kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

遠い国の出来事ではない監視社会の闇  善き人のためのソナタ

2007-02-24 | 映画
善き人のためのソナタ

 ベルリンの壁が崩れて17年。壁が成立と崩壊の悲喜こもごもを描いた作品は少なくなく、スリルにあふれた「トンネル」、コミカルな「グッバイ・レーニン」などあるが、壁が崩れる前の東ドイツの姿を描いた作品はまだ出てきていない。ヘルマー・サンダース・ブラームスの「林檎の樹」は秀作であるが、東ドイツの政治体制や人々の暮らしを描いた(描いてはいるが林檎果樹園しか産業のない田舎である)ものではない。そして強固な監視体制国家を築いた東ドイツの姿を正面から描いた初めての作品が本作と言える。
 全国民の恐るべき相互監視体制を支えたのがドイツ国家保安省(シュタージ)。家族をも密告者にし、反体制的言動を徹底的に収集、弾圧していく。そして国家が個人の家を盗聴、24時間監視。特に反体制的ではなかった劇作家のドライマンと恋人クリスタ。美しいクリスタを我がものにするために国家保安省のヘムプフ大臣はドライマンを監視、反体制的な端緒を掴めと部下に命じる。そこで手柄をたてれば出世できる国家保安省文化部長とヴィースラー大尉。
 国家に疑いを持たず、シュタージの任務を冷徹にこなしてきたヴィースラーはドライマンの監視を続けるうちにドライマンとクリスタの愛、彼らを取り巻く自由や解放への渇望、豊かな感情表現などに感化され、次第に彼らを守る側になってゆき。それはそうだろう、監視されていることに気づかないドライマンとクリスタは愛の交歓も隠し立てなく、それに引き替え監視する側のヴィースラーは寒々としたアパートに帰り、質素な食事を続ける毎日。自己の監視業務が出世につながるとはいえ、国家の危機とは何の関係もない二人の監視理由は大臣がクリスタを手に入れたいという極めて個人的な動機、権力をカサに着た腐敗の極地であることもわかっている。
 結局東側の窒息した社会を西側に告発しようとしたドライマンを密告したクリスタは死に、作戦に失敗した咎を受けヴィースラーは郵便物を開封するだけの作業所に左遷される。
壁崩壊、東西ドイツ統一後、自分が監視され、同時に救ってくれたヴィースラーの存在を知ったドライマンは執筆で彼に報いる。今や一介の郵便配達人となったヴィースラーに。
 このドラマがすぐれているのは登場人物の人間くささがきちんと描かれていると思うから。腐敗した大臣、出世のためなら腐敗も見ない、およそ国家のために尽くしているとは言いがたい文化部長、血も涙もないと見えた権力の忠実な歯車であったシュタージの典型、ヴィースラー。監視される側も理想主義者でありながら国家とはうまくつき合っていこうとするドライマン、現実主義者でありながらどこか愛の力を信じるクリスタなど。その人間くささは「グッバイ・レーニン」などで描かれたコミカルな人間とも違う、DDR(東ドイツ国家)がなしたであろう実態、それは監視社会、密告社会の貫徹した「個」を抹殺する社会、の実像をあますところなく伝えているのではないか。そしてそれを完遂させたのが紛れもなく一人一人の人間であったということを。
 ソ連崩壊に代表されるように敗北した共産主義、反民主主義=全体主義国家ゆえのなせる態と言うなかれ。監視社会は現在資本主義国、自由主義陣営の中で蔓延している。ロンドンは監視カメラだらけ。アメリカでは違う人種や階層の人間は入ることさえできないゲイティッド・コミュニティが増えている。そして日本。国民総背番号制をにらんだ住基ネット、国会で成立の攻防が厳しい共謀罪、対象職種を狭めたため成立間近のゲートキーパー法。いやすでに自衛隊官舎にビラを入れただけで逮捕、有罪になったり、公衆トイレに落書きをしたら本起訴までされる現在(ビラの内容や落書きが時の権力の政策に反対する内容であるときだけ刑事法が適用される恣意性)、表現の自由は危機に陥っていると言って過言ではない。安倍官房副長官(当時)が放送内容に介入したのが明らかであるのに、NHKと制作会社にだけ損害賠償を求めた先の東京地裁判決と言い、自由な言論が封殺されているのが日本の姿なのである。
 シュタージ=DDRの闇は遠い国の出来事でもなければ、人類の過去の過ちでもない。今ここにある闇なのである。
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

