kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

自分史から歴史への展望   愛を読むひと

2009-06-28 | 映画
ヨーロッパの街が好もしいのはトラム(路面電車)が走っていることである。しかしロンドンやパリほどの大都会になると走っていない(厳密に言うとパリにも路面電車はあるが、郊外で観光客が載る機会はない)。しかし両都市と並ぶ巨大都市のベルリンでは、旧東ベルリン地区で今も市民の足となっている。路面電車はいい。街の雰囲気も人の流れもゆっくりと見られる。
ケイト・ウィンスレット演じるハンナは路面電車の車掌である。残念ながら路面電車は本作の重要なモチーフではない。むしろ驚いたのは、ハンナが非識字者であっても車掌の仕事につくことはできたということだ。よく働くハンナは事務職に昇格すると聞いて逃げ出す。同時にマイケルの前からも。
10年以上前に読んだベルンハルト・シュリンクの原作「朗読者」は、非識字者のハンナがナチスの元親衛隊でユダヤ人虐殺に関わっていたこと、そしてマイケル(名前は忘れていたが、ドイツ人で「マイケル」に違和感はあるが)にとって痛い、いや、読む者にとって痛い物語であったこと以外は正直なところあまり覚えていない。
大上段に論ずるなら戦争責任は誰にあるのか?が問われていて、同時にファシズムは降りかかってきたものなのか?主体的に担っている人がいるからファシズムたり得たのか?が問われている。
映画はむしろ、少年の恋とその喪失故のトラウマ、そのトラウマを凌ぐほどの厳しい現実と事実にスポットをあて、マイケルがそのトラウマのつき合い方と解消を娘に過去を話すことで希望の未来を描くことで終わっている。原作にはないシーンである。
「朗読者」に愛がなかったとは言わない。しかし、少年期の「愛」とは、初めてセックスをした相手に抱くそれに投影されがちであることは容易に想像できる。年齢を経、セックス経験も豊富になればそれが「愛」に直結することは少ないかもしれないが、では「愛」とは何か? むしろマイケルの「愛」は、ハンナと濃厚な時間を過ごした時ではなく、収監されたハンナに「朗読者」に徹し、テープを送ることでハンナを理解、その思いを伝えようとしたことが自体が「愛」なのではあるまいか。
ドイツにおけるナチの戦争犯罪に対する追及は、映画で描かれているように裁判を通じてその清算が続いている。問題はヒムラーやアイヒマンなどの大物ではなく圧倒的多数である無知、あるいは貧しさ故のナチ加担者の処遇である。ハンナは自己の戦争犯罪よりも(それを「戦争犯罪」と論理的な言葉として認識してはいない。)、ただ、自分ら看守が上からの指示のみに動いていたあげく教会爆撃=炎上で300人のユダヤ人が亡くなったこと、に対する(人道的)感傷からか教会に参集した時に涙する本源的な感情の発露を現している。しかし、ハンナは裁判長に問う「あなたならどうしますか?」。
そう「あなたならどうしますか?」があまりにも問われてこなかったのだ。ナチの時代のドイツ人に留まらない。日本でもそうである。「一億総懺悔」と思わされた根本原因としての「本土玉砕」を思っていた(ふりをしていた)あなたはどうなのですか? ということである。
マイケルはハンナとの「愛」、それ故の自己のその後の人生の“非”順風満帆性、を自己総括するがために戦争と向き合うということを選んだことが大切で、実はそれで幸せになる人はそんなに多くない。
戦争は歴史ではなく自分の個人史と繋がっていること。であるからこそ、個人史から歴史への想像力が広がる契機としての「朗読者」であり続けること。それはマイケルではない。加害も被害も戦争を経験した国あるいは地域の一人ひとりとして考え続けなければならない試練なのだ。
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和解には時間と犠牲が必要である  そして、私たちは愛に帰る

2009-06-27 | 映画
神は、山腹で息子を犠牲にするよう命じることで、アブラハムの信仰を試すことにした。そして、〈神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。(「創世記」22:9ー12)

