善き人のためのソナタ
ベルリンの壁が崩れて17年。壁が成立と崩壊の悲喜こもごもを描いた作品は少なくなく、スリルにあふれた「トンネル」、コミカルな「グッバイ・レーニン」などあるが、壁が崩れる前の東ドイツの姿を描いた作品はまだ出てきていない。ヘルマー・サンダース・ブラームスの「林檎の樹」は秀作であるが、東ドイツの政治体制や人々の暮らしを描いた(描いてはいるが林檎果樹園しか産業のない田舎である)ものではない。そして強固な監視体制国家を築いた東ドイツの姿を正面から描いた初めての作品が本作と言える。
全国民の恐るべき相互監視体制を支えたのがドイツ国家保安省(シュタージ)。家族をも密告者にし、反体制的言動を徹底的に収集、弾圧していく。そして国家が個人の家を盗聴、24時間監視。特に反体制的ではなかった劇作家のドライマンと恋人クリスタ。美しいクリスタを我がものにするために国家保安省のヘムプフ大臣はドライマンを監視、反体制的な端緒を掴めと部下に命じる。そこで手柄をたてれば出世できる国家保安省文化部長とヴィースラー大尉。
国家に疑いを持たず、シュタージの任務を冷徹にこなしてきたヴィースラーはドライマンの監視を続けるうちにドライマンとクリスタの愛、彼らを取り巻く自由や解放への渇望、豊かな感情表現などに感化され、次第に彼らを守る側になってゆき。それはそうだろう、監視されていることに気づかないドライマンとクリスタは愛の交歓も隠し立てなく、それに引き替え監視する側のヴィースラーは寒々としたアパートに帰り、質素な食事を続ける毎日。自己の監視業務が出世につながるとはいえ、国家の危機とは何の関係もない二人の監視理由は大臣がクリスタを手に入れたいという極めて個人的な動機、権力をカサに着た腐敗の極地であることもわかっている。
結局東側の窒息した社会を西側に告発しようとしたドライマンを密告したクリスタは死に、作戦に失敗した咎を受けヴィースラーは郵便物を開封するだけの作業所に左遷される。
壁崩壊、東西ドイツ統一後、自分が監視され、同時に救ってくれたヴィースラーの存在を知ったドライマンは執筆で彼に報いる。今や一介の郵便配達人となったヴィースラーに。
このドラマがすぐれているのは登場人物の人間くささがきちんと描かれていると思うから。腐敗した大臣、出世のためなら腐敗も見ない、およそ国家のために尽くしているとは言いがたい文化部長、血も涙もないと見えた権力の忠実な歯車であったシュタージの典型、ヴィースラー。監視される側も理想主義者でありながら国家とはうまくつき合っていこうとするドライマン、現実主義者でありながらどこか愛の力を信じるクリスタなど。その人間くささは「グッバイ・レーニン」などで描かれたコミカルな人間とも違う、DDR(東ドイツ国家)がなしたであろう実態、それは監視社会、密告社会の貫徹した「個」を抹殺する社会、の実像をあますところなく伝えているのではないか。そしてそれを完遂させたのが紛れもなく一人一人の人間であったということを。
ソ連崩壊に代表されるように敗北した共産主義、反民主主義=全体主義国家ゆえのなせる態と言うなかれ。監視社会は現在資本主義国、自由主義陣営の中で蔓延している。ロンドンは監視カメラだらけ。アメリカでは違う人種や階層の人間は入ることさえできないゲイティッド・コミュニティが増えている。そして日本。国民総背番号制をにらんだ住基ネット、国会で成立の攻防が厳しい共謀罪、対象職種を狭めたため成立間近のゲートキーパー法。いやすでに自衛隊官舎にビラを入れただけで逮捕、有罪になったり、公衆トイレに落書きをしたら本起訴までされる現在(ビラの内容や落書きが時の権力の政策に反対する内容であるときだけ刑事法が適用される恣意性)、表現の自由は危機に陥っていると言って過言ではない。安倍官房副長官(当時)が放送内容に介入したのが明らかであるのに、NHKと制作会社にだけ損害賠償を求めた先の東京地裁判決と言い、自由な言論が封殺されているのが日本の姿なのである。
シュタージ=DDRの闇は遠い国の出来事でもなければ、人類の過去の過ちでもない。今ここにある闇なのである。
