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共産論(連載第16回)

2019-03-08 | 〆共産論[増訂版]

第3章 共産主義社会の実際(二):労働

(1)賃労働から解放される(続)

◇「賃奴解放」宣言
 近時世界中に広がる資本至上主義政策の結果として労働条件が悪化する情勢の中、賃労働者もいっそ賃労働から足を洗い、自ら起業し、資本家となろうではないかとの呼びかけも聞かれる。つまり、搾取される側から搾取する側への攻守転換である。
 たしかに、一介の労働者から資本家へ華麗なる転身を遂げる成功者も存在するのだろう。しかし、賃労働者が全員資本家に転身してしまえば資本主義は労働力を失い、それこそ崩壊してしまう。よって、大多数の人は賃労働者であり続けるよりほかないように作られているはずである。新規起業者の大多数が5年と持たないのも必然である。
 実際、資本主義的な商品‐貨幣交換のシステムでは、日常必需的な財・サービスまですべて商品として貨幣交換を要求されるから、生活のためには何はさておきひとまずは賃労働をして生活費を稼がなければ生存そのものが維持できなくなる。その意味では資本主義的賃労働こそ、まさに「強制労働」の世界と言えるのである。
 とはいえ、賃労働者は前近代の奴隷のように直接に人身売買の対象とされるわけでないことはもちろん、労働市場ではどの雇用主と契約するかは求職者の自由とされている。しかし、その一方で賃労働者は生活のため繰り返し労働市場に立ち現れ、自分の労働力を買ってくれる雇用主を探さなければならないし、首尾よく雇用主が見つかっても必ず何らかの形で搾取され、雇用主の都合で賃下げされたり、解雇されたりすることも甘受しなければならない。
 どの雇用主からも有用な労働力として評価されなければ長期失業・無職を強いられるが、近時問題化しているそうした「労働からの排除」も、その実質は搾取の裏返しとしての排除現象である。つまり失業とは、資本側から見れば、そもそも労働力として搾取すらしないという方向での究極的な人件費節約手段である。資本家は好況時でも余剰人員を抱え込むことには警戒的であるから、資本主義経済において文字どおりの「完全雇用」はあり得ず、資本主義経済とは好況時でも一定の失業を伴う「失業の経済」である。
 こうして賃労働者は、資本家から見れば一定の知識・技能を含めた労働という独特の無形的なサービスを提供する生ける商品なのであり、そのようなモノとして、賃労働者は労働市場を通じて総資本に使い回され、反対に労働から遠ざけられもする存在となる。この意味において、マルクスは賃労働者を厳粛に「賃金奴隷」と呼んだのであった。
 とはいえ、現代における合法的な賃労働者は文字どおりの奴隷のように売買され、逃亡できないよう拘束されているわけではない点を考慮すれば、同様に相対的な人身の自由が保証されていた中世の農奴に近い存在として、「賃奴」と呼ぶほうがふさわしいだろう。
 してみると、資本主義経済とは、労働の視点から見れば、「賃奴制」の経済システムであるとも言える。一方、共産主義社会ではこうした賃奴制経済が転換されるのであるから、これは農奴解放ならぬ「賃奴解放」を意味する。実際、これこそが、共産主義において最も革命的と言える点なのである。

◇労働と消費の分離
 賃労働者は労働搾取の結果として与えられる賃金を生活費に投入するが、今度は消費という形で賃金収入の相当部分を様々な財・サービスの対価として費消させられ、もう一段の搾取をされる。
 マルクスは専ら第一段の労働搾取に焦点を当てたが、第二段の搾取―消費搾取―には大きな関心を向けなかった。しかし、今日における労働法制上の規制の下、あまりに野放図な労働搾取が制約される資本にとって、消費搾取はその補充手段として不可欠である一方、賃労働者側の生活苦・貧困は、労働と消費の二段にわたる搾取の結果生じるものである。
 こうして、資本主義経済は野心的かつ効率的な金儲けのためにはまことに合理的なシステムと言えるが、つましくも充足した生活のためには理不尽なシステムなのである。
 これに対して、共産主義社会にあっては貨幣経済‐賃労働制の廃止によって労働と消費が分離されるため、労働とは無関係に必要な財・サービスが無償で取得できるようになり、低賃金や失業ゆえの生活苦・貧困という問題も消え去る。これはまさに生活革命である。
 しかし、ここで疑問が浮かぶかもしれない。人々が労働と全く無関係に、望むだけ財・サービスを無償で取得できるとなると、独り占めや需要者殺到による品切れも頻発し、かえって早い者勝ちの弱肉強食的不平等社会になりはしないか、と。
 この疑問に答えるべく、マルクスは「労働証明書」なる仕組みを提案している。単純な例で言えば、1日8時間働いて8時間分の労働証明書の発行を受けた労働者Wは同じく8時間労働によって製造された物品Pを証明書と引き換えに取得できるというのである。
 この労働証明書は商品券に似るが、単なる引換券とは違って労働時間に基づく引換請求権が化体された一種の有価証券の性質を持つ。要するに、労働者は自ら働いた労働時間に相当するだけの物品を取得できるという考え方である。これによって労働と消費は関連付けられるのであるが、資本主義の下におけるように賃金を介するのでなく、労働時間そのものが直接に消費と連動し等価交換される。
 これは理論的に成り立つが、しかし、一つの机上論である。そもそも物品Pが何時間労働分に相当するかを厳密に計量することができるであろうか。
 仮にPの製造に要する平均的労働時間という粗数値を置くとしても、例えばWの担う労働は初心者でもこなせる単純労働であるのに対し、Pの製造に要する労働は熟練を要する複雑労働であるというように、質的に全く違っていたら、Wの担う8時間労働とPの製造に要する8時間労働を単純に等価値とはみなせないことになる。
 そうした労働の質的差異まで反映した精緻な労働証明書のシステムを構築することは事実上不可能と言ってよい。ただ、マルクスはこのような労働証明書のシステムを「資本主義から生まれたばかりの共産主義社会」に固有の過渡的な制度として示し、「各人はその能力に応じて、各人にはその必要に応じて」の原則が妥当する共産主義社会の高度な段階では労働と消費の完全な分離を認めているのである。
 しかし結局のところ、共産主義社会ではその発展段階のいかんを問わず、労働と消費の分離を認めるほかはない。それによって生じかねない早い者勝ちを防止するためには、前章でも示唆したように、各人が取得することのできる物品の数量を一回につき一人当たり何個とか何グラムというように規制し、現在の商店における会計に相当する手続きでこの取得数量の確認を行えばよい。
 それでもなお生じるかもしれない品不足に対応するには、これも前章で指摘したとおり、日用消費財の分野では生産組織に余剰生産を義務付けて相対的な過剰生産体制(十分な備蓄を伴った生産体制)を採ることである。


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