kenroのミニコミ

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危険な時代の直截な警鐘 『ルポ良心と義務 「日の丸・君が代」に抗う人びと』(田中伸尚著 岩波新書)

2012-05-29 | 書籍
作家の赤川次郎さんが、「朝日新聞」の読者の声欄に、何人かの大阪府立学校の副校長は、処分されるべきだと投稿していた。それは、副校長が卒・入学式で教職員が「君が代」を「きちんと」歌っているかどうか口元をチェックするのに腐心して自分は「きちんと」歌っていなかったからと。
この赤川さんの大いなる皮肉は、大阪をはじめ現実に起こっている教員に対する過酷な処分、もちろん「日の丸」「君が代」以外ではありえない、の異様さをあぶり出してはいるが、それら処分攻撃に対し、今のところ言論では打ち勝てていない現実も示している。
田中伸尚さんの前著『日の丸・君が代の戦後史』(岩波新書 2000年)では、1999年の「国旗・国歌法」成立にいたるこの国での「日の丸」「君が代」の取り扱われ方、接し方に焦点をあて、国家が、あるいは右派勢力が「日の丸」「君が代」の存在と実施過程をいかに法制化するか、国民の義務と普遍化しようとしたかとそれに抗う人たちを描いた。しかし、田中さんが、本書で幾度か触れる橋下政治のとてつもない危険性とそれに至る、数々の「君が代」判決の判断の愚かしさに比べれば、前著で指摘された「日の丸」「君が代」強制のもたらす反民主主義性は、今回報告されている現実に比べれば、まだ反抗の光があったようにも見えるのだがどうだろうか。
前著から12年。その間、石原慎太郎都知事のもとで施行された「10.23通達」(2003年)。この通達によって都立学校では、教員に対し苛烈な処分攻撃がなされ、本書で取り上げられたさまざまな訴訟が提起され判決に至ったのは言うまでもない。提起された訴訟の原告のすべてが自らの「良心」の問題と位置づけているのに対し、都側は公務員の服務規律=校長の職務命令に従ったかどうか、その職務命令が校長の裁量の範囲を逸脱していないかどうかという問題に貶め、多くの判決は処分を妥当とした。特に2011年以降、堰を切ったように出された最高裁判決は「君が代」起立斉唱の職務命令は憲法19条に反しないとした。それら判決は、ピアノ伴奏拒否判決などに典型的に見られるように、「君が代」伴奏、斉唱、起立などの際「内心の自由は内心にあるかぎり侵されておらず、(斉唱などの)外的行動によって内心の自由が侵されたわけではない」旨の判示であった(「間接的制約」は違憲ではない)。冷静に考えれば、教員それぞれの内心の自由を守るため、不起立などの外的行動に出るのであって、起立しても内心の自由は守られるなどとしては、なんのための内心の自由か不明であるし、およそ精神的自由権が保証されているとは言い難いのに、最高裁判決は憲法裁判所としての地位を自ら貶めたといわざるを得ない。しかし、最高裁判決反対意見の中には宮川光治裁判官のように、本件を「少数者の思想及び良心の自由に深く関わる問題」と明確にとらえて、現憲法下「思想及びその良心の核心に反する行為を強制することは許容されていない」と断じ、高裁に差し戻すよう述べていることはほんの一縷の光である。
本書に出てくる抗いの主人公らの中には、筆者がささやかながら支援してきた人たちもいる。その中には、生徒に卒業式において「君が代」に対する立場の選択権を明示したために処分された東豊中高校の中野五海さんもいる。中野さんは生徒に「君が代」に反対せよなどともちろん言っていない。職員会議での決定を生徒に伝えた上で、生徒に考え、選択する権利を保障したにすぎない。橋下大阪府知事(当時)は、「君が代」強制を「マネジメントの問題」と言い切り、民主主義の本質である少数者の権利保障と、選択の自由を否定し、教員やその姿を学ぶ子どもらの思想及び良心を無視している。そして、大阪府に続いて、大阪市においても「教育基本条例」と「職員基本条例」といった、上記憲法的価値を真っ向から否定する条例まで成立させてしまった。
田中さんは善悪、当否を考えず、上からの命令だから言い逃れたアイヒマンをあげておられるが、これは上記2条例や(大阪府・市の)公務員の政治家活動について、橋下政治を支持するのは自らアイヒマンと同視できると筆者が指摘したことと重なる。暗い時代は、不況や失業率のことだけではない。良心が侵されるときは、すべての人権侵害を集約した戦時気分を欲する時代を引き寄せるのだ。
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ホロコーストを忘れない「アンネの追憶」