アブラハムの信仰の崇高性が問われる緊迫のシーンである。絵画ではアルテピナコテークにあるレンブラントのそれが有名で、筆者もアルテにあるレンブラントのキリスト教をめぐる連作には感動したものだ。
イサクの犠牲。本家は信仰の篤さが問われる主題であるが、本作では親の子に対する愛、そして子の親に対する愛が、いかに説明しがたく、率直になれないものかをも表している。
トルコ移民のアリはブレーメンで年金暮らし。同じくトルコ移民の娼婦であるイェテルと一緒に暮らし始めるが、大学教授となった息子ネジャットにそんな父が疎ましい。イェテルの娘アイテンはイスタンブールで反政府活動に従事し、逃れて不法入国でハンブルクに至る。イエテンに惹かれ匿うドイツ人学生ロッテは母スザンヌと暮らす。ドイツへの政治亡命を申請するイエテンとスザンヌは諍う。
スザンヌ「(トルコの人権迫害状況も)EUに入れば状況が変わるわ」
イエテン「EUなんて信じられない。EUなんて、クソくらえ!」
スザンヌ「そんな言葉はやめて。自分の家じゃないのよ」
トルコに強制送還されたイエテンを助けようとイスタンブールに行くロッテは、命を落とし、イェテルを殴り殺してしまったアリは受刑後、トルコに強制送還される。イェテルへの償いから、娘を捜しにイスタンブールに来たネジャットはロッテに部屋を貸すことになり…。

複層的なストーリー展開はオムニバスではないけれど、すべてがつながり、最後は監督の意図する親子の和解へ。とはいってもネジャットとアリが和解したかどうかまでは描かれていない。
親子の和解物語と記したが、移民の問題、ドイツとトルコの壁(それはおそらく230万人という日本では考えられないくらいのトルコ移民を抱えているドイツ特有の問題)、イスラムではない西洋社会に根付いたゆえに見えるトルコ移民であってさまざまな因習にとらわれる移民社会の問題など数多く描いていて、和解の物語如何よりそういった一人ひとりの背景に重きを置いた描き方になっているのが、目を離せない逸品になっているように思える。
イェテルの娼婦業を咎めるトルコ移民、アリの下品な話題、あげくは「人殺し」にに堕してしまった父にうんざりする知識人のネジャット、イエテルを追いかけ、大学も放り出した娘に「自分で勝手にしなさい」と突き放すスザンヌ。誰もが、理解不能の親あるいは子を抱えている。でもそのうんざりの向こうにある愛は、失って始めて気づくもの。アリの無教養に教養主義で反抗するネジャットも、スザンヌの合理主義に感性で突き走るロッテも、母を本当は知らない理想主義のイエテルも自分が今あるのは親があるからだともわかっている。だからときに人種、宗教、性を越えて連帯の渇望に目覚めるのだ。
EUに入ったらトルコの人権状況が改善するなんて夢想が現実化しないことなどスザンヌも分かっている。だからこそ、今ある過程こそが大切なのだ。イエテンのために銃を運んだロッテはイスタンブールの下町で突発的な出来事で悪ガキに射殺されてしまうが、スザンヌの奔走で本来なら15年も20年も出獄できないはずのイエテンは牢を出ることができる。そう、イスラムのトルコはEUに入らたんがため、ここ何年も死刑を執行していない。
愛はどこにある? 移民の中にも、ドイツネイティブの人の中にも。ただ、それを表すには時間と犠牲が必要であったのだ。悲しいけれど「和解」のために通るまわりくどく、遠い道のりだったのだ。

そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が「はい」と答えると、御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」)(前同)
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思い出しシリーズ  アルテミジア

