goo blog サービス終了のお知らせ 

kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

スイス美術館紀行4 チューリヒ、ヴィンタートゥーア

2008-09-28 | 美術
チューリヒ美術館は高台にあり、坂を上らないと行けないしトラムなら少し大回りになるが美術館前に着く。そして驚くほどの広さ。筆者はスイス旅行最終日、それも午後に訪れたたため残念ながらすべてを見尽くすことはできなかったが(現代美術の企画展をしていて6時に追い出された)、十分堪能できた。それもそのはず、スイス最大の収集品数をほこり、古典から近代まで満遍なくそろえ、スイスがほこる世紀末画家ホドラーの作品も多く見とれる。しかし、筆者がひかれたのは彫刻室。ジャコメッテイはもちろんブランクーシまであり、しばしの間にんまり。
ヨーロッパ・ロシアの美術館はルーヴルやエルミタージュなどおよそ1日では回れない規模の美術館が思い浮かぶが、チューリヒ美術館も本当に回れば1日で終わる規模ではない。それほど魅力にあふれている展示品と回廊だ。スイスの本家ジャコメッテイに限らず、セガンティーニなどスイス出身の画家のみならず、ココシュカなど隣国の画家の作品も多い。スイスは人口割の数字で美術館数が飛び抜けて多い国であるが、世界的に有名な美術館は多くないとされる。いやいやチューリヒ美術館を訪れよ。垂涎の作品群が迎えるであろう。そしてロンドン・ナショナルギャラリーやベルギー王立美術館を思いおこさせる充実ぶりであることを。

今回のスイス渡航の目的の一つはヴィンタートゥーアのオスカー・ラインハルト・コレクションを訪れたかったため。しかし、残念ながら休館。それが分かったのもヴィンタートゥーアに着いてから、美術館行きバスに乗ろうとしたときドイツ語のできる日本人女性に教えてもらったから。インフォーメーションでも教えてもらえなかったのがいかにもヨーロッパ風で?この点だけは万事合理的、スムーズに事が運んだスイスでは例外か。オスカー・ラインハルトもバーゼルのバイエラーのように私財を美術収集に費やし、ついに自宅まで美術館にしてしまった人物。近代絵画が多いそうであるが、ともすれば散逸しがちな美術品を集め、移転させるなと遺言したのは金持ちの矜持か。機会があればまた訪れたい地だ。そもそも、ヴィンタートゥーアなんて町はチューリヒから20分ほどであるが、美術好き以外は絶対訪れない地であるそうであるから。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スイス美術館紀行3 バーゼル

2008-09-28 | 美術
金持ち国スイスだけあって、個人財団設立美術館の充実ぶりはすばらしい。バイエラー・コレクション(財団美術館)は、美術商であったエルンスト・バイエラーの収集した近代美術が贅沢に展示されている。筆者が訪れた際には他美術館等からも集めたフェルナン・レジェ展をしていて眼福であった。レジェの作品を一同にこれほどまみえる機会などなかったからだ。ピカソやモディアリアーニ、マチスなどの大作もあり、うれしくなってしまう。ただ、公営美術館ではないので、スイスカード(鉄道と併せて公営美術博物館はほぼ入れる)が使えず、日本円で2300円ほどの入館料が必要だが、払って十分価値あるコレクションである。

バーゼル市立美術館はライン河畔にあり、歩いて行くには少し難儀であるが、トラムが美術館の前に止まり便利はよい。おもてにロダンの「カレーの市民」をいただき、館内はとても広い。スイスといえばアルベルト・ジャコメッティの彫刻群が充実。有名なホルバインの「墓の中の死せるキリスト」は16世紀初頭の作品であるのに写実主義の極みで迫力がある。ホルバインの収集においては世界有数であるそうで、古典から近現代までヨーロッパ最古の公立美術館として出発しただけのことはある。ネーデルランド絵画はもちろん、ドイツとも近い地勢故か、ナチスから退廃芸術のレッテルをはられたドイツ表現主義の面々、カンディンスキー、マルク、ココシュカなどの作品も多い。世界3大美術館ほどの規模ではないが、1日十分過ごせる広さと楽しさにあふれた美術館である。(墓の中の死せるキリスト)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

