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晩期資本論(連載第77回)

2015-11-24 | 〆晩期資本論

十六 資本主義的階級の形成(4)

 マルクスは、「価値がそれ自身の諸成分から発生するかのような外観」を生じさせる要因について、詳細に考察しているが、ここでは行論上それらは割愛するとして、幻惑的な「外観」を剥ぎ取って正しく規定し直された命題は―

・・・・商品の価値は、新たにつけ加えられた労働を表わしているかぎりでは、つねに、三つの収入形態をなしている三つの部分に、つまり労賃、利潤、地代に分解するのであって、この三つのもののそれぞれの価値の大きさ、すなわちそれらが総価値に占めるそれぞれの可除部分は、・・・・・・別々の特有な法則によって規定される・・・。

 さらにこの命題を階級関係の形成にもつながる分配関係の観点から言い換えれば、次のようになる。

・・・・・年々新たにつけ加えられる労働によって新たにつけ加えられる価値は、・・・・・・・・三つの違った収入形態をとる三つの部分に分かれるのであって、これらの形態はこの価値の一部分を労働力の所有者に属するもの、一部分を資本の所有者に属するもの、そして第三の一部分を土地所有権の保持者に属するものとして、または彼らのそれぞれの手に落ちるものとして、表わしているのである。つまり、これらは分配の諸関係または諸形態である。なぜならば、それらは、新たに生産された総価値がいろいろな生産要因の所有者たちのあいだに分配される諸関係を表わしているからである。

 ここで分配というとき、「年間生産物が労賃、利潤、地代として分配されるという、いわゆる事実」、つまり「生産物のうちの個人的消費にはいる部分にたいするいろいろな権利」としての分配関係と、「生産関係そのもののなかで直接生産者に対立して生産関係の特定の当事者たちに割り当たる特殊な社会的機能の基礎」となる分配関係とが区別される。後者の意味での「分配関係は本質的にこの生産関係と同じであり、その反面であり、したがって両者とも同じ歴史的・一時的な性格をもっている」とされる。このような社会的機能の基礎を成す分配関係から、資本家、労働者、土地所有者の三大階級もまた派生してくる。そうした資本主義的分配関係をさらに仔細にみると―

労賃は賃労働を前提し、利潤は資本を前提する。つまり、これらの特定の分配関係は、生産条件の特定の社会的性格と生産当事者たちの特定の社会的関係とを前提するのである。

 より具体化すれば、「ただ、賃労働の形態にある労働と資本の形態にある生産手段とが前提されているということによってのみ―つまりただこの二つの本質的な生産要因がこの独自の社会的な姿をとっていることの結果としてのみ―、価値(生産物)の一部分は剰余価値として現われ、またこの剰余価値は利潤(地代)として、資本家の利得として、資本家に属する追加の処分可能な富として、現われる。しかも、ただ剰余価値がこのように彼の利潤として現われることによってのみ、再生産の拡張に向けられ利潤の一部をなしている追加生産手段は新たな追加資本として現われるのであり、また、再生産過程の拡張は一般に資本主義的蓄積過程として現われる」。この理こそ、まさに『資本論』全巻に通ずる主要命題であった。

利潤は、・・・・生産物の分配の主要因としてではなく、生産物の生産そのものの主要因として、資本および労働そのもののいろいろな生産部面への配分の部分として、現われる。利潤の企業者利得と利子への分裂は、同じ収入の分配として現われる。

 「個々の資本家には、自分が本来は全利潤を収入として食ってしまえるかのように思われる」利潤は、保険・予備財源や競争法則などの制限を受けるほか、資本主義的生産過程全体も生産物価格に規制され、その規制的生産価格もまた利潤率の平均化やそれに対応する資本配分により規制されるというように、「利潤はけっして個人的に消費できる生産物の単なる分配範疇ではない」。
 また利潤の企業者利得と利子への分裂という形での分配にしても、自己増殖する剰余価値を生み出す資本という資本主義的生産過程の社会的な姿からの発展であり、「それは、それ自身のうちから信用や信用機関を、したがってまた生産の姿を発展させる。利子などとして、いわゆる分配形態が規定的な生産契機として価格にはいるのである」。

地代について言えば、それは単なる分配関係であるように見えるかもしれない。・・・・・・しかし、(1)地代が平均利潤を越える超過分に制限されるという事情、(2)土地所有者が生産過程と社会的生活過程全体の指揮者および支配者から、単なる土地賃貸人、土地の高利貸、単なる地代収得者に引きずり下ろされるという事情は、資本主義的生産様式独自の歴史的な結果である。

 地代は資本主義的生産様式以前から存在するが、資本主義的地代はそうした旧来の古典的な地代とは本質を異にし、資本主義的な生産関係から派生する非生産的な、ある種の寄生的土地所有関係の産物である。

・・・・・資本主義的分配は、他の生産様式から生ずる分配形態とは違うのであり、その分配形態も、自分からそこから出てきた、そして自分がそれに対応している特定の生産形態とともに消滅するのである。

 先に「分配関係は本質的にこの生産関係と同じであり、その反面であり、したがって両者とも同じ歴史的・一時的な性格をもっている」と言われていたとおり、生産関係と分配関係が表裏一体であれば、両者の命運も一蓮托生である。

ある成熟段階に達すれば、一定の歴史的な形態は脱ぎ捨てられて、より高い形態に席を譲る。このような危機の瞬間が到来したことがわかるのは、一方の分配関係、したがってまたそれに対応する生産関係の特定の歴史的な姿と、他方の生産諸力、その諸能因の生産能力および発展とのあいだの矛盾と対立が、広さと深さを増したときである。そうなれば、生産の物質的発展と生産の社会的形態とのあいだに衝突が起きるのである。

 ここで示唆されているのは、資本主義的生産様式が発展し切って、生産諸力との間に自己矛盾を来たした暁のことである。こうして第一巻末で、発達した資本主義から新たな生産様式が内爆的に生起することがやや図式的に示されていたことに再び立ち帰ることになるが、これについては稿を改めて検討する。

☆小括☆
以上、十六では全巻の補論の意義を持つ第三巻第七篇「諸収入とそれらの源泉」に即して、資本主義社会における典型的な三大階級の形成という観点から、整理を試みた。


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