kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

日々変わりゆく表現こそ使命  ポンピドゥー・センター・コレクション

2014-01-19 | 美術
ポンピドゥー・センターは正確にいうと美術館のみならず舞台芸術や映像、研修センターなどを含む複合施設であって、その中の国立近代美術館は一セクションに過ぎない。しかし、パリ市民でない限りポンピドゥー イコール美術館である。
ルーブルが印象主義前、オルセーが印象主義、そしてポンピドゥーがその後ときっちり棲み分けがなされているパリの三大国立美術館のなかで、おそらくポンピドゥーが一番知名度も低く、観光客が訪れないところであろう。しかし、世界中の近代・現代美術館 - MoMA、テートモダン、ピナコーテク・モデルニ ― と比べても最大級の規模である、と思う。だから以前パリに行った時もオルセーには行かずポンピドゥーには行ったことがある。
現代美術館である限り、収蔵(候補)作品は日々増えていく運命にある。そのなかで何を収蔵あるいは展示し、鑑賞者にプレゼンするかが問われている。数年前ポンピドゥーを訪れたときは女性作家に焦点をあてた特別展をしていて、ニキ・ド・サンファルの巨大な作品などあり満喫したが、今回兵庫県立美術館に来た作品群はニキよりも新しいものが多く、意欲的、挑戦的である。
展示作品の中、日本で一般に知られている作家は少ない。強いていえばゲルハルト・リヒターやサイ・トゥオンブリー、ピエール・スーラージュなど戦前生まれの人たちであろう。この人たちは言わばドローイングの名手である。リヒターの大きな筆で描いた後わざと横に刷ったような、まるで心電図か何かのような流れるドローイングは有名だが、トゥオンブリーは抽象表現主義の大家。ポロックなど天地左右が不明な絵画は抽象表現主義の特徴だがトゥオンブリーの作品も、どちらを上にしてもいいように見える。だから隅々まで筆を走らせた繊細さこそ、これらドローイングの本道としてすばらしい。ドローイングというと大きな筆で無計画に書き殴ったもの、というのがまだまだ現代美術全般に対するものも含め、その印象ではないだろうか。しかし、ポロック、トゥオンブリーを見れば分かるように綿密に計算され、どの方向からの視線にも耐えうる迫力に違いない。
50~60年代がドローイングの時代であれば、その後はインスタレーション、そしてビデオ等映像を中心とした見せ方の時代である。今回出展された作家は総じて若い。平面作品でいえば、無機質な工場風景画、疎外感を露わにしたヴィルヘルム・サスナレウは72年生まれ、モンドリアンを思わせる単色のブロックの張り合わせだけで複雑な立体図を想起せしめたファラー・アタッシは81年生まれである。映像ではアルプスの山並みとチェロで対話するツェ・スーメイは73年生まれ、のぞき見を罪悪感なく経験させたレアンドロ・エルリッヒも73年生まれ、水中で舞う女性の衣が見飽きさせないジャナイナ・チェッペ(この作品が今回お気に入り!)も73年生まれ。インスタレーションでは見る者の触覚や嗅覚まで喚起させるエルネスト・ネトは64年生まれである。それほどポンピドゥー・センターが日々、現代美術に“現代的に”向きあい、現代の地位を失わない探究と好奇の姿勢を持ち続けているからであろう。
一つひとつの作品の面白さを解説するのは難しいが、じっくり見れば味わい深い作品ばかりである。現代美術という巨大で何を描こうとしているのかよく分からないから短時間で流してきたという人こそ見てほしい、見れば見るほど不思議なコンセプトにあふれている世界を。たとえそれがパリの何百分の一しかでないとしても。(エルネスト・ネト「私たちはあの時ちょうどここで立ち止まった」2002)
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サウジの制約を壊すワジダに喝采   少女は自転車に乗って

2014-01-16 | 映画
イスラム文化圏の国の映画は大人の女性を映せないため、子どもが主役になることが多いと聞いたことがある。イラン映画などたしかに子どもが主人公の映画が多い。本作も子どもが主人公だ。でもワジダの母親や母親の友だち、そしてワジダの学校の先生ら、大人の女性もけっこう出てくる。母親のシーンでよく分かるのだが、イスラムの女性も家では顔を覆っているわけではない。むしろ、夫の気を惹こうと服や化粧などに細かく気を使っている。夫の気を惹こうとするのは夫が第2夫人を迎えて、自分から離れていくのを阻止するためだ。
映画で描かれているサウジアラビアの女性たちは本当に地位が低く、制約が多い。はっきり言ってひどい。
男性に素顔を見せてはいけないのはもちろんのこと、笑い声なども聞かれてはならない、学校では外から見えるので校庭で遊んではいけない。ほかの男性に姿を見られないように通勤は専属のタクシーで。はては親族以外の男性と一緒にいたところを宗教警察に捕まり、親は学校をやめさせ「嫁」に出す。無茶苦茶である。アメリカなど西側諸国は、日本も含めて、中国の人権状況をことあるごとに非難するが、サウジアラビアの人権状況も相当ひどいと思う。しかし、世界最大の原油供給国、西側との友好関係も深いサウジアラビアの人権状況を非難する声は聞かれない。
そんな中にあって、自転車に乗りたい!と思ったワジダには「女だから」という制約と攻撃は通用しない。見事跳ね返していく。800リエルもする自転車を買おうと、サッカーチームの応援ミサンガを学校で売ったり。でも小銭を稼いでもたかがしれている。そこでコーランの暗誦大会で優勝すれば1000リエルと知り、にわかに勉強をはじめ…。みごと優勝するが、賞金を何に使う?と校長に聞かれ「自転車を買う」とはっきり答えてしまったワジダに校長は「パレスチナの同胞に寄付しましょう」。
男の子ができないからと第2夫人を娶ろうとする夫の気を惹こうとがんばる母の姿も見るし、ワジダになにかと気をかけてくれる同い年?のアブドゥラは男の子だから自転車をはじめ自由。でもワジダはへこたれないし、自転車に乗ってアブドゥラと競走したいだけ。自転車はワジダ、いや将来母親のように制約の中で生きる大人の女性にはなりたくないという自立の萌芽の象徴だ。運動靴を注意され、ヘジャブで顔を覆わないことを難詰され、ましてや自転車など。イスラムの男尊女卑社会に忠実な校長はワジダを問題視するが、賞金を寄付しなさいと強要した校長の部屋に男性が訪問したことを知っているワジダの痛烈な反撃に喝采したのは言うまでもない。
ワジダに惹かれているアブドゥラは現代日本でいうとイクメンになりそうなマメさとジェンダーバイアスフリーにあふれている。彼女らが大人になるころには、サウジの女性、人権状況も改善しているだろうか。王様をいだく政体であっても、男子の長子相続でないヨーロッパの国々はジェンダーバイアスのフリー度は高い。その逆は…。おっと日本も女性は王になれない。のが、女性の社会進出の低さに現れている。ワジダのような女の子はいっぱいいるであろうのに。私たちは、サウジのワジダも日本のワジダたちも応援しているだろうか、できるだろうか。自己に問われ、また明るくなる映画ではある。
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何気ない歩みが大切な年頃       「楽隊のうさぎ」

2014-01-02 | 映画
「楽隊のうさぎ」は少し変わった映画である。というのは中学生が主人公で、演じているのはほとんど素人の中学生。に加えて、ハッピーエンドもなにもない。言うなれば、普通の中学生の普通に日常を描いてなんなの?という感じ。
中学生というと、なにを思い浮かべるだろうか。いじめ、学力競争、ほのかな恋心?
いじめが一番スタンダードであろう。滋賀県のいじめ後の自殺は大きな衝撃をあたえ、いじめを許すなのかけ声がかまびすしい。いじめはない方がもちろんいいが、いじめは現在のような中学教育の根底が変わらない限り、なくならないと思う。「中学教育の根底」と記したが、正確に言うと現在の中学校の姿を映し出している大人の社会でいじめがあることを容認しているということだ。
「楽隊のうさぎ」が普通の中学生の生活を描いているなら、当然いじめや勉強をめぐる悩み、恋などもありそうだが、ほとんどない。内気な1年生奥田克久が校内に現れた不思議なうさぎに誘われ、楽器演奏もやったこともないのに吹奏楽部入部を決めるところから物語ははじまる。小学校からの友だちからサッカー部に入ろうと誘われていたのを断ったことになり関係がまずくなる。その友だちは克久が入部しなかったことにより、すねて自身もあまり熱心には活動していないようだ。しかし、先輩からバチを握らされ、見よう見まねで太鼓を叩くうちに吹奏楽部にはまっていく克久。
定期演奏会を過ぎると3年生は引退。克久の引っ込み思案を心配した3年生の女子キャプテンは後任のティンパニストに克久を指名する。練習に明け暮れる毎日。父親がプロの演奏家である同級生の朝子は、自身もプロの道を選ぼうと吹奏楽部を退部する。やがて春になり、1年生を勧誘し、指導する側になる克久。徐々に口数も多くなり、父親にまだ甘える姿と、母親の干渉にうっとうしさを感じる子どもから成長していくアンビバレンツな姿を素人の中学生が好演。定期演奏会で立派にティンパニーをこなし、また大きくなった克久。口も利いていなかったサッカーを辞めた友だちに「おはよう」と声をかける克久はやはり1年で大きく成長した。
私事だが、最近中学生を案内、説明する機会があった。17名のうち男子は2名。女子のほうが積極的に発言、質問してきて、みんな好もしい。しかし、自由に行動させると騒がしいといったらない。中学の先生って大変だなあと思ったものだ。「楽隊のうさぎ」吹奏楽部でも女子が圧倒的に多い。まあ文科系部活動は昔からそうだったが、今や体育系部活動でも女子の活躍は目覚ましい。職場の同僚のお嬢さんはラグビーをやっているとも聞いた。克久もキャプテンをはじめ女子に引っ張られながら、ティンパニストとして自立していくが、本作は、重要なところはやっぱり男子でいったマッチョなところがないのがいい(定期演奏会の新曲披露では克久のティンパニーから演奏がはじまる)。克久はある意味、最後まで優男!で、汗臭さがない。いうなれば少し中性的なのだ。そう、マッチョなんてもう古いのに、この国の社会を動かしているのはやはり男ばかり。女性の社会的地位の低さ(政治的進出度、組織における決定権者、賃金など)はOECD諸国の中で飛びぬけて低いし、世界的に見ても女性議員の少なさは有名だ。
とはいっても、優男の克久もやがて異性愛に気づくかもしれないし、そうではないかもしれない。与えられ、自ら懸命に取り組むものが単にティンパニーであったということ。そこには性差はないし、他の楽器との間に優劣もない。
筆者自身は音楽が苦手で、小学校時代のハーモニカ練習は恐怖であった。けれど、小学校、中学校を通じてなんとなく楽器の名前は覚えていき、大人になりきっていない体でファゴットやチューバ、ホルン、そして打楽器を操る花の木中学校吹奏楽部の姿に懐かしさを覚えた。
大きな変化に富まない故の温かさが本作には流れている。
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