総合芸術家としてのシャガール、ディアスポラとしてのシャガール

2008-09-21 | 美術
「エコール・ド・パリ」なんて括り方も今となっては怪しいが、印象主義と並んで日本ではこの「エコール・ド・パリ」の面々の人気が高いようである。キリスト教のバックグラウンドを持たない日本人が、キリスト教美術にそれほど興味を持たないのは仕方がないが、シャガールは敬虔なユダヤ教徒(ハシェド派=恩寵派ユダヤ教)。そして絵画にも旧約聖書のそれが反映されているというのにそのあたりが理解に苦しむところだ。
ゴッホのように生前は全く評価されなかった画家にくらべ、シャガールは芸術家としてはかなり順風満帆である。ユダヤ人であること、名家の出ではないこと(父は鰊工場の職人)などから進学、結婚などについて障碍はあったが、比較的若くして認められ、パリから帰り革命前夜(もちろん、パリに戻れなかったのは第1次大戦のためである)からロシアにおり、職を得、また舞台芸術を任されるなどしたからだ。
本展はシャガールといえば、あの幻想的な青の世界に馬や人が飛んでいる、ベラと仲むつまじい姿をフィーチャーするお決まりの展示ではない。もちろん、シャガールは人を空漂わすのは好きなようで、ベラと空を飛んだりする様は愉快でもある。
芸術家としては順風満帆と書いたが、ユダヤ人としては当然ディアスポラを経験している。ロシアを離れたのも、パリから渡米を決意したのもユダヤ人であったから。しかし、ユダヤ人であることのアイデンティティを確認するかのようにシャガールはパレスティナの地を何度か訪れている。パレスティナの土地の色、空気の色、それらすべてが新鮮だったシャガールにとって迫害された民のうずきが絵画に反映したかというと実はそうは思えない。
シャガールの生地はベラルーシ(白ロシア)。シャガールはベラとの出会いもあり、生涯、自己の生地、両親、そのまた親(祖父はユダヤ教ハシェド派の重鎮であったという)を育んだヴィテブスクを思い、描いた。そのようなものかもしれない、自己の成長地への思いとは。決して裕福ではなかったシャガールではあるが、弟、妹ら7人に囲まれ、画題にしていることからマルクが幸せであった実感を得られる時代であったのではなかろうか。
シャガールが世に認められ、装丁画や劇場美術をこなした証が丹念にたどられる本展。シャガールといえばサーカス、の原点がここにある。版画に目覚めたのは画家として成功してからで、ドライポイントなど体力を要する版画を体得したのにはバックボーンを持たない芸術家としての意地が垣間見える。
パレスティナの地を何度も訪れたということは、結局戦後は1948年に建国されたイスラエルを訪れたと言うこと。シオニズム的発言も報道された中、シャガールへの距離感を感じざるを得ない筆者ではあるが、少なくとも、シャガールが愛を描いた幻想画は(シャガール自身は「幻想画家」と呼ばれるのを嫌っていたようであるが)イスラエル建国以前のものも多いということを強調すべきかもしれない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スイス美術館紀行2 グリューネヴァルト「イーセンハイム祭壇画」

