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晩期資本論(連載第69回)

2015-10-06 | 〆晩期資本論

十五 農業資本の構造(2)

地代を分析するにあたっては、まず次のような前提から出発しようと思う。すなわち、このような地代を支払う生産物、つまりその剰余価値の一部分したがってまた総価格の一部分が地代になってしまうような生産物―われわれの目的のためには農産物またはそれとともに鉱産物を考慮に入れれば十分である―、つまり土地生産物または鉱産物が、すべての他の商品と同じように、その生産価格で売られるという前提である。

 このような生産物の平均的販売価格=生産価格という仮定に立ちつつ、「どのようにして利潤の一部分は地代に転化することができるか、したがってまた、どのようにして商品価格の一部分が土地所有者のものとなることができるか」が最初の問題となる。

地代のこの形態の一般的な性格を明らかにするために、われわれは、一国の工場の大多数は蒸気機関によって運転されるが、ある少数のものは自然の落流によって運転される、と想定しよう。

 ここでマルクスは地代を原理的に論じるため、いったん農業問題を離れ、工業の仮設例を持ち出す。しかも、当時は先端的だった蒸気機関を用いず、落流を利用した水車で稼動する古典的な工場を想定するという。もっとも、現代に至って、水力のような自然エネルギーが再び注目される中では、古くて新しい設例と言えるかもしれない。

いま、落流が、それの属する土地とともに地球のこの部分の所有者すなわち土地所有者とみなされる主体の手にあるものと考えてみれば、その場合に彼らは落流への資本の投下を排除し、資本による落流の利用を排除する。彼らは利用を許すこともできるし、拒むこともできる。しかし、資本はそれ自身で落流をつくりだすことはできない。それゆえ、このような落流の利用から生ずる超過利潤は、資本から生ずるのではなく、独占でき独占されてもいる自然力を資本が充用することから生ずるのである。このような事情のもとでは、超過利潤は地代に転化する。

 ここでは落流の属する土地所有者から土地を借りて工場経営する単純な借地経営の例が想定されている。工場を経営する資本家自身が土地所有者である場合も、観念上こうした「転化」を認めることができる。

第一に。この地代はつねに差額地代であることは、明らかである。

 何と何の差額かと言えば、「独占された自然力を自由に処分することのできる個別資本の個別的生産価格と、その生産部面一般に投下されている資本の一般的生産価格との差額」である。従って、地代が超過利潤を上回る水準になれば、そのような逆転差額をもたらす借地経営は個別資本にとって引き合わないことになる。

第二に。この地代は、充用資本の、またはそれによって取得される労働の、生産力の絶対的な上昇から生ずるのではなく、・・・・・・・この地代は、ある一つの生産部面に投下されている特定の個別資本の相対的な豊度が、生産力のこの例外的な、天然の、恵まれた条件から排除されている投資に比べて、より大きいということから生ずるのである。

 要するに、個別資本にとって地代の負担は蒸気機関を利用するよりも、落流を利用したほうが利益を得られるという見込みに支えられている。しかし、通常は自然力に頼るより蒸気機関などの技術革新を進めたほうが効率的であるので、この設例は初めから理論上のものである。現代にあっても、資本による自然エネルギーの利用が想定ほど進まない要因の一つとして、このことが関係しているだろう。

第三に。自然力は超過利潤の源泉ではなく、それは、ただ、例外的に高い労働生産力の自然的基礎であるがために超過利潤の自然的基礎であるにすぎない。

 落流の水力が直接に超過利潤を生み出すのではなく、水力が労働生産性の基礎となる結果として、超過利潤の基礎となるにすぎないという趣意である。超過利潤は、あくまでも剰余労働という人力によって生産される本則に変わりない。

第四に。落流の土地所有は、剰余価値(利潤)のこの(超過)部分、したがってまた落流の助けを借りて生産される商品の価格一般のうちのこの部分の創造とは、それ自体としてなんの関係もない。

 マルクスはこれに続けて、「この超過利潤は、土地所有が存在しなくても、たとえば落流の属する土地が工場主によって無主の土地として利用されているとしても、やはり存在するであろう。」と指摘するが、これは剰余価値生産を本旨とする資本主義的生産の場合のことであって、共産主義的生産において土地が無主とされる場合には、そもそも利潤を生まない。

第五に。落流の価格、つまり、土地所有者が落流を第三者または工場主自身に売った場合に受け取るであろう価格は、この工場主の個別的費用価格に入るとしても、さしあたり商品の生産価格に入らないことは、明らかである。

 これは広い意味での地価の問題だが、マルクスは労働生産物だけを価値生産物とみなすので、土地のような自然物は価値生産物に当たらないことになる。「この価格は、地代が資本還元されたもの以外のなにものでもない」。つまり、地価は差額地代が自然力そのものの価格として表現されたものにすぎないことになる。しかし、土地が独立した投資対象物として転々譲渡される現代資本主義においては、労働生産物ならぬ土地も一個の商品として、地代の資本還元にとどまらない固有の価格を持っている。


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