パリ美術巡り2 ルーヴル美術館2

2007-02-08 | 美術
その作品の前で動けなくなり、見とれて、見疲れて、いや、作品の側からきちんと見ろみたいに感じる作品は多くはない。それは多くの名画、名作であるからというこちら側の刷り込みもあるだろうし、その時の自分の気持ち、美術館の展示の仕方、観客の多寡など多くの要素があると思う。けれど、これまでクリスチャンでもない自分が涙を流し、知らないうちに跪いていたサン・ピエトロ寺院はミケランジェロのピエタ像、その部分だけ有料で、単なる教会の一角にすぎない場所に安置されていた、訪れたのが遅く閉館(4時)まで長い時間がなかったことを惜しんだゲントの聖バーフ大聖堂はヤン・ファン・エイクの「神秘の子羊」は別格だった。
 そして「岩窟の聖母」。ルーヴルは人が多い。実は今回ルーヴルには旅行期間中3回訪れたのだが、最初は来館者がとても多く作品に近づくこともおぼつかなかった。それでちゃんと見られていなかったのだが、ダ・ヴィンチの作品は「聖アンナと聖母子」、「ヨハネ像」とともに並んでいた「岩窟の聖母」。
 ダ・ヴィンチの技術については今更私が述べるまでもない。完璧なスフマート、ラファエッロのような、言わば、つくったような慈悲の笑みではなくとまどいもありながらの深い微笑をたたえるマリア像。完璧である。大げさだけれども、このマリアをあるいはヨハネを見て、許しを乞わない人などいるのだろうかというほど、慈愛に満ちている。ただ、慈愛とはキリスト教の専売特許ではない。というのいうことの証明がこの「岩窟の聖母」なのである。
 聖書には詳しくはないが、キリストの生涯は、その死、復活、昇天まで語られることは多いが、実はマリアはどうなったのか定かではないそうである。それが、画題として好まれる逆の理由かもしれないが。映画ダ・ヴィンチ・コードの影響でマグラダのマリアにスポットが当たっているが、マリアの次にキリスト教絵画の女性題材といえばマグラダのマリアであろう。近世画家の多くが描いている、レンブラントも、ムリーリョも、エル・グレコも描いているキリスト降架のそばで泣き崩れているのはマグラダのマリアではあるが、母マリアの二の次である。
 聖母子を一番美しく、慈悲深く描いたのはラファエッロと言われるが、岩窟の聖母をみてほしい。慈悲だけではない、ダ・ヴィンチの描くマリアには憂いがあるのだ。そう、慈悲と憂い。スフマートならではと言ってしまえばそれまでだが、あふれるほどの慈悲の笑みに翳る憂い。大物であるイエス(開祖者だから当然だ)を無原罪で産み落としたマリアの気高さを絵画で表してきた例は数知れない。が、これほどまでに無原罪を含みつつ、慈悲を描いたのはダ・ヴィンチだけではないか。そう、キリスト教絵画は基本的に主題ごとなので、キリスト磔刑や東方三博士の礼拝など個別的な画題が圧倒的だ。前近代の祭壇画は主題ごとにパネル展示しているが、一枚の絵でさまざまな画題を組み合わせたモノは少ないのではないか(中世教会絵画でたくさんあるがもちろん平板で技術的には低い)。そしてそれに成功したモノはなおさら。さらに慈悲を受けるイエスとヨハネの表情もおよそ幼子でないところがまたいい。
 岩窟の聖母は、一枚の絵でマリアの幼子イエスに対する思い、イエスのその後の大成、そのイエスに洗礼するヨハネとすべての要素が美しく、そして大げさでなく描かれている。数学者、物理学者であったダ・ヴィンチはバランスという点からも完璧な構図で描いて魅せ、そして先述のスフマートの曖昧な魅力。
 2回目に訪れた岩窟の聖母には人影なし。動けなかったのか、動きたくなかったのか。じっくり付き合うことのできた至福の時間であった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