2008-09-15 | 美術
コルマールはスイスではないので正確には「スイス美術館紀行」には入らない。が、バーゼルから1時間ほどというのがわかったので、足を伸ばすことにした。パリからは5時間以上かかるらしいので今回のイクスカージョンは正しかったと思うが、ウンターリンデン美術館はたとえ5時間かかってもパリから訪れたいと思ったかもしれないところである。
イエスの磔刑は絵画題材としてはありふれたものだが、たいがいイエスはそれほど傷ついているわけではない。きれいな姿をしているが、グリューネヴァルトの「イ-ゼンハイム祭壇画」だけは傷ついたぼろぼろのイエス像は珍しいらしい(西岡文彦『名画でみる聖書の世界』)。それで見たい、ルネサンス期美術というとイタリアの華やかなそれしか知らなかったので、そうではないものこの眼で確かめたかった。
西岡前掲書によれば十字架刑というのはすこぶる残酷な刑であったらしい。拷問としての性格も有していてよっぽどの重罪でなければ適用されなかった刑であると。そして肩の骨が裏返らない限り(?)あのような十字架の形に人間がさらされるのは不自然である。
十字架磔刑図の多くが、イエスと共に磔にされる他の2人の罪人を描いている。しかしグリューネヴァルトの本作は、イエスだけを描いているし、後に復活する神々しさや力強さ、どこか現実離れした雰囲気もなく、これは完全に違っている。本当に十字架に架けられた瀕死のイエスを描いているのだ。そして、瀕死のイエスは復活しそうにないくらい傷つき、病んでいる。これが新鮮なのだ、惹かれるのだ。
イエスの磔刑が事実としても、新約聖書の物語のうちには現実では考えられない、ありえないと思われることも多い。それが絵画など美術作品になるとその非現実性が増幅されて、美術作品本来の現実性を超えた魅力を減じさせることもあると思う。しかし、どれほど現実を離れた宗教的魅力があろうとも美術的価値を感じることができるなら心洗われることはある(ヤン・ファン・エイク「神秘の子羊」はその最たるもの)。グリューネヴァルトの本作は宗教的見地から届けようとして(16世紀であるから当然だ)、かつ、イエスの苦難を現実的表現によって伝えようとしている。
祭壇画であるから、聖ヨハネやマリアなど主要人物は登場し、キリストの物語をいろいろ描いているが、磔刑の迫力はそれらを超える。イタリア以外のルネサンス美術にもっと触れたくなる。イーゼンハイム祭壇画はその好奇心を満たしてくれる一里塚である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スイス美術館紀行1 パウル・クレー・センター

2008-09-12 | 美術
スイス美術紀行1
 今回の旅行の目的の一つはフランスはコルマールに行くこと(後述)。もう一つは2005年6月に開館したベルン郊外のパウル・クレー・センター(Zentrum Paul Klee)を訪れることだ。ZPKには日本人の学芸員がおり、紹介してくださる方があり、お会いでき、そして展示を解説して頂いた。
 奥田修さんはZPKが開館するに伴い、ベルン美術館から移った方でそれまでベルン美術館の学芸員であった。ベルン美術館は世界最大のクレーのコレクションを有していたが、スイスの最大画家クレーコレクションのための美術館構想が立ち上がり、それまで2000点を有していたベルン美術館にクレー家などから寄託された作品も含め4000点を有するセンターとして開館したものだ。奥田さんによると、「センター」になったのは、クレー芸術を中心に複合施設として開館することになったからという。そのとおりZPKはクレーの展示室以外に企画展示室、コンサートホール、会議やレセプションにも対応でき、子どもの教育施設として、また広い年齢層に対する絵画教室としても機能している。奥田さんは「ベルン市民はこんな遠いところには来ないよ(ベルン中央駅からバスで20分ほどだが)。でも企業が会議など催しに使ってくれてなんとかやっている」と話されていた。
ZPKは、ベルン旧市街を抜けた少し高台にあり、高速道路がそばに通っているものの、牧場などに囲まれたのどかな地勢。地元のお金持ちがぽんと土地を提供してくれ、土地を探す必要がなくなったこと、クレー家をはじめ「寄託」という形で作品を提供してくれたため収集費用が多額にはならなかったことなど美術館大国スイスの面目躍如たる偶然が重なり実現したのがZPKなのだ。もちろん、センターという多角性がなければ実現しなかった企画であり、「こんな総合芸術企画でなく、クレー美術館の門番として過ごしたかったのに」と冗談めかして話す奥田さん。
 案内していただいた時のクレー作品展はクレーが小さいときから植物に興味があり、それらのスケッチを重ねてやがてあの独特の色彩世界、フォルムにつながるというもの。驚かされたのはクレーが子どもの頃から集めた植物の標本が完全な形で残っていること。120年前の押し花(ではないが)が見事に残っているのは感嘆ものである。これはクレー家が保存よく残していたこと、第2次大戦時にもナチスドイツの略奪を許さなかった中立国スイスであったためなど幸運な要因が重なったためと考えられる。しかしバウハウスで教鞭をとったクレーはナチスから「ユダヤ人」との攻撃を受け、退廃芸術の烙印を押されたが、故郷スイスに亡命し晩年を過ごした。
 壁のないだだっ広いZPKの展示室はパネルで仕切られ、どこからどこへでも漂うように見渡すことができる。4000点を超えるクレーの作品群を常時展示しているわけではない。だから、今回はクレーの植物への興味の延長線上に置きにくい作品(というか、そう展示側が企図したもの)は除かれているので、著名な「赤のフーガ」や「死と火」は展示されていなかったように思うが(少なくとも筆者が訪れたときは)、それでもクレーの想像力、好奇心、博学さには驚かされるばかりの世界が広がっている。植物が好きであったくらいだから理系への興味が強かったクレーだが、バイオリンの名手であり(妻もピアニスト。画家として売れるまでは演奏家として小銭を稼いでいたという)、哲学にも造形深く、バウハウスでは造形学や色彩論(バウハウスではこの分野の第一人者ヨハネス・イッテンもいた)、製本、形態の実技まで持っていたというのであるから、いやはや万能の哲人とまでは言わないでせよ飛び抜けて多芸多才であったことが伺われる。
 スイスに戻ったクレーは病魔とたたかいながら多くの作品を残した。ペン画で描かれた天使のシリーズもこのころの作品。クレーの全容を知るためには(できはしないが)、ZPKに通い続け、企画展示の全てを見尽くさなければならない。植物を採取していた子どものころから、チュニジア旅行で色彩に目覚め、バウハウスで教鞭をとりながら抽象的構図の理論を高めていたとき、そして線画。画家は若死にかとても長生きという感じがしていたが、60歳で亡くなったクレー。戦後も生きていたらどんな不思議な色や造形を生み出していただろう。
 クレーを楽しみ探す旅は始まったばかりである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

