ヨーロッパでは公務員がストをして、地下鉄・バスが止まったり、ゴミ収集が滞ったりと日本では考えられないこともままある。市民生活にどれだけ不便があろうと、経済状況に停滞があろうとそういうものだと市民が考えているふしもあるし、あきらめもあるだろう。もちろん救急車や消防車、警察関係はスト参加していないし、そもそも、公務員もストもするものという市民の寛容が羨ましい。かの国はそうかもしれないが、この国では公務員をたたいてナンボの風潮が席巻しているから。
「パリ20区、僕たちのクラス」。原題は「壁の内」だそうで、学校という「壁の内」を描いた物語である。驚くのは本作はドキュメンタリーかと思っていたら、生徒らも素人が演技をしているフィクションだということだ。けれどフィクションであってもその訴える力、現実的迫力ともいうべきものはすごい。そしてうらやましい。
パリ20区というと移民の多い、下層階級の多い地区。在仏ライターの浅野素女さんが20区に住んでいたことがあり、自分の子どもは公立中学に通わせていたが、小学校時代移民差別は反対だとリベラルな態度を示していた同級生の親が、中学は私立を選んでいったということに苦い思いをしたと書いている。浅野さんが経験した公立中学では、授業風景は映画でだいたい描かれたようなものであるし、それ以外に日々様々な問題が押し寄せてきたという。それらはうまく解決したこともあるし、うまくいかなかったこともある。いや、満足、納得のいく解決とはほど遠いことのほうが多かったとも。それら、問題に直面することは結局、いろいろな人種、出自の友だちができた子どもの成長にも役立ったし、パリで暮らしていく術をいろいろ学んだという意味で浅野さん家族のよき経験となったに違いない。しかし、浅野さんのように「違い」を肯定的に受けとめられる人はいいが、浅野さんのお子さんが小学生であった時のクラスメイトの親のように、いざ「違い」が自己(の子ども)の上昇の障害となると考えたときには、それは「違い」ではとどまらず「差別」となって現出する。では、実際、それら「上昇」とは無縁な子どもたちと日々接している教師はどうか。
フランソワは国語教師。「国語」というよりおそらくはフランス語教師であろうが、移民でフランス語もままならない子どもたちに正しいフランス語を教えるその姿からは、彼が、フランス語を愛していること、それを子どもたちに教えることを好きであることがよく分かる。中学生というのに、基本的な文法や単語もままならない子ら。授業は騒がしく、集中とはほど遠い。「先生はゲイか?」などと授業と関係のない質問で中断したり、フランソワに明らかに敵対する生徒。これらすすまない授業で根気よく、切れずにフランス語文法、言葉の大切さを伝えようとするフランソワ。言葉は自己の意思を伝え、相手の言い分に耳を傾ける道具。そして、言葉自体は人を差別しないということを知っているからこそ、将来、フランス人=白人社会の中で言葉で負けないよう、差別されないよう熱心にならざるを得ないことも。
かといって、フランソワは金八先生のような熱血教師ではない。驚き、感心したのは、そのような底辺中学の運営がとても合理的かつ民主的であること。生徒を評価する会議には保護者代表と生徒代表も出席。生徒を退学させる(というのはその中学校を退学させるのであって、転校先の中学の面倒もみる)評決は保護者代表らを含めた投票方式。強制送還されそうな子どものためにカンパを集めたり、教師の一人が妊娠を告げるとシャンパンを開けたり。校長は教員の中では少し官僚的だが、それでも教員を一人の教育者として対等に話し合ったり、生徒の名前を覚えていて尊重した態度をとったり。
そう、ここには日本の中学校でできないことをやろうとしているのだ、なされているのだ。もちろん挫折も多い。それでもドライでやさしく、底辺の子どもらに教える大切さを知っているのだ、それを大事にしているのだ。
日本の中学校でこれはできない。それは一部クレイマー保護者がいるにしても、教師たちの忙しさが問題であるからだ。「報告」「研修」「計画書」。書類に追われ、授業実践や、子ども一人ひとりに目を向ける、どころではない。ましてや、卒・入学式での「日の丸」「君が代」については子どもの自主性をなどと発言すれば、懲戒である。冒頭に、ヨーロッパの公務員はストもすると書いたが、フランスの教員もストをするという。自己の権利を守るために時にはストも辞さない姿勢は子どもらにどう映るであろうか。
