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晩期資本論(連載第70回)

2015-10-19 | 〆晩期資本論

十五 農業資本の構造(3)

・・・超過利潤は、流通過程での偶然のできごとによって生みだされるのではなく正常に生みだされるものであるかぎり、つねに、二つの等量の資本および労働の生産物のあいだの差額として生産されるのであって、この超過利潤は、二つの等量の資本および労働が等面積の土地で用いられて不当な結果を生む場合には、地代に転化するのである。ついでに言えば、この超過利潤が等量の充用資本の不当な結果から生ずるということは、けっして無条件に必要なことではない。いろいろに違った投資では不等な大きさの資本が充用されていることもありうる。しかも、たいていの場合、これが前提である。

 マルクスは、差額地代の分析に当たり、「二つの等量の資本および労働が等面積の土地で用いられて不当な結果を生む場合」―差額地代Ⅰ―と「いろいろに違った投資では不等な大きさの資本が充用されている(場合)」―差額地代Ⅱ―とを区別して考察する。マルクスも認めるように、実際の経済界では、むしろⅡの不等量資本投入型のほうが普通であり、Ⅰの等量資本投入型は理論モデルであるが、彼はいつもの流儀で、まずは理論モデルから検討する。
 その際、マルクスは、土地の豊度の異なる四通りの土地を想定した経済表を作成して縷々検討しているが、ここでは行論上すべて割愛し、検討結果のみを示す。

(1)順序は、でき上がったものとしては―その形成過程がどんな進み方をしたにせよ―、どの表でも、下がっていくものとして現われる。なぜならば、地代を考察するにあたっては、いつでも、まず、地代の最大限を生む土地から出発して、最後に、全然地代を生まない土地に達するであろうからである。
(2)地代を生まない最劣等地の生産価格はつねに規制的市場価格である。・・・・・・・・
(3)差額地代は、そのときどきの与えられた耕作発達程度にとって与えられたものである土地種類の自然的豊度の相違(ここではまだ位置は考慮に入れない)から生ずる。・・・・・・・・
(4)差額地代の存在、そして等級別の差額地代の存在は、下降順序で優等地から劣等地に進むことによっても、また逆に劣等地から優等地に進むことによっても、または二つの方向が交錯することによっても、生じうる。・・・・・・・・
(5)差額地代は、その形成様式がどうであるかにしたがって、土地生産物の価格が変わらなくても、上がっても、下がっても、形成されることがありうる。

 このように差額地代論は、最劣等地では地代が発生しないという前提の下、最劣等地の生産価格が規制的市場価格を形成するという理論法則によって成り立っている。しかし、このような想定はあくまでも理論上のものである。

・・・結局、差額地代(Ⅰ)は、事実上はただ土地に投下される等量の諸資本の生産性の相違の結果でしかなかった。ところで、それぞれ生産性の違う諸資本量が次々に同じ地所に投下される場合と、それらの資本量が相並んで別々の地所に投下される場合とでは、ただ結果は同じだということだけを前提して、二つの場合のあいだになにか区別がありうるであろうか?

 結論から言えば、「差額地代Ⅱはただ差額地代Ⅰの別表現にすぎないもので、事実上はⅠと一致するものだということである」。すなわち、「どちらの場合にも、投資額は等しいのに土地が違った豊度を示すのであって、ただ、Ⅱではいくつかの部分に分かれて次々と投下されて行く一つの資本のために同じ土地がすることを、Ⅰではいろいろな土地種類が、社会的資本のうちからそれぞれの土地種類に投下される等量の諸部分のためにするだけのことである」。
 次いで、このように差額地代Ⅰを基礎的前提としてそのヴァリアントとして想定される差額地代Ⅱの変動に関して、生産価格が不変・低下・上昇の三つの場合に分けて詳細な分析が加えられるが、これについても割愛する。最終的に、両者の関係は次のようにまとめられる。

要するに、差額地代Ⅰと差額地代Ⅱとは、前者は後者の基礎でありながら、同時に互いに限界をなし合うのであって、そのために、ある場合には同じ地所での逐次的投資が必要になり、ある場合には新たに追加される土地での並行的投資が必要になるのである。それと同時に、また別の場合、たとえばより優良な土地が列に加わる場合にも、差額地代ⅠとⅡとは互いに限界として作用し合うのである。


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