肖像画の「大家」として再発見  モディリアーニ展

2008-07-18 | 美術
ずいぶん昔、上野の森美術館でモディリアーニ展(その時はモジリアニと表記していたかもしれないが)を開催していて、そのデッサン力に驚いたものだが、今回もそれは同じだった。しかし、それからブランクーシに惹かれ、モディリアーニについても何回か見る機会もあり、またエコール・ド・パリの面々についても少しだけ知るようになり、その時とはいくぶんモディリアーニについての見方や知識量も変化したのだろう。折しも、モディリアーニの映画やジャンヌの展覧会も開催され、あのすぐにはとっつきにくいフォルムに人気が高まっているように思える。だからこそ今回の展覧会となったのであろう。
今回はモディリアーニのあの独特のフォルムの出自をアフリカ原始美術に求め、そのプリミティブ性が、彫刻をあきらめた後のかの典型的な細長いフォルムに開花しているという点、そして肖像画家として大成した(もちろん生前成功したわけではない)姿をそのアフリカ美術への傾倒に求めているという点でクリアである。ブランクーシがアフリカのプリミティブ芸術に惹かれていたこと、モディリアーニがブランクーシと親交のあったこと、その頃はモディリアーニは彫刻家を目指していたことは知っていた。しかし、あらためてモディリアーニのカリアティッド(細長い石柱の女性像)を見るとブランクーシ、その光景に透けて見えるアフリカ(といってももちろん広く、北アフリカの民族芸術が中心である)の影響がはっきりする。そして、ブランクーシのあの研ぎすまされた形態もプリミティブ・アートが起源であることも。
誤解していたのはモディリアーニといえば黒眼と白眼の区別のつかない真っ黒な虚空の眼をしていると思ったこと。最初は最晩年のときだけそうなのかと思ったが、よくよく見ると1916年くらいに黒眼をきちんと描いていたさまは死ぬ直前になっても変わらない。肖像画の相手によって、その時々、眼の玉を描いたり、描かなかったりしていたようだ。それにしても、虚空の眼、同じように無表情に少し傾げてまみえる肖像画の数々を見ていると、モディリアーニが被写体の内面に迫ってから描き始めたという伝説が本当に思えるような迫力だ。逆にいえば、あの虚空、無表情は描く人としてのモディリアーニを完全に信頼していた証かもしれない。
国立国際美術館は同時にコレクション展として宮本隆司と石内都の写真展を、企画展としてベルリンで活躍するインスタレーション作家の塩田千春の展示もしているが、こちらも必見である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アボリジニアートの枠を超える偉大さ エミリー・カーメ・ウングワレー展

2008-04-06 | 美術
ヴァイオリンの名手でもあったパウル・クレーの絵からは音楽が聞こえてくる。とても単純に見える線画だけなのになぜ?と考えるのが自然だ。それくらいクレーの絵はこちらの想像力をかき立ててくれる。これは当たり前の話かもしれない。というのは、作品そのものが物語を表していてそれで完結してしまうと、こちらの想像力は音楽が聞こえてくるようには働かないからだ。たとえば、神話を題材にした作品。その点、クレーのような抽象画の方が音楽が聞こえて来やすく、また、そのような雰囲気を十分に有している。
80歳を越えて絵筆をとったというエミリー・カーメ・ウングワレーはアボジリニの土地から生涯出ることもなく、もちろん美術教育も受けていない。しかしそもそも作品の規模が大きいため、クレーをも凌駕すると感じるほどのこの音楽性は何なのか、一体どこから生まれてくるものなのか。
最初ウングワレーの作品にまみえた時、ドローネーを思い出した。クレーより少し年少であるが、パリでいち早く活動していたドローネー夫妻はフォービズム、キュビズム以降の抽象表現主義、ドローイングに成功した作家である。筆者は勝手に20世紀初頭のフォービズム、キュビズム以降抽象表現主義によって絵画はペインティングからドローイングに進化したと考えるが、ドローネー夫妻はその後大判の抽象絵画を成功させたロスコやミニマルアートのステラなどに続く仕事をしたが、ウングワレーはドローネーに遅れること70年でドローイングの世界を成就したが、べたっと塗ったそれでなく次第に点描と線描に目覚めていく。100号を超える大作であるのに一つとして同じ様相を示さない点と線。解説によればウングワレーは下絵など描かずに一気に書き上げたという。それも恐るべき早さで。そして80年代末から90年代没するまでわずかの期間に制作したその数も夥しい。
ウングワレーの暮らした土地アルハルクラはアボリジニ最大の保護地区に近接し、アルハルクラは土地でありながら、ウングワレーそのものであり、ウングワレーの発想の源、生である。広大で時に過酷な大地はウングワレーをしてヤムイモを描かせ、エミューを馴らし、そして絵筆を取らせた。もともと体に装飾画を描いていた延長でその伸びやかかつ大胆な色遣いが今大地、キャンパスに展開された。アクリルという現代的、乾きが早い絵の具を手に入れたことでウングワレーの画業は花開き、そしてアボリジニアートに無知な私たちの眼前を疾駆した。
先にウングワレーの作品を西洋近代の抽象画家のそれと比べるような記述をしたが、もちろんウングワレー自身はドレーネーもポロックもデ・クーニングも知らないし、比べられることにも興味さえ抱かないだろう。それでも比べてしまう、すぐ西洋絵画を引き合いに出してしまう浅はかさは赦されるだろう。それくらい、ウングワレーの独創性にたじろいでしまうのだ。アルハルクラというオーストラリア内陸の地を離れたことがないのに、この世界の広さ、普遍性はどうだ。
オーストラリアの新首相が白人によるアボリジニへの迫害を正式に謝罪したときに、ウングワレーはもういなかったが、作品はそんなことも知っていたかのようにオーストラリアを、私たちを包み込む。現代美術がどでかいキャンパスを要する意味がやっと分かったような気さえする展覧会であった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