2009-06-18 | 映画
フェミニズム映画の成功
    アルテミジアの時代から

 ユーディットは、旧約聖書に出てくるユダヤ民族の愛国の女傑であり、古代近東における抑圧者に対するユダヤ民族の戦いの象徴だそうだ。そのユーディットが、イスラエルの敵陣アッシリアの将軍の首を切り落とす構図がアルテミジアの秀作「ユーディット」である。
 敵軍の将軍の首を切り落とすに際しユーディットは、策を弄した。敵軍ホロフェルネスにユダヤ人征服の策略をもちかけ、その美貌の虜となったホロフェルネスと二人きりとなった時を狙い、ホロフェルネスが酔いつぶれたときに一気に首を切り落とす。そして事件が発覚する前に急ぎ自陣に戻り、事件を知ったアッシリア軍は混乱に陥り、イスラエル軍に追撃され逃走してしまったというのだ。
 アルテミジア・ジェンティレスキは、17世紀の画家で、映画「アルテミジア」は、そのいわば彼女の青春期の大きな事件を中心にアルテミジアが父の娘としてではなくて一人の画家として踏み出すあたりを描いている。
 アルテミジアの父、オラーツィオ・ジェンティレスキは16世紀末のすぐれた画家であり、ローマの天才画家カラヴァッチオの強い影響を受けたと言われる。当時の画家とは家内工業であり、娘も自営業を手伝わせる感覚で手伝わせたにすぎない。家事労働と生殖以外に仕事を与えられなかった当時の女性としては幸運であったと言えるだろう。ところが、他の男の兄弟をさしおいてアルテミジアの画才は早くからその非凡さを発揮していた。その才能も父の娘の範囲内で終われば問題ない。しかし、アルテミジアを自身のライバルであるアゴスティ-ノに弟子入りさせたため、二人を引き裂く結果となる。
 17歳の当時男性を知らなかったアルテミジアは自分の知らない科学的な画法を教えてくれる師匠、アゴスティ-ノに惹かれ、アゴスティ-ノは自分を越える才能を発揮するアルテミジアに惹かれる。処女であったアルテミジアがアゴスティ-ノの、男「性」の虜になるのには時間はかからなかった。しかし、二人の「純愛」を父オラーツィオは許さなかった。アゴスティ-ノを娘を強姦した罪で訴えたのである。当時のイタリアの結婚観、女性観といったのものはとても封建主義的だったことが伺われる。未婚の女性に「手を出した」アゴスティ-ノは、結婚することで責任をとるという形をとることもできた。しかし、彼にはフィレンツェに残してきた妻がいた。また、彼はフィレンツェでは妻の妹に「手を出す」など、性的にだらしないと暴露される。一方、アルテミジアも幼友達をモデルにして、男性の裸体をたくさん描いていたことがばらされ、これまた淫蕩のレッテルをはられる。
 アゴスティ-ノは懲役刑を受け、アルテミジアは父によって裂かれた二人の愛情と画家としての師弟関係をあきらめ、独りの画家として自立する決意をする。

 アルテミジアがアゴスティ-ノとの愛情と性欲の関係の中で画家として大きな飛躍をなしたことは疑いがない。すなわち、より力強い肉体の描写、迫力の形相など。父の下で基礎を学び、アゴスティ-ノに技法を学んだアルテミジアは、独り立ちした後多くの大作を描く。アゴスティ-ノと別れた後にも描かれた「ユーディットとホロフェルネス」は見る者を圧倒する。このユーディットはアルテミジア自身であるからだ。ダヴィデとともにイスラエルの民衆を救った女性の英雄、ユーディットのほかにもアルテミジアは数々の歴史上の女性を描いている。ヴィーナス、クレオパトラなど。つまり、アルテミジアの描く女性は自立し、その当時の社会のなかで何事にも媚びることなく屹立しているように見える。そうアルテミジアの描く女性はすべて強靱そのもので、アルテミジア自身がそうあったからだ。西洋美術史の中で初めて成功したすぐれた女性画家たる所以がそこにはある。

