kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

参加することで感じる現代アート  神戸ビエンナーレ(2)

2009-10-19 | 美術
海外の美術館でも、日本の美術館でもガイドツアーは滅多に利用しない。それは、ガイドツアーの人たちが邪魔だなあと思うことが多く、ツアーの人たちが見たい作品に群がっていて近づけないということもあったからだ。だから、自分がツアーに参加した場合はできるだけ一般の観覧者の邪魔にならないよう時にはガイドから距離を置いて回るのだ。これが、海外のツアーでよく使用されるような無線を使ってイヤホンから聴くというシステムなら問題ないが、ガイドの地声だけでは聞こえる範囲に制限がある。今回その失敗を体験してしまった。
現代美術は解説がないとコンセプトがよく分からないものも多く、神戸ビエンナーレのディレクターであり、兵庫県立美術館の学芸員である越智裕二郎さんの案内でツアーに参加することにした。しかし、参加申し込みが多く、急遽参加人員を増やしたためか(50人くらいはいたのではないか)、越智さんの解説を聞くどころか、グループが固まって一緒に行動しては他の観客に迷惑になることは明らかであった。だから余計に後ろの方に、グループの団子にならないように、通路を確保できるようにある程度離れてついていったため、ガイドを楽しめる雰囲気ではなかった。やはり、ガイドツアー参加というのはいろいろな意味で難しい。
会期も半ばにさしかかり、少し開幕当初よりお客さんの減った会場で、改めてビエンナーレの目玉であるアート・イン・コテンナをじっくり見ることかできた。ビエンナーレ大賞をとった戸島麻貴の「beyond the sea」は相変わらずの人気で、私たちガイドツアーが入場した頃にはシステムがダウンしていたが、しばらくすると復旧し早くも行列ができていた。「beyond…」は、オーストラリアから運び込んだとてもきめの細かな砂を敷き詰め、そこに映し出されるいろいろな海のイメージがサウンドと共に変化。惹き込まれる作品。その隣のコンテナが前回紹介した伊庭野と藤井の作品。そしてその隣がピオリオの「輪音の森」とこれまた映像を巧みに配置した瞑想的作品。このあたりはいつも行列だが、映像にデジタルに頼らない(厳密に言うと伊庭野・藤井作品はCG計算の粋であるがデジタルではない)作品もみるべきものが。
制作ボランティアをしていたとき「現代美術は結局根気と大工」などと言い放っていたが、段ボール紙を仏像の形に刻み込んだありがたい?「BUTSU」(木堀雄二)、アナログの極地とも言うべき「ワールドカウハウス」(石上和弘)、海外からはコールダーのモビールを思わせる「ShadowWanings」(Hans Schohl)など、面白いものも多い。
ツアーの目玉である乗船しての海上アート見学。神戸在住の榎忠の「伝説のバー ローズ」はバーというよりほとんどラブホテルか飾り窓。ただ本ビエンナーレでもっともビッグネームであろう植松奎二の石を使った作品は、越智さんの設置がどれだけ大変であったかの解説も聞けて、インスタレーションとはいえ巨大系・重量系の苦労がしのばれた。
兵庫県立美術館に着き、招待作家らの「LINK  しなやかな逸脱」展は榎の「RPM-1200」(廃鉄を旋盤で磨き込むときの単位らしい)、被写体になりきる澤田知子、ドローイング系の奥田善巳らの一昔前?の現代芸術もあり、越智さんの解説とともに回れたが、先述のツアーグループがインデペンダントの客を害しかねない場面にも遭遇し、すこし躊躇した。
なにはともあれ、現代芸術は「参加」することも楽しむ大きな方法の一つ。そういった意味では、グリーンアート(コンテナ)展で東京芸大の現役院生であるユニット イピリマ(アイヌの言葉でつぶやきという)の「しおん」は、海底イメージの中からしみ出すかすかな鼓動を楽しむ空間は、ゆっくりそこにいる時間を持ちにくいので、制作する側に少しでも参加できたことがよかったのかも。それこそ現代アートを彩るキーワード アソシエーションの一里塚であったのかもしれない。
(植松奎二「傾くかたち」)
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飛躍する芸術家の登竜門となるか   神戸ビエンナーレ(1)