まず出かけてみよう   KOBE Biennale 2007

2007-11-04 | 美術
「現代美術はわかりにくい」というのが現代美術に必ず冠される前振りだ。その「わかりにくい」現代美術の展覧会が数多く催され、今年は特にヴェネチアビエンナーレ(2年ごと)、ドクメンタ12(カッセル 5年ごと)、ミュンスター彫刻プロジェクト(10年ごと!)まで巡りきた珍しい年でもある。国内でも2回目のBIWAKOビエンナーレ(近江八幡市)と今年初めて開催された神戸ビエンナーレ。
神戸ビエンナーレの総合プロデューサーが華道家ということで、会期中は入場口近くに「いけばな野外展」が設置されている。開催中、ずっと同じ生花を活けているわけにはいかないので数日単位で展示替えをするようであるが、そもそも会期中をとおしたインスタレーションとして耐えうる展示という意味では生け花は難しい分野であったかもしれない。
神戸ビの主要会場であるポートタワーそばのメリケンパークでは「アート イン コンテナ展」と「大道芸コンペティション」などが催されている。「アート イン コンテナ展」はその名のとおり、港町神戸よろしく作家ごとにコンテナで表現する面白い試み。コンテナという制約があるため、蔡国強のような大がかりな作品は無理だが(蔡ほどの大物はもちろん今回「招待」されてはいない。コンテナ展もコンペである。)、美術大学の現役大学生をはじめ若手を中心にそれなりに楽しめた。
越後妻有トリエンナーレでも出品した塩澤徳子氏の「こと-の-は」は、世界中の文字を散りばめたちょっと知的で楽しげな空間である。漢字、アルファベットはもちろん、ハングル、クリル文字、インカ文字、ヒエログリフ、トンパ文字まである。作家は作品をつくるにあたって世界の「文字」を探しまわったそうであるが、コミュニケーションが断絶しがちと言われる現代社会で文字の持つ「つながり」の実感といったものはまだまだ有用であるのかもしれない。携帯小説がはやり、ネット相談がそれなりに役にたっているという現代にあって、絵文字だろうが、不正確な日本語であろうが「つながり」を求めないということはない文字コミュニケーションを前提とした人の性みたいなものを見た気がする。もっとも、携帯ツールはいじめ自殺や出会い系犯罪なども誘因するが、これは文字コミュニケーションが本来内包する問題ではないだろう。
実は会期2日目に行った際、今夏いつまでも暑いのが災いして、塩澤さんのコンテナには暑くておれなかったのだが(蛍光灯がたくさん使用してある)、11月になってどのコンテナも暑くして耐えれないということはない。10月はこの暑さが入場者の減少に関係しているとすればとても残念だ。しかし、そもそも現代美術のインスタレーション作品は全部ではないが電気やその他動力に頼るものが多い。最近は多くはないが、ビデオインスタレーションなど電気なしでは展示さえできない。そのような前提で考えるならばコンテナという閉鎖空間でする展示はより涼しい季節を考えたほうがいいかもしれない。むろん今年の暑さが異常なのだが。
行列ができているコンテナもあり、それなりに観客は来ているがはっきり言って連休のしのぎやすいこの日和に、この人出ではきついだろう。冒頭に述べたが「現代美術はわかりにくい」という理由で人が少ないのであれば、むしろ(現代)美術が「わかる」「わからない」という範疇でとらえられている不幸な証ではないか。現代美術であろうとルネサンスや仏教芸術であろうと、「わかる」人は多くはないのでないか。「わかる」「わからない」ではからないと美術に接しえないというこの国の文化政策・教育(市民の感度)の貧しさこそ問われるべきであろう。もちろん「面白いと思う」「いいと思う」というのもより主観的になりすぎ、育てる、楽しむ、残すという意味での人間にとっての芸術・美術の存在価値がうすれるような気もするのであるが。
塩澤さんの作品をはじめしばらくコンテナにたたずんでいたい作品は外にもあるし、それぞれで探してほしい。2年に一度。また再来年開催するために。
(写真は塩澤さんの「こと-の-は」)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