ベルリンの壁が崩れて17年。壁が成立と崩壊の悲喜こもごもを描いた作品は少なくなく、スリルにあふれた「トンネル」、コミカルな「グッバイ・レーニン」などあるが、壁が崩れる前の東ドイツの姿を描いた作品はまだ出てきていない。ヘルマー・サンダース・ブラームスの「林檎の樹」は秀作であるが、東ドイツの政治体制や人々の暮らしを描いた(描いてはいるが林檎果樹園しか産業のない田舎である)ものではない。そして強固な監視体制国家を築いた東ドイツの姿を正面から描いた初めての作品が本作と言える。
全国民の恐るべき相互監視体制を支えたのがドイツ国家保安省(シュタージ)。家族をも密告者にし、反体制的言動を徹底的に収集、弾圧していく。そして国家が個人の家を盗聴、24時間監視。特に反体制的ではなかった劇作家のドライマンと恋人クリスタ。美しいクリスタを我がものにするために国家保安省のヘムプフ大臣はドライマンを監視、反体制的な端緒を掴めと部下に命じる。そこで手柄をたてれば出世できる国家保安省文化部長とヴィースラー大尉。
国家に疑いを持たず、シュタージの任務を冷徹にこなしてきたヴィースラーはドライマンの監視を続けるうちにドライマンとクリスタの愛、彼らを取り巻く自由や解放への渇望、豊かな感情表現などに感化され、次第に彼らを守る側になってゆき。それはそうだろう、監視されていることに気づかないドライマンとクリスタは愛の交歓も隠し立てなく、それに引き替え監視する側のヴィースラーは寒々としたアパートに帰り、質素な食事を続ける毎日。自己の監視業務が出世につながるとはいえ、国家の危機とは何の関係もない二人の監視理由は大臣がクリスタを手に入れたいという極めて個人的な動機、権力をカサに着た腐敗の極地であることもわかっている。
結局東側の窒息した社会を西側に告発しようとしたドライマンを密告したクリスタは死に、作戦に失敗した咎を受けヴィースラーは郵便物を開封するだけの作業所に左遷される。
壁崩壊、東西ドイツ統一後、自分が監視され、同時に救ってくれたヴィースラーの存在を知ったドライマンは執筆で彼に報いる。今や一介の郵便配達人となったヴィースラーに。
このドラマがすぐれているのは登場人物の人間くささがきちんと描かれていると思うから。腐敗した大臣、出世のためなら腐敗も見ない、およそ国家のために尽くしているとは言いがたい文化部長、血も涙もないと見えた権力の忠実な歯車であったシュタージの典型、ヴィースラー。監視される側も理想主義者でありながら国家とはうまくつき合っていこうとするドライマン、現実主義者でありながらどこか愛の力を信じるクリスタなど。その人間くささは「グッバイ・レーニン」などで描かれたコミカルな人間とも違う、DDR(東ドイツ国家)がなしたであろう実態、それは監視社会、密告社会の貫徹した「個」を抹殺する社会、の実像をあますところなく伝えているのではないか。そしてそれを完遂させたのが紛れもなく一人一人の人間であったということを。
ソ連崩壊に代表されるように敗北した共産主義、反民主主義=全体主義国家ゆえのなせる態と言うなかれ。監視社会は現在資本主義国、自由主義陣営の中で蔓延している。ロンドンは監視カメラだらけ。アメリカでは違う人種や階層の人間は入ることさえできないゲイティッド・コミュニティが増えている。そして日本。国民総背番号制をにらんだ住基ネット、国会で成立の攻防が厳しい共謀罪、対象職種を狭めたため成立間近のゲートキーパー法。いやすでに自衛隊官舎にビラを入れただけで逮捕、有罪になったり、公衆トイレに落書きをしたら本起訴までされる現在(ビラの内容や落書きが時の権力の政策に反対する内容であるときだけ刑事法が適用される恣意性)、表現の自由は危機に陥っていると言って過言ではない。安倍官房副長官(当時)が放送内容に介入したのが明らかであるのに、NHKと制作会社にだけ損害賠償を求めた先の東京地裁判決と言い、自由な言論が封殺されているのが日本の姿なのである。
シュタージ=DDRの闇は遠い国の出来事でもなければ、人類の過去の過ちでもない。今ここにある闇なのである。