作家の赤川次郎さんが、「朝日新聞」の読者の声欄に、何人かの大阪府立学校の副校長は、処分されるべきだと投稿していた。それは、副校長が卒・入学式で教職員が「君が代」を「きちんと」歌っているかどうか口元をチェックするのに腐心して自分は「きちんと」歌っていなかったからと。
この赤川さんの大いなる皮肉は、大阪をはじめ現実に起こっている教員に対する過酷な処分、もちろん「日の丸」「君が代」以外ではありえない、の異様さをあぶり出してはいるが、それら処分攻撃に対し、今のところ言論では打ち勝てていない現実も示している。
田中伸尚さんの前著『日の丸・君が代の戦後史』(岩波新書 2000年)では、1999年の「国旗・国歌法」成立にいたるこの国での「日の丸」「君が代」の取り扱われ方、接し方に焦点をあて、国家が、あるいは右派勢力が「日の丸」「君が代」の存在と実施過程をいかに法制化するか、国民の義務と普遍化しようとしたかとそれに抗う人たちを描いた。しかし、田中さんが、本書で幾度か触れる橋下政治のとてつもない危険性とそれに至る、数々の「君が代」判決の判断の愚かしさに比べれば、前著で指摘された「日の丸」「君が代」強制のもたらす反民主主義性は、今回報告されている現実に比べれば、まだ反抗の光があったようにも見えるのだがどうだろうか。
前著から12年。その間、石原慎太郎都知事のもとで施行された「10.23通達」(2003年)。この通達によって都立学校では、教員に対し苛烈な処分攻撃がなされ、本書で取り上げられたさまざまな訴訟が提起され判決に至ったのは言うまでもない。提起された訴訟の原告のすべてが自らの「良心」の問題と位置づけているのに対し、都側は公務員の服務規律=校長の職務命令に従ったかどうか、その職務命令が校長の裁量の範囲を逸脱していないかどうかという問題に貶め、多くの判決は処分を妥当とした。特に2011年以降、堰を切ったように出された最高裁判決は「君が代」起立斉唱の職務命令は憲法19条に反しないとした。それら判決は、ピアノ伴奏拒否判決などに典型的に見られるように、「君が代」伴奏、斉唱、起立などの際「内心の自由は内心にあるかぎり侵されておらず、(斉唱などの)外的行動によって内心の自由が侵されたわけではない」旨の判示であった(「間接的制約」は違憲ではない)。冷静に考えれば、教員それぞれの内心の自由を守るため、不起立などの外的行動に出るのであって、起立しても内心の自由は守られるなどとしては、なんのための内心の自由か不明であるし、およそ精神的自由権が保証されているとは言い難いのに、最高裁判決は憲法裁判所としての地位を自ら貶めたといわざるを得ない。しかし、最高裁判決反対意見の中には宮川光治裁判官のように、本件を「少数者の思想及び良心の自由に深く関わる問題」と明確にとらえて、現憲法下「思想及びその良心の核心に反する行為を強制することは許容されていない」と断じ、高裁に差し戻すよう述べていることはほんの一縷の光である。
本書に出てくる抗いの主人公らの中には、筆者がささやかながら支援してきた人たちもいる。その中には、生徒に卒業式において「君が代」に対する立場の選択権を明示したために処分された東豊中高校の中野五海さんもいる。中野さんは生徒に「君が代」に反対せよなどともちろん言っていない。職員会議での決定を生徒に伝えた上で、生徒に考え、選択する権利を保障したにすぎない。橋下大阪府知事(当時)は、「君が代」強制を「マネジメントの問題」と言い切り、民主主義の本質である少数者の権利保障と、選択の自由を否定し、教員やその姿を学ぶ子どもらの思想及び良心を無視している。そして、大阪府に続いて、大阪市においても「教育基本条例」と「職員基本条例」といった、上記憲法的価値を真っ向から否定する条例まで成立させてしまった。
田中さんは善悪、当否を考えず、上からの命令だから言い逃れたアイヒマンをあげておられるが、これは上記2条例や(大阪府・市の)公務員の政治家活動について、橋下政治を支持するのは自らアイヒマンと同視できると筆者が指摘したことと重なる。暗い時代は、不況や失業率のことだけではない。良心が侵されるときは、すべての人権侵害を集約した戦時気分を欲する時代を引き寄せるのだ。