20世紀の夢 モダン・デザイン再訪

2007-06-11 | 美術
大阪にある3つの代表的な美術館ー国立国際美術館、サントリー美術館・天保山そして大阪市立近代美術館建設準備室ーの所蔵作品を一同に集めて開催されているのが「大阪コレクション」。今回は前回の「夢の美術館」(20世紀美術(平面編))に続く第2弾である。基本的に所蔵作品の貸し出し合いなので目新しい作品があるわけでも、美術館によってはあまり所蔵作品がない場合もある(今回は、国立国際美術館はカンディンスキーの作品のみであった)。けれど、デザインという切り口で大阪にある作品で語って魅せようと言う意気込みだけは見て取れた(あくまで「意気込み」だが)。
テーマのサブタイトルは「アール・ヌーボーからロシア構成主義、北欧のモダンまで」であるが言い過ぎである。が、モダンデザインの発現はバウハウスにあると見る筆者からすれば結構楽しめる内容であった。と言うのは、美術が王族・貴族のものから市民のものへと展開する契機はやはり産業革命そして、フランス革命であり、それが「趣味」の美術から「道具」のデザインへ発展するいわば時代の変遷や作者の悩みが近代デザインに反映されているのはそのとおりであるからである。
アール・ヌーボーが貴族が室内で楽しむものを市民がマチで感じるモノへと発展させたにもかかわらず、合理性と大量生産という近代社会の要請を担えなかったのは当たり前であり、であるからこそ、近代が持つ合理的「知」の証明としてのモダンデザインが市民へのいきすぎた提供になりかねなかったことの未熟性こそ、モダンデザインの初期の魅力である、とは言い過ぎだろうか。
バウハウスで教鞭をとったのは、カンデンスキーにクレー、イッテンなどその後20世紀のモダンコンセプションをまさに牽引した人たちであり、それを受け継いだオランダのリートフェルトなどのデ・ステイルはゲルマンの合理性を、マレービッチやタトリンなどのロシア構成主義は社会主義の「魅力」をよく伝えているように思える。
何よりもモダンは決して冷たいデザインではない。モリスや柳宋悦など手仕事の妙としても現在に生きているのが憎く、うれしい。
デザインは決して使う人を無視しては成り立たないことをよく示している今回の展覧会ではないか。いや、六本木に鳴り物入りで開設した3大美術館に対し、お金じゃないよ、すでにあるものでこれだけ展示できるのだよという大阪人の反中央主義?というアンチとしても見られるだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フランドルからマグリットまで楽しめる  ベルギー王立美術館展

2007-04-15 | 美術
ベルギー王立美術館には2度行ったが、1度目はひどく疲れていて十分に見られなかったこと、それを取り返そうと訪れた2度目は、オフシーズンで半分が閉鎖中であったことから、残念な思いが残っていた。そして日本で開催された今回。フランドルの雄、ルーベンスやヨルダーンス、ブリューゲル(?)の「イカロスの墜落」まで来ていて楽しめた。
「イカロスの墜落」についてはブリューゲルの作であるかどうか論争中であるので展示にも(?)を付していた。同時代の宗教画を多く描くの画家と違い、ブリューゲルは普通の人間を描く人として知られる。もちろん風俗画ばかり描いていたわけではない。ブリューゲル(父)には「バベルの塔」(ウィーン美術史美術館)などもあり、風俗画家、通俗画家に収まりきらないのがブリューゲルのすごさであると言える。今回は(父?)の「イカロスの墜落」と(子)の「婚礼の踊り」などが展示され、たった数枚にしてブリューゲルの表現力の深さを垣間見ることができるし、王立美術館を訪れたことのある者なら、あの「ブリューゲルの間」を思い浮かべることができるであろう。そう、「反逆天使の墜落」や「ベツレヘムの戸籍調査」(厳密にはヨーロッパに「戸籍」はないので「出生地調査」くらいがより適切だと思うが、通常こう紹介されている。)などの傑作が瞼に浮かぶ。あの部屋に足を踏み入れた時のうれしさといったらない。壁一面がブリューゲルなのであるから。
さて、本展は16世紀フランドル絵画から、20世紀クノップフ、アンソール、デルヴォーまでもれなく押さえているので見やすいが、そういったすでに日本でも有名な画家の作品より、ティルボルフやテニールス(子)といった17世紀フランドル絵画の黄金時代を飾った作品が興味深かった。というのは、17世紀といえばフランスではルイ王朝の全盛期、フランドルでもルーベンスやヨルダーンスなどの大作がもてはやされていたのに比べ、小振ながら迫力十分の筆致であったからだ。もちろん、ルーベンスの作品など何百号もあり日本に運ぶのが難しい作品も多いからであるが、キリスト磔刑など劇的な主題は大振りな作品が似合うが、「村祭り」(ティルボルフ)など庶民を描いた作品は小振が似合う。もちろん今回展示されているルーベンス「聖ベネディクトゥスの奇跡」はドラクロアの模写とも比べられて紹介されており圧巻である。
北方フランドルというと、ヤン・ファン・エイクやメムリンクの作品も見たいが多くはベルギー西部の教会などにあることも多く、王立美術館が主展示場ではない。北方フランドルは現地に足を運び、マグリットまで近代を楽しむなら王立美術館へと贅沢な旅をまたしたいものである。そして今回は絵画だけであったが、王立美術館は現代デザインの優れた宝庫であることも紹介して欲しかった。(冒頭は「イカロスの墜落」)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする