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晩期資本論(連載第72回)

2015-11-02 | 〆晩期資本論

十五 農業資本の構造(5)

 前回まで検討されてきたのは、農業分野にも資本主義的経営が及んだ段階における借地農業資本という形態を前提としているが、本章冒頭でも記したように、このような資本主義的農業はまだ世界的に普及しているとは言えず、発達した資本主義国を含め、小土地を所有する農民による自営農が広く行なわれている。マルクスは資本主義的地代の歴史を考察する中で、このような「分割地所有」に関しても分析を加えている。

農民はこの場合には同時に彼の土地の自由な所有者であって、彼の土地は彼の主要な生産用具として現われ、彼の労働と資本にとって不可欠な従業場面として現われる。この形態では借地料は支払われない。したがって、地代は剰余価値の区分された形態としては現われない。といっても、それは、他の点では資本主義的生産様式が発展している諸国では、他の生産部門と比べての超過利潤として、しかしおよそ農民の労働の全収益がそうなるのと同様に農民のものとなる超過利潤として、現われるのではあるが。

 このように超過利潤を生産者自らが取得する自己労働は、労働者を雇わない自営的生産活動全般に見られる現象である。「当然のこととして、この場合には農村生産物のより大きい部分がその生産者である農民自身によって直接的生活手段として消費されなければならず、ただそれを超える超過分だけが商品として都市との商業にはいるのでなければならない」。
 マルクスはこのような場合にも差額地代は成立するとみなし、その差額地代は超過余剰生産物に表象されると観念するが、あくまでも観念上のことである。

この形態では農民にとって土地の価格が一つの要素として事実上の生産費にはいるのであり、・・・・・・つまり、資本還元された地代にほかならない土地価格がこの形態では一つの前提された要素なのであり、したがってまた地代は土地の豊度や位置のどんな差異にもかかわりなしに存在するように見えるのであるが、まさにこのような形態の場合にこそ、平均的には、絶対地代は存在しないものと、つまり最劣等地は地代を支払わないものとみなしてよいのである。

 土地持ち自営農民にとっては土地は生産用具であり、同時に生活手段でもあるので、地代ではなく地価が主要な要素となる。それゆえ、土地そのものが生みだすとされた絶対地代は成立しないのである。しかし農民が農業を廃業して、所有土地を資本に貸し出す借地農業資本へ移行すると、絶対地代を生じることになる。

自営農民の自由な所有は、明らかに、小経営のための土地所有の最も正常な形態である。すなわち、この小経営という生産様式にあっては、土地の占有は労働者が自分自身の労働の生産物の所有者であるための一つの条件なのであり、また、耕作者は、自由な所有者であろうと隷属民であろうと、つねに自分の生活手段を自分自身で、独立に、孤立した労働者として、自分の家族といっしょに生産しなければならないのである。

 言い換えれば、「土地所有は、この場合には個人的独立の発展のための基礎をなしている。それは農業そのものの発展にとって一つの必然的な通過点である」。なお、文中「隷属民」に言及されているのは、一定の権利が保障された封建的な農奴形態を示唆している。

分割地所有は、その性質上、労働の社会的生産力の発展、労働の社会的な諸形態、資本の社会的な集積、大規模な牧畜、科学の累進的な応用を排除する。
高利と租税制度とはどこでも分割地所有を貧困化せざるをえない。資本を土地価格に投ずることは、この資本を耕作から引きあげることになる。生産手段の無限の分散化、そして生産者そのものの無限の孤立化、人力の莫大な浪費。生産条件がますます悪くなり生産手段が高くなっていくということは、分割地所有の必然的な法則である。この生産様式にとっての豊作の不幸。

 こうした小農経営の非効率さと後継者不足はしだいに大規模集約農業への移行を準備する。とはいえ、「大きな土地所有は、農業人口をますます低下していく最小限度まで減らし、これにたいして、大都市に密集する工業人口を絶えず大きくしていく。こうして大きな土地所有によって生みだされる諸条件は、生命の自然法則によって命ぜられた社会的な物質代謝の関連のうちに回復できない裂け目を生じさせるのであって、そのために地力は乱費され、またこの乱費は商業をつうじて自国の境界を越えてはるか遠く運びだされるのである」。

大工業と、工業的に経営される大農業とは、いっしょに作用する。元来この二つのものを分け隔てているものは、前者はより多く労働力を、したがってまた人間の自然力を荒廃させ破滅させるが、後者はより多く直接に土地の自然力を荒廃させ破滅させるということだとすれば、その後の進展の途上では両者は互いに手を握り合うのである。なぜならば、農村でも工業的体制が労働者を無力にすると同時に、工業や商業はまた農業に土地を疲弊させる手段を供給するからである。

 これは農業資本主義が全面化した段階に関する素描である。もっとも、工場栽培が発達すれば、「工業的に経営される大農業」からさらに農業と工業とが融合した「農工業」の段階に進む可能性もある。この場合は、もはや土地を利用しない農業となるので、土地の荒廃という問題も生じない。むろん『資本論』ではこのような段階までは見通されていない。その代わり、マルクスは土地所有制度そのものから解放された未来社会について言及している。

より高度な経済的社会的構成体の立場から見れば、地球にたいする個々人の私有は、ちょうど一人の人間のもう一人の人間にたいする私有のように、ばかげたものとして現われるであろう。一つの社会全体でさえも、一つの国でさえも、じつにすべての同時代の社会をいっしょにしたものでさえも、土地の所有者ではないのである。それらはただ土地の占有者であり土地の用益者であるだけであって、それらは、よき家父〔boni patres familias〕として、土地を改良して次の世代に伝えなければならないのである。

 「より高度な経済的社会的構成体」とは、第一巻で「共同の生産手段で労働し自分たちのたくさんの個人的労働力を自分で意識して一つの社会的労働力として支出する自由な人々の結合体」として対照されていた未来社会を指すであろう。ここでは明示されていないものの、土地が私的にはもちろん、公的にさえ所有されない―言わば無主物となる―共産主義的な土地管理のことが抽象的な暗示として述べられているのである。

☆小括☆
以上、十五では第三巻第六篇「超過利潤の地代への転化」全体を参照しながら、農業資本の構造について、検討した。ただし、建築地地代や鉱山地代のような非農業地代と土地価格を取り出して分析した第四十六章については除外し、地価の問題に関して改めて続く十五ノ2で検討する。


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