2012-05-12 | 映画
上映の間、実は「沖縄」のことを考えていた。「沖縄」と記すか、オキナワと記すか、はたまたOKINAWAと記すか。ヤマトの人間にとっては沖縄であり、ヤマトやウチナ、はたまた日本語ネイティブでない人にとって分かりやすいのはオキナワ。そしてアメリカから見える、基地を置いている地はOKINAWAである。
「沖縄」のことを考えていたと記したのは、ほかでもない。日本にとって「沖縄」の意味とはなにかということである。それは40年前日本になった(「復帰」した)沖縄であり、65年以上前の戦争中には日本によって殺された沖縄である。
持って回った言い方をしたのは、ドイツにとってホロコーストとは、過去のドイツ、国としてのドイツはもちろん、ドイツ民衆自身が、自国民を殺戮した歴史を思い浮かべるからである。そして、日本。この国におけるホロコーストは沖縄である。し、ドイツがホロコーストをしつこく自省しているようには、日本は沖縄を自省しているようには到底思えない。
現在の沖縄県に在日米軍基地の74%が集中していることをここで書きたいのではない。そのような実態にいたった、65年以上前のヤマトのウチナに対する姿勢、思想を忘れてはいけないと思うのだ。そう、米軍上陸前に、皇軍が沖縄の民に手をかけたことを、自死を強要したことを。
「アンネの追憶」を見て沖縄への追想を重ねたのは、映画の世界で、ドイツのホロコーストを描く商業作品は繰り返し制作されているのに、日本では一部のドキュメンタリーを除いて沖縄を描いた作品は皆無という現実を実感したからだ。ドキュメンタリーというのは作品の巧拙もあり、多くの人が見るものではない。しかし、ひめゆりをはじめ、1945年3月の米軍上陸から6月の日本軍陥落までなにが起こり、人々がどのように生きたか、あるいは死んでいったかが明らかになっているにもかかわらず、沖縄の実相を伝える映画(商業ベースに乗る作品)は生まれていない。文化の貧困や政治の未熟というのはたやすい。しかし、明らかなのは、当時の日本軍はほかでもない皇軍であったという事実が、今日まで映画として描かさせることを躊躇させているに違いない。
アンネ・フランク映画であるのに沖縄のことばかかり書いてしまった。アウシュビッツに送られた父オットー・フランクだけが生き残り、アンネらが死んでしまった訳は、オットーが語るように「なぜ」だかわからない。しかし、祖国を持たなかったユダヤ人が(バルフォア宣言はさておき)、ドイツをはじめヨーロッパの国々でシチズンとして生きる基盤を確立していたのに、ユダヤ人というだけで隔離、逮捕、殺戮された歴史を、ドイツは少なくとも日本よりは直視しようとしている証しとして本作を位置づけられると思う。
一方「なぜ」に至らない現実を沖縄は示している。いや、「なぜ」を言ってはだめなのだ。知らない、考えない、想像力をはたらかせないことで沖縄はホロコーストとは違うし、日本はそのような非道に手を染めたことはないと思いたいの一心で今日まで来たのだから。
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分かりやすさを支える技術の魅力  ウィーン国立劇場バレエ団「こうもり」

2012-05-05 | 舞台
恥ずかしながらウィーン国立劇場には行ったのだが、よく覚えていない。演目は「眠れる森の美女」。奮発してボックス席をとったのだが、手前のボックス席の男性がかなり身を乗り出していて、こちら側からは舞台がよく見えなかったので、注意しようと思ったがドイツ語もできないし、泣いた覚えだけがある。そして幕前のシャンペンも高かった。
そのウィーン国立劇場バレエ団のおかぶ「こうもり」がやってきた。もともとはオペレッタ作品が本家だそうであるが、バレエになっても単純明快、他愛もない喜劇であることに変わりはない。倦怠期の夫婦は5人の子どもに恵まれ、幸せなファミリーを演じているが、夫ヨハンは妻ベラのベッドを抜け出し、夜な夜なこうもりとなって華やかな世界へ。ヨハンの愛を取り戻すべく共通の友人ウルリック(実はベラを愛している)のけしかけで、美しく変身したベラは、夫の入れ込む酒場で他の女性らを出し抜いて男性客を魅了する。ヨハンもベラとは知らずに求愛するが。
こうもりに変身するための羽をベラに切り取られたヨハンは、妻の尻に敷かれる哀れな夫になり、家族の平穏は保たれ、めでたし、めでたし。はたしてウルリックはそれを望んでいたのか難しいところだが、彼とて、ベラの家族の崩壊を望んではいないだろう。貴族社会はあくまで建前的にはすべて平穏無事、うまくいっていことが前提。ウルリックにとっては、ヨハンとベラがうまくいっていること、すなわち、ベラが幸せであることは望んだことだから。
ストーリーはさておき、ウィーン国立劇場バレエ団のパフォーマンスはどうか。同団のプリンシパルもソリストもロシアや東欧出身が多い。概して大柄である。今回西宮公演のベラ役はマリア・ヤコヴレワ。貞淑な妻、善き母から妖艶なレディ、悩殺女(悪女)に変身する様は、ジゼルや白鳥の湖などと同じく、両極端・好対照な女性像を演じる恰好の題材で、ダンサーの実力が問われる難しい役柄。貫録十分のヤコヴレワは長いスカートの主婦姿から太もも露わのピスチェのいでたちへ。そのピスチェ姿を覆っていたのはこうもりを想起させる黒いマント。悪女のマントにかかれば子どもじみたヨハンなどひとたまりもない。であるが、ヤコヴレワも見れば、ロシアはマリンスキー出身。決して小柄とは言えない迫力が、大きな衣を脱いだところで明らかになり、この魔女をどう遇せばというところで、やはり東欧はスロバキア出身のヨハン役、ロマン・ラツィクがこれまたかなりの体躯。ヤコヴレワをひょいとのリフトのシーンが幾度もあるが、貞淑、妖艶、蠱惑、欲情を自在に変化(へんげ)するベラに合わせたラツィクのパフォーマンスもとても高い。
そして、身体能力の高さを見せつけたのがギャルソンを演じた面々。さすがに難度の高い早いダンスの後は肩で息をしていたが、今回の演目そのものが、貴族が出入りする酒場や舞踏会を中心になされていることもあり、衣装が通常のバレエより重たく、複雑であったのにそれをものともせず踊り切るのはすごい。
楽しく、変化に富んだ演目の根底にあるのは観る者を「楽しませたい」との基本に徹した先ごろ亡くなったローラン・プティの振り付けによるところが大きいという。本家