捜査の可視化が必要   それでもボクはやってない

2007-02-04 | 映画
 留置場に入ったこともなければ拘置所に入ったこともないので、正確なところはわからないが、周防正行の描くリアリズムに正直恐れ入った。そして法廷の雰囲気、裁判官の表情。ああ、こんなのだろうな裁判というのは。
 警察は一度容疑者を捕らえると、その人が真犯人と裁判で決しようがいまいが他の容疑者を捜そうとはしない。たとえその容疑者が完全否認していたとしても。現在実際の裁判で冤罪の疑いの濃い事件が続出しているが(たとえば恵庭事件(最高裁で女性被告人の刑が確定)、東住吉事件(上告中)など)、最近でも北陸の強姦事件で真犯人が判明し、服役しすでに出所していた冤罪被害者に警察が謝罪したばかりである。
 そして確定判決が出るまでは「推定無罪」の原則は無きに等しいのが刑事裁判の現況である。検察官は警察の誤認逮捕だと疑わないし、検察官が起訴すれば裁判官も有罪を疑わないように見える。被告人を有罪とするためには「検察官が合理的な疑いをはさむ余地が全くないまで立証に成功した場合」だけなのだが、実際には弁護人側が無罪の立証を完全に成し遂げなければ有罪というのが周防監督のプロダクションノートにある。なるほど私たち一般的に犯罪の加害も被害も関係のない身なら、逮捕いや事情聴取イコール有罪というメディアの報道に慣らされ、警察が犯人でもない人を捕まえるわけがない、裁判所が無実の人を刑務所に送ったり、死刑にしたりするはずがないと思いがちである。しかし、財田川事件、免田事件をはじめ死刑囚の再審無罪はあるし、周防監督が本作をつくる動機となった痴漢冤罪の事件は実際にある。そして、仮にその人の犯行であっても、捜査などに違法があれば(自白の強要など)、無罪というのが刑事裁判の原則であるのだが。
 そう、「十人の真犯人を逃すとも、一人の無辜を罰するなかれ」なのである。
 ところで、裁判官が検察官の起訴してきた事件を無罪にできないのは、検察官も所詮司法試験を通ってきた仲間であるから疑わないからであると説明されることがある。そういった面もあるかもしれないが、やはり映画で役所広司演じる元裁判官の弁護士荒川正義が語るように、(司法行政)官僚機構の中で無罪を出すと飛ばされる危険があるからだろう。これは日本裁判官ネットワークの裁判官らが指摘するところでもあるし、刑事裁判に限らず民事事件でも行政の非を認める判決(公害や行政の立法不作為、国家賠償など)を書いた裁判官はその後日の目を見ることがないと言われる所以である。ただ、そこは考えようで、仙台地裁時代、盗聴法を問う市民集会で「所長にパネリストとして参加するな旨言われたのでパネリストは辞退するが、盗聴法には反対」との要旨を会場から発言しただけで「裁判官の積極的な政治運動」に問われ、戒告処分を受けた寺西和史判事補(当時)も著書で述べているように裁判官は必要以上、実際以上に萎縮している面があると思う。
 メディアへの投書などを積極的にする寺西さんは無事再任されたし(現在は判事)、保釈や勾留場所の指定について憲法、刑事訴訟法にのっとって被疑者、被告人の権利を認める決定をしてきた寺西さんが異質なのではなく、被疑者、被告人の権利を法律以上に厳しく制限しようとする多くの裁判官こそ異様なのであろう。そして、聞くところによると大阪地方裁判所ではある判事の保釈に関する論文が法律雑誌に載った後、裁判官が保釈を認める傾向が強くなったらしく、これこそ「裁判官の独立」に関してクエスチョンマークをつけざるを得ない。
 とまれ、裁判員制度が2年後に始まり、一般市民が刑事裁判に参加し、有罪無罪どころか、被告人の量刑まで決めるという重大な責を負うことになるが、裁判員が真実を発見するためにも、映画で描かれたような捜査段階での恣意的な調書作成、被害者誘導などを許さないよう「捜査の可視化」が望まれるところである。
 最後に真面目な法廷映画であるが、十分にエンターテイメントであることを紹介しておく。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする