kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

平和があふれる言葉を紡ぎ出す  ちむぐりさ 菜の花の沖縄日記

2020-10-10 | 映画

私もこのブログをしたためているように文章を書くことで、自己確認をしたり、何度も書くことにより、より上手く書こうと思うところはある。ところが、誰しも文章を書くというのは次第に上手くなればいいけれど、そうとは違って最初から読ませる、読んで引き込まれるというのもある。坂本菜の花さんの紡ぎ出す言の葉はそうだったのだ。そしてそうした言葉を編み出す背景には菜の花さんのひときわ鋭い感受性があったのだろう。

菜の花さんは北陸は能登半島の先端、珠洲市の生まれ。中学卒業後、沖縄のフリースクール珊瑚舎スコーレで学び、日々の出来事を綴っていた文章が北陸中日新聞の記者の目に止まる。「珊瑚舎スコーレで学び」と書いたが、珊瑚舎での学びは学び以上、「生きる」ことと「つながる」であった。菜の花さんが過ごした時、沖縄はやっぱり揺さぶられていた。米軍属による女性暴行殺人事件、度重なる米軍機の部品落下、オスプレイの墜落、高江のヘリパッド建設予定地でのヘリ墜落、そして翁長雄志知事が命を削って止めようとした辺野古の新基地埋め立ては進んだ。この間、住民投票はもちろんのこと、国政選挙で全て辺野古NO!の民意を示し、推進候補は全て破れたのに安倍政権は民意を一顧だにしなかった。それを「説明」し続けたのが現首相、菅義偉官房長官であった。

菜の花さんが言葉を出せるのは、よく聞くからだ。高江や辺野古で座り込んでいるおじい、おばあの話を聞く。沖縄戦が終わって75年、本土復帰して50年弱。米軍基地がどんどん集中し、米軍関係者の犯罪は止まない。95年の女子児童暴行事件を機に県民がノーと言い続け、それでも時の政権は差別の温床である日米地協定には手を出さず、「粛々と」沖縄の米軍化を進め、拡大して来た。菜の花さんが話を聞く海人(うみんちゅ)は、新基地建設に条件付き賛成と言いつつ「日本はアメリカの植民地としか思わない」とはっきり。そして基地工事が始まれば見えなくなる綺麗な海を見ていけと言う。海を見つめた菜の花さんの頬に涙がつたう。

翁長知事の意志を引き継いだ玉城デニー知事の元で行われた県民投票で72%が「反対」。しかし県民投票ができるまでには紆余曲折があった。基地賛成の保守系首長の自治体が県民投票に参加しないとしていたからだ。全自治体が参加しなければ県民投票の意味がなくなる。そこで参加してほしいと我が身を危険に晒し、ハンガーストライキをしたのが当時大学院を休学していた若い元山仁士郎さんだった。元山さんは沖縄出身とはいえ、直接沖縄戦を体験した世代ではないし、復帰運動も知らない。しかし、彼の中に差別され続ける沖縄がこのままでいいのかと言う、沖縄と自分の周囲と、そして自分自身を守り抜くと言うDNAが刻み込まれているのだろう。沖縄出身ではない菜の花さんにもそれは伝播した。(ちなみに元山さんの祖父は『証言 沖縄スパイ戦史』(https://blog.goo.ne.jp/kenro5/e/78964418fe2fdd383eeee0d63f85876a)で「護郷隊」の体験を語った親泊康勝さん。)

「ちむぐりさ」とは、ヤマトの言葉には翻訳しづらいそうだ。「悲しい」の代わりに「誰かの心の痛みを自分の悲しみとして一緒に胸を痛めること」。沖縄に基地を差別を押し付け続けているヤマトの私たちに問われるのは、菜の花さんが感受した「ちむりぐさ」の共感と行動だろう。

「あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。 そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである。」(菜の花さんが映画の最後に引用したマハトマ・ガンジーの言葉)

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『ジョージ・オーウェル ー「人間らしさ」への賛歌』でオーウェルロスになる