大阪府橋下知事は大学進学率の悪い高校、偏差値の低い中学校には予算を減らすと恫喝をかけている。これほどまでに「教育」の意味を知らない首長を持った不幸を嘆く前に、フランソワが実践している教育をかみしめたい。民主主義とは成功しない人々がいることを前提に迷い戻りつつあるものと、フランソワの教育は教えてくれるから。
「パリ20区、僕たちのクラス」。原題は「壁の内」だそうで、学校という「壁の内」を描いた物語である。驚くのは本作はドキュメンタリーかと思っていたら、生徒らも素人が演技をしているフィクションだということだ。けれどフィクションであってもその訴える力、現実的迫力ともいうべきものはすごい。そしてうらやましい。
パリ20区というと移民の多い、下層階級の多い地区。在仏ライターの浅野素女さんが20区に住んでいたことがあり、自分の子どもは公立中学に通わせていたが、小学校時代移民差別は反対だとリベラルな態度を示していた同級生の親が、中学は私立を選んでいったということに苦い思いをしたと書いている。浅野さんが経験した公立中学では、授業風景は映画でだいたい描かれたようなものであるし、それ以外に日々様々な問題が押し寄せてきたという。それらはうまく解決したこともあるし、うまくいかなかったこともある。いや、満足、納得のいく解決とはほど遠いことのほうが多かったとも。それら、問題に直面することは結局、いろいろな人種、出自の友だちができた子どもの成長にも役立ったし、パリで暮らしていく術をいろいろ学んだという意味で浅野さん家族のよき経験となったに違いない。しかし、浅野さんのように「違い」を肯定的に受けとめられる人はいいが、浅野さんのお子さんが小学生であった時のクラスメイトの親のように、いざ「違い」が自己(の子ども)の上昇の障害となると考えたときには、それは「違い」ではとどまらず「差別」となって現出する。では、実際、それら「上昇」とは無縁な子どもたちと日々接している教師はどうか。
フランソワは国語教師。「国語」というよりおそらくはフランス語教師であろうが、移民でフランス語もままならない子どもたちに正しいフランス語を教えるその姿からは、彼が、フランス語を愛していること、それを子どもたちに教えることを好きであることがよく分かる。中学生というのに、基本的な文法や単語もままならない子ら。授業は騒がしく、集中とはほど遠い。「先生はゲイか?」などと授業と関係のない質問で中断したり、フランソワに明らかに敵対する生徒。これらすすまない授業で根気よく、切れずにフランス語文法、言葉の大切さを伝えようとするフランソワ。言葉は自己の意思を伝え、相手の言い分に耳を傾ける道具。そして、言葉自体は人を差別しないということを知っているからこそ、将来、フランス人=白人社会の中で言葉で負けないよう、差別されないよう熱心にならざるを得ないことも。
かといって、フランソワは金八先生のような熱血教師ではない。驚き、感心したのは、そのような底辺中学の運営がとても合理的かつ民主的であること。生徒を評価する会議には保護者代表と生徒代表も出席。生徒を退学させる(というのはその中学校を退学させるのであって、転校先の中学の面倒もみる)評決は保護者代表らを含めた投票方式。強制送還されそうな子どものためにカンパを集めたり、教師の一人が妊娠を告げるとシャンパンを開けたり。校長は教員の中では少し官僚的だが、それでも教員を一人の教育者として対等に話し合ったり、生徒の名前を覚えていて尊重した態度をとったり。
そう、ここには日本の中学校でできないことをやろうとしているのだ、なされているのだ。もちろん挫折も多い。それでもドライでやさしく、底辺の子どもらに教える大切さを知っているのだ、それを大事にしているのだ。
日本の中学校でこれはできない。それは一部クレイマー保護者がいるにしても、教師たちの忙しさが問題であるからだ。「報告」「研修」「計画書」。書類に追われ、授業実践や、子ども一人ひとりに目を向ける、どころではない。ましてや、卒・入学式での「日の丸」「君が代」については子どもの自主性をなどと発言すれば、懲戒である。冒頭に、ヨーロッパの公務員はストもすると書いたが、フランスの教員もストをするという。自己の権利を守るために時にはストも辞さない姿勢は子どもらにどう映るであろうか。
大阪府橋下知事は大学進学率の悪い高校、偏差値の低い中学校には予算を減らすと恫喝をかけている。これほどまでに「教育」の意味を知らない首長を持った不幸を嘆く前に、フランソワが実践している教育をかみしめたい。民主主義とは成功しない人々がいることを前提に迷い戻りつつあるものと、フランソワの教育は教えてくれるから。