2009-10-12 | 美術
神戸ビエンナーレは2007年に引き続いて2回目の開催となる。日本で数年に1回開催される芸術展は、横浜トリエンナーレや越後妻有トリエンナーレが有名で、ビエンナーレという2年に1回開催という試みは、震災復興の象徴と位置づける神戸市の野心の現れと見ることもできるであろう。
先輩格の横浜トリエンナーレが総合ディレクター川俣正、招待出品者に蔡國強など超有名アーティストを擁したのに対し、日本を代表する港町として対抗心のある神戸は、若手アーティストの登竜門的エキシヒビションを前面に出しているように見える。今回もそれは如実で、現役の大学院生の作品もある。
実は、神戸ビには、今回もボランティアとして参加していて、制作ボランティアとしてグリーンアートコンテンナのイピリマとメインのアートコンテナで特別賞を受賞したどちらも東京工大出身の伊庭野大輔と藤井亮介のユニットによる「Walk into the Light」を少し手伝った。また会場ボランティアとしても開催中の店番(?)、観客整理などを手伝ったのでその上での感想。
若手アーティストの登竜門と先述したが、なるほど今回入賞すればその後のアーティスト生活に「泊」が付くであろうし、将来神戸ビが世界的アート発信源になった時に神戸ビ出身ということであれば芸術家生活として成功が約束されるかもしれない。
作品をまだすべて見たわけではないので、手伝ったりしたコンテナを中心に。
「Walk into the Light」は、理系出身のユニットらしく、綿密に角度を計算された鏡を何千枚も貼り付けた壁面に光源がきらきらと彷徨う、万華鏡の中に入り込んだような幻想的かつ土ボタルあるいは満天の星空を想起させるコンポジション。なんらかの光を題材にしたインスタレーションはとかく効果音を備えがちであるが、「Walk…」は効果音も一切なしのところがよい。しばし、きらめく無数の点光に見とれてみては。
ビエンナーレ大賞を受賞した戸島麻貴の「beyond the sea」は、「Walk into the Light」の隣にあり、どちらも行列して待たねばならない。「beyond…」は東京藝大先端芸術表現科出身の作者により映像表現の面白さを満喫させてくれる。砂浜のイメージのキャンパス(といっても床に敷き詰めている)に次々と現れるイメージは砂浜というエコロジカルなアナログと、映像が矢継ぎ早に変化するデジタルを同時に経験でき惹き込まれる逸品。
13分のタームというのになかなか出てこない観客もちらほら。じっくり、ゆっくり見とれる作品は、現代芸術のインスタレーション優位の中にあって普遍性や永久性、持続性をも期待させる。(「Walk into the Light」)
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オリエンタリズムに日本人バレエ団の回答     東京バレエ団 「ラ・バヤデール」 

2009-10-05 | 舞台
「ラ・バヤデール」という演目は、オリエンタルであるけれど、その国籍性に違和感もあり、オリエンタリズムが強く出ると余計に距離を感じてしまい、あまり積極的に見たいと思うものではなかった。であるから、今回久しぶりに見に行ったのは、実は演目ではなく、上野水香目当てであった。
ある意味、上野水香のニキヤ役は合っていると思う。というのは、実は、「ラ・バヤデール」を観るのは3回目なのだが、初めて観たベルリン国立バレエ団の公演は遅刻したこともあり、ストーリーをきちんと予習していなかったため、スケールに圧倒されたけれどもバレエの良さを感じるまでには至らなかった(というか、筆者がバレエの面白さに触れるにまだまだ至らなかった)。その時にはニキヤを演じるダンサーの細かいところまで気が回らなかった。
「ラ・バヤデール」とは不思議な演目である。インドが舞台だが、西洋のオリエンタリズム観(マネが「オダリスク」で固定化させ、サイードが喝破した「オリエンタリズム」要素ももちろんある。)がこれでもかと現出するからだ。西洋のオリエタンリズム観には、未視の世界への憧れももちろんあるが、その圧倒的な無知故の蔑視とそれを前提にした決めつけを見逃すわけにはいかない。それが現代、バレエの世界に直接反映しているとも思わない。しかし、「ラ・バヤデール」というアジア、あるいはイスラム世界を題材にした作品ではおのずとそのアジア観、イスラム観が見て取れるし、それが実際のアジア像、イスラム社会を映しているものなら異を唱えるまでもないが、19世紀、いや、現在も生きながらえているオリエンタリズムを反映しているものであるからだ。
東京バレエ団の本公演のよいところは、ダンサーが皆日本人であるため、ムリにオリエンタリズムさを出さなくて済んだこと。ヨーロッパの著名バレエ団が「ラ・バヤデール」やその他の演目を演じるとき(「くるみ割り人形」などもそう)、そこには妙にオリエンタルな装いをまとおうとし、アジアの人間から見ればそれはないだろう、という突っ込みも入れたくなるほどの西アジアから東アジアまで玉石混交ぶりである。西アジアのイスラム世界、ヒンズーの南アジアと仏教系の東アジアは、アジアの民からすればそれらは全く別物である。しかし、オリエンタリズム観に支配された西洋人にはそこはささいな違いと思えたのかもしれない。傲慢さも内包しつつ。
上野水香のニキヤが合っていると先述したが、それは上野は10頭身かとまみえるほど小顔で、日本人ばなれした手足の長さを誇っている(世代上の吉田都は西洋人に比して腕の短さに苦労したという)からとは相反しそうだ。しかし、上野の表情はアジアの人そのものである。そして日本人ダンサーの中では小柄な方ではないが、西洋人からすれば華奢そのものである。それが、「ラ・バヤデール」で登場すると肢体の西洋人性と併せて奥深い魅力を醸し出す。脂が乗っている時期と言われる上野は、その鋭いポワントも表現力も観者の期待を裏切らない迫力に満ちている。
上野のことばかり書いたが、上野は今回このニキヤ役は初めてであるそうで、とても好もしく見て取れた。若いダンサーの多い東京バレエ団は、ますます勢いを増し、さびれることのない活力を見せつけた。ブロンズ像を演じた松下裕次の切れ、ソロルの高岸直樹もベテランを感じさせないはつらつさと思う。そしてあえて苦言。コール・ド・バレエこそ、「ラ・バヤデール」の醍醐味の一つだと思うが(長野由紀『バレエの見方』)、せっかく西洋人やバレエ団にはない体格の統一性があるのに、少しずれた。
ダンス・カンパニーの純血主義とからんで美しさとは何かを選ぶ視点の違いを自覚する苦い選択である。
 










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