この赤川さんの大いなる皮肉は、大阪をはじめ現実に起こっている教員に対する過酷な処分、もちろん「日の丸」「君が代」以外ではありえない、の異様さをあぶり出してはいるが、それら処分攻撃に対し、今のところ言論では打ち勝てていない現実も示している。
田中伸尚さんの前著『日の丸・君が代の戦後史』(岩波新書 2000年)では、1999年の「国旗・国歌法」成立にいたるこの国での「日の丸」「君が代」の取り扱われ方、接し方に焦点をあて、国家が、あるいは右派勢力が「日の丸」「君が代」の存在と実施過程をいかに法制化するか、国民の義務と普遍化しようとしたかとそれに抗う人たちを描いた。しかし、田中さんが、本書で幾度か触れる橋下政治のとてつもない危険性とそれに至る、数々の「君が代」判決の判断の愚かしさに比べれば、前著で指摘された「日の丸」「君が代」強制のもたらす反民主主義性は、今回報告されている現実に比べれば、まだ反抗の光があったようにも見えるのだがどうだろうか。
前著から12年。その間、石原慎太郎都知事のもとで施行された「10.23通達」(2003年)。この通達によって都立学校では、教員に対し苛烈な処分攻撃がなされ、本書で取り上げられたさまざまな訴訟が提起され判決に至ったのは言うまでもない。提起された訴訟の原告のすべてが自らの「良心」の問題と位置づけているのに対し、都側は公務員の服務規律=校長の職務命令に従ったかどうか、その職務命令が校長の裁量の範囲を逸脱していないかどうかという問題に貶め、多くの判決は処分を妥当とした。特に2011年以降、堰を切ったように出された最高裁判決は「君が代」起立斉唱の職務命令は憲法19条に反しないとした。それら判決は、ピアノ伴奏拒否判決などに典型的に見られるように、「君が代」伴奏、斉唱、起立などの際「内心の自由は内心にあるかぎり侵されておらず、(斉唱などの)外的行動によって内心の自由が侵されたわけではない」旨の判示であった(「間接的制約」は違憲ではない)。冷静に考えれば、教員それぞれの内心の自由を守るため、不起立などの外的行動に出るのであって、起立しても内心の自由は守られるなどとしては、なんのための内心の自由か不明であるし、およそ精神的自由権が保証されているとは言い難いのに、最高裁判決は憲法裁判所としての地位を自ら貶めたといわざるを得ない。しかし、最高裁判決反対意見の中には宮川光治裁判官のように、本件を「少数者の思想及び良心の自由に深く関わる問題」と明確にとらえて、現憲法下「思想及びその良心の核心に反する行為を強制することは許容されていない」と断じ、高裁に差し戻すよう述べていることはほんの一縷の光である。
本書に出てくる抗いの主人公らの中には、筆者がささやかながら支援してきた人たちもいる。その中には、生徒に卒業式において「君が代」に対する立場の選択権を明示したために処分された東豊中高校の中野五海さんもいる。中野さんは生徒に「君が代」に反対せよなどともちろん言っていない。職員会議での決定を生徒に伝えた上で、生徒に考え、選択する権利を保障したにすぎない。橋下大阪府知事(当時)は、「君が代」強制を「マネジメントの問題」と言い切り、民主主義の本質である少数者の権利保障と、選択の自由を否定し、教員やその姿を学ぶ子どもらの思想及び良心を無視している。そして、大阪府に続いて、大阪市においても「教育基本条例」と「職員基本条例」といった、上記憲法的価値を真っ向から否定する条例まで成立させてしまった。
田中さんは善悪、当否を考えず、上からの命令だから言い逃れたアイヒマンをあげておられるが、これは上記2条例や(大阪府・市の)公務員の政治家活動について、橋下政治を支持するのは自らアイヒマンと同視できると筆者が指摘したことと重なる。暗い時代は、不況や失業率のことだけではない。良心が侵されるときは、すべての人権侵害を集約した戦時気分を欲する時代を引き寄せるのだ。