた基礎の上では、資本の過剰が人口過剰の増大と結びついているということは、けっして矛盾ではないのである。

 晩期資本主義では、こうした生産力のグローバルな拡大と大衆の消費力の限界との矛盾現象が拡大している。これがストレートに資本主義の崩壊につながるというわけではないとしても、資本主義の内部的矛盾を促進し、その体力を弱める方向に働くであろう。

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