 アルテミジアの評価ではなく映画の話に戻そう。女性監督アニエス・メルレの映像はフェミニズムの視点が色濃い。17世紀当時のローマ、女性は男の裸を見てはいけない(男性画家のモデルには全裸の女性がどんどん使われるのに)、女性はアカデミー(美術学校)には入学できない、自分で恋人や夫を選ぶことはできない。女性にとってできないづくしの社会でアルテミジアはどう描かれていたか。
 こんなシーンがあった。壁画やフレスコ画などの大作に女性のモデルを使うのだが、下働きの者が素っ裸の女性を引き連れてくる。アゴスティ-ノ「痩せすぎだ。いらん」。また別の女性を引っ張ってくる。これも全裸のまま。連れてきてから着衣を脱がせるわけではない。モデルはモノなのだ。モデルになるような女性はモノなのだ。
 また別のシーン。アゴスティ-ノを裁く法廷でアルテミジアは「性交はしていない。私は処女だ」と証言する。すると、法廷を簡単なカーテンで仕切っただけの一角でアルテミジアはベッドに開脚姿勢で寝かせられる。かなり年輩の修道女たちによる処女調べだ。ここでも女性はモノだ。当時の人権感覚からすると女性だけがこのような屈辱的な扱いを受けていたかどうかはわからないが、封建主義とは女性をモノ視することであることを語っている。 
 愛情も性欲も自ら獲得し、自身の芸術活動に昇華させていったアルテミジアをふたたび「できないづくし」の枠に押し込めようとしたのは、外ならぬ封建主義の象徴である自分の父親であった。しかし、恋人を失うと同時に父との縁も切るアルテミジアはその後成功する。女性が「父の娘」であるかぎり、自立はできない。自らの道は自ら選び取るものであること、そこには現実の社会からは非難されるような内容も含まれることも。
 アニエス・メルレの映像は社会告発という形によらずとも、当時の社会の実相=キリスト教世界観に本源的に内包する女性蔑視、を描くことでフェミニズム映画として十分成功している。
 同じヨーロッパ封建主義世界を描いても、男性の手によるものならばフェミニズム映画としては成功しがたい。大歴史絵巻の中の人物像か、ただ一組の男女のスーパー恋愛(または悲恋)物語に終始してしまうような気がするのだが言い過ぎだろうか。
 
参考文献 若桑みどり『女性画家列伝』岩波新書
     ジェイムズ・ホール『西洋美術解読事典』河出書房新社
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強いられる死  自殺者三万人超の実相   斎藤貴男著(角川学芸出版)

2009-06-03 | 書籍
年間自殺者が3万人を越えたのが1998(平成10)年。それから3万人を割ることは決してなく今日に至っている。新自由主義の競争社会が何をもたらしかを鋭く切り込んできた斎藤さんをして「仕事を引き受けたことでこれほど後悔したことはなかった」(あとがき)と言わしめるほどしんどいテーマだった自死。
この国は自殺は美しいという文化がまだ残っていて、その美意識の集結としてこれほどの人が自ら命を絶つのか、などというのんきなお話ではない。新井将敬氏や伊丹十三氏が前者の「美しい自死」であると考えていたとしたら、現実ははるかに名もなく痛みも口に出せず自ら消えていくという形の自死なのだ(もちろん、新井氏も伊丹氏も苦しみ、追い込まれたのであろうが)。
私事になるが、職場で何人かを自殺で失った。一人は顔見知りで簡単な話なら何回かしたこともある人で、職場復帰まで間もなくという直前の悲報だった。休職期間が切れる直前に人事担当者などから「本当に大丈夫か? 退職という道もある」などとプレッシャーをかけられたためではないかとの情報もあったが本当のところは分からない。言えるのは、「休む」ことと「休んだ」後のフォローがない職場という怪物が個人を押し殺したかもしれないということ。
斎藤さんの本書に出てくる例はすべて「かもしれない」ではなく「殺された」のである。超過密労働、パワハラ、民営化にともなう攻撃、多重債務、経営者そして自衛隊。そのどれもが自分と遠い世界ではないと気づかせる十分な、いつもながらの斎藤さんの丁寧な聞き書き、取材である。
そして今や自死のために他者に凶刃を振るう時代(池田小学校事件、土浦事件、秋葉原事件、難波ネットカフェ事件など)。すさまじく苦しい現状の打開策が暴発・爆発という形が自死であると、他者殺であろうと悲しく絶望の上塗りでしかない。
本書の最後に斎藤さんは派遣切りを修正したキャノンを例に取り、絶望のそのあともあると語っているが、現実は厳しいことに変わりない。
しかし知らない、見ない振りをするくらいなら見て、知って、考え、そしてあわよくば行動したほうがいい。家族の、隣の人が突然いなくなることはつらい。
コメント (2)
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