私もこのブログをしたためているように文章を書くことで、自己確認をしたり、何度も書くことにより、より上手く書こうと思うところはある。ところが、誰しも文章を書くというのは次第に上手くなればいいけれど、そうとは違って最初から読ませる、読んで引き込まれるというのもある。坂本菜の花さんの紡ぎ出す言の葉はそうだったのだ。そしてそうした言葉を編み出す背景には菜の花さんのひときわ鋭い感受性があったのだろう。
菜の花さんは北陸は能登半島の先端、珠洲市の生まれ。中学卒業後、沖縄のフリースクール珊瑚舎スコーレで学び、日々の出来事を綴っていた文章が北陸中日新聞の記者の目に止まる。「珊瑚舎スコーレで学び」と書いたが、珊瑚舎での学びは学び以上、「生きる」ことと「つながる」であった。菜の花さんが過ごした時、沖縄はやっぱり揺さぶられていた。米軍属による女性暴行殺人事件、度重なる米軍機の部品落下、オスプレイの墜落、高江のヘリパッド建設予定地でのヘリ墜落、そして翁長雄志知事が命を削って止めようとした辺野古の新基地埋め立ては進んだ。この間、住民投票はもちろんのこと、国政選挙で全て辺野古NO!の民意を示し、推進候補は全て破れたのに安倍政権は民意を一顧だにしなかった。それを「説明」し続けたのが現首相、菅義偉官房長官であった。
菜の花さんが言葉を出せるのは、よく聞くからだ。高江や辺野古で座り込んでいるおじい、おばあの話を聞く。沖縄戦が終わって75年、本土復帰して50年弱。米軍基地がどんどん集中し、米軍関係者の犯罪は止まない。95年の女子児童暴行事件を機に県民がノーと言い続け、それでも時の政権は差別の温床である日米地協定には手を出さず、「粛々と」沖縄の米軍化を進め、拡大して来た。菜の花さんが話を聞く海人(うみんちゅ)は、新基地建設に条件付き賛成と言いつつ「日本はアメリカの植民地としか思わない」とはっきり。そして基地工事が始まれば見えなくなる綺麗な海を見ていけと言う。海を見つめた菜の花さんの頬に涙がつたう。
翁長知事の意志を引き継いだ玉城デニー知事の元で行われた県民投票で72%が「反対」。しかし県民投票ができるまでには紆余曲折があった。基地賛成の保守系首長の自治体が県民投票に参加しないとしていたからだ。全自治体が参加しなければ県民投票の意味がなくなる。そこで参加してほしいと我が身を危険に晒し、ハンガーストライキをしたのが当時大学院を休学していた若い元山仁士郎さんだった。元山さんは沖縄出身とはいえ、直接沖縄戦を体験した世代ではないし、復帰運動も知らない。しかし、彼の中に差別され続ける沖縄がこのままでいいのかと言う、沖縄と自分の周囲と、そして自分自身を守り抜くと言うDNAが刻み込まれているのだろう。沖縄出身ではない菜の花さんにもそれは伝播した。(ちなみに元山さんの祖父は『証言 沖縄スパイ戦史』(https://blog.goo.ne.jp/kenro5/e/78964418fe2fdd383eeee0d63f85876a)で「護郷隊」の体験を語った親泊康勝さん。)
「ちむぐりさ」とは、ヤマトの言葉には翻訳しづらいそうだ。「悲しい」の代わりに「誰かの心の痛みを自分の悲しみとして一緒に胸を痛めること」。沖縄に基地を差別を押し付け続けているヤマトの私たちに問われるのは、菜の花さんが感受した「ちむりぐさ」の共感と行動だろう。
「あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。 そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである。」(菜の花さんが映画の最後に引用したマハトマ・ガンジーの言葉)