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晩期資本論(連載第76回)

2015-11-23 | 〆晩期資本論

十六 資本主義的階級の形成(3)

 『資本論』第二巻では、資本を生産手段の生産に係る部門Ⅰと消費手段の生産に係る部門Ⅱとに分けて分析する再生産表式が展開されていたが、マルクスは最終篇で再度この問題に立ち帰っている。
 なぜなら、「われわれがここでこの問題に立ち帰るのは、第一には、前のところ(第二巻)では剰余価値がまだ利潤(企業者利得プラス利子)と地代というその収入形態では展開されていなかったからであり、したがってまたそれをこれらの形態で取り扱うことはできなかったからである」。以下は、収入形態での展開を付加した修正版表式を説明した部分の長文引用である。

部門Ⅱの生産物には労賃や利潤や地代が支出され、要するに収入が消費されるのであるが、この部門Ⅱでは、生産物は、その価値から見れば、それ自身三つの部分から成っている。一つの成分は、生産中に消費された不変資本部分の価値に等しい。第二の成分は、生産で前貸しされて労賃に投ぜられた可変資本部分の価値に等しい。最後に第三の成分は、生産された剰余価値に、つまり、利潤プラス地代に等しい。部門Ⅱの生産物の第一の成分、不変資本部分の価値は、部門Ⅱの資本家によっても労働者によっても、また土地所有者によっても、消費されることはできない。それは彼らの収入のどんな部分もなしてはいないのであって、現物で補填されなければならず、またこの補填ができるためには売らなければならない。これに反して、この生産物の残りの二つの部分は、この部門で生みだされた収入の価値に、つまり、労賃・プラス・利潤・プラス・地代に等しい。

部門Ⅰでは、生産物は、形態から見れば、同じ諸成分から成っている。しかし、ここで収入を形成する部分、労賃・プラス・利潤・プラス・地代、要するに可変資本部分・プラス・剰余価値は、こここではこの部門Ⅰの生産物の現物形態では消費されないで、部門Ⅱの生産物で消費される。だから、部門Ⅰの収入の価値は、部門Ⅱの生産物のうちの、部門Ⅱの補填されるべき不変資本をなしている部分で消費されなければならない。・・・・・(その)部分は、その現物形態のままで部門Ⅰの労働者や資本家や土地所有者によって消費される。彼らは、自分たちの収入をこの生産物Ⅱに支出する。他方、その現物形態にあるⅠの生産物は、それが部門Ⅰの収入を表わしているかぎりでは、部門Ⅰの生産物によって不変資本を現物で補填される部門Ⅱによって生産的に消費される。最後に、部門Ⅰの消費された不変資本部分は、ちょうど労働手段や原料、補助材料などから成っているこの部門自身の生産物のうちから補填され、この補填は一部はⅠの資本家どうしの交換によって行なわれ、一部はこの資本家の一部分が自分自身の生産物を直接に再び生産手段として充用することができるということによって行なわれる。

 マルクスが改めて再生産表式に立ち返ったもう一つの理由として、「・・・第二には、まさにこの労賃、利潤、地代という形態にはアダム・スミス以来全経済学を一貫している信じられないような分析上の大間違いが結びついているからである。」ということがあった。
 ここで言う「大間違い」とは、「諸商品の価値は結局は残らず諸収入に、つまり労賃と利潤と地代とに分解する」との所論を指している。マルクスはこのような謬論が生じる要因となる五つの「困難」を列挙しているが、上記の修正再生産表式との関連で重要なのは次の第四及び第五の点である。

(4)・・・さらに一つの困難が加わってきて、それは、剰余価値のいろいろな成分が互いに独立のいろいろな収入の形で現われるようになれば、いっそうひどくなるのである。すなわち、収入と資本という固定した規定が入れ替わってその位置を変え、したがって、それらはただ個別資本家の立場からの相対的な規定でしかなくて総生産過程を見渡す場合には消えてしまうかのように見える、という困難である。たとえば、不変資本を生産する部門Ⅰの労働者と資本家の収入は、消費手段を生産する部門Ⅱの資本家階級の不変資本を価値的にも素材的にも補填する。

(5)・・・・・・・剰余価値が別々の、互いに独立した、それぞれ別々の生産要素に関連する収入形態すなわち利潤と地代とに転化するということによって、もう一つ別の混乱が起きる。商品の価値が基礎だということが忘れられてしまう。また、次のようなことも忘れられてしまう。すなわち、この商品価値が別々の成分に分かれるということも、これらの価値成分がさらに収入の諸形態に発展するということ、すなわち、これらの価値成分が別々の生産要因の別々の所有者たちとこれらの個々の成分との関係に転化し、一定の範疇と名義にしたがってこれらの所有者のあいだに分配されるということも、価値規定やその法則そのものを少しも変えるものではない、ということがそれである。

 こうした事情から、「価値がそれ自身の諸成分から発生するかのような外観」、あるいはそのように錯認する取り違えが起きるというのである。その詳細の考察は次章に回されているが、ここではこうした「取り違え」を矯正する簡単な論理として、さしあたり次のことが指摘されている。

・・・まず第一に、商品のいろいろな価値成分がいろいろな収入においてそれぞれ独立な形態を受け取るのであって、このような収入として、それらの源泉としての商品の価値にではなく、それらの諸源泉としての別々の素材的生産要素に関連させられるのである。それらはこの素材的生産要素に現実に関連させられてはいるが、しかし価値成分としてではなく、諸収入として、生産当事者たちのこれらの特定の諸部類、すなわち労働者、資本家、土地所有者の手に落ちる価値成分として、である。


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