2020-10-03 | 書籍

いつからだろうか「ディーセント・ワーク」という言葉がよく使用されるようになった。「働きがいのある人間らしい仕事」のことだが、人間らしく生きるための労働条件として、雇用の保証はもちろん、賃金や保険、労働組合活動の自由なども含む概念である。現在のSDGsの1項目にも挙げられていて、非正規雇用や外国人労働者の処遇など日本社会でも解決すべき大きな課題である。英語のdecentはいうまでもなく「きちんとした」とか「適正な」という意味であるが、『1984年』を遺作に長くはない生涯を終えたジョージ・オーウェル(本名エリック・アーサー・ブレア)のその反帝国主義、親共産主義志向を支えたキーワードが、名詞形decency、人間らしさ、であった。

上層中流階級出身のオーウェルは名門イートン校で学び、学友の多くがケンブリッジ大学に進むのに大学には行かずに植民地インドの帝国警察官となり、ビルマに赴任する。そこでの「帝国」の横暴を実際経験し、自身も現地の民に手をあげたことも。高給の警察官をやめた後は、作家になるべく様々な職業を経験し、パリやロンドンでの貧民街での暮らし、編集者やフランス語教師なども経て、「人間らしさ」を求めて、電気、ガスも水道もない離れ島に住み着き、荒れ野を一から耕したり。やがてスペインの反フランコ共産勢力に義勇軍として参加するが、首に銃弾を受けるという大怪我もあり、英国に還る。それら様々な現場での壮絶な経験が、批評家、ルポルタージュ作家として結実するが、印税で食べられるほどにはなかなかならなかった。しかし、スペイン共産党で経験したスターリニズムへの反感から生まれた『動物農場』(1945)でやっとベストセラー作家になるが、その年に彼を支えた妻アイリーンが急死。オーウェル自身も結核が進行し、病の中執筆した大作『1984年』を刊行した翌1950年1月大量に喀血し、没する。享年46歳。

「反ソ」「反共」の作家として知られるが、『1984年』で描かれる監視・管理社会は反ナチスの要素も当然ある。オーウェル自身、反帝国主義の姿勢は生涯変わることはなかったであろう。本書はそのオーウェルを『1984年』の著者というより、それを執筆するに至った彼の少年期から晩年までの行動と作品を丹念にたどる。彼が創造した近未来のディストピアは、人間を解放するはずの社会主義革命がスターリンによって恐怖政治と人民を幸せにはしなかったという経験がまずあるに違いない。そして大英帝国が対峙した究極の人種差別帝国であったナチス・ドイツ、あるいはソ連やナチス・ドイツのようにはならなかったものの、多くの植民地を有し、時に人と人とも思わない圧政を敷いた自身の国イギリス、さらに早くに王政を打倒した共和制の国であるのに労働者が底辺にうごめくフランスなどの理想と現実の大きな乖離を目にしたその総体とも言える。そこには物事を多方面から見ることのできる他者性、客観性、そして「decency 人間らしさ」を信じたある意味理想主義を捨てない強靭さと現実との葛藤が、オーウェルをして筆を進めさせたのだろう。逆説的な言い方であるが、ユートピアを信じ、そこを目指すからこそ、酷薄なディストピアを描ける。どこか、アンチエンディングで救いのない境遇に置かれた労働者ばかりにカメラを向けるケン・ローチにも通じるところがある。

ちょうどこのブログを準備していたとき、本書の書評が載った(「多様な目線が磨いた自己嘲笑力」 藤原辰史(「朝日新聞」2020.10.3))。安倍政権で勧められた数々の悪政は、『1984年』で描かれた「ニュースピーク」や「ダブルシンキング」、「真理省」など、その欺瞞、管理国家ぶりになぞらえられることも多かった。折しも、菅政権は日本学術会議から政権に批判的な新会員を指名しなかった。藤原も「暗い未来はもう私たちの現在だ、と世界各地で叫ばれ(中略)この国も、例外ではない」と記す。そして「読み終わった後、私はしばらくオーウェルロスに取り憑かれた」とも。先を越された(ともちろん朝日の書評欄と渡り合えるわけではないが)が、オーウェルロスは同感だ。(川端康雄 岩波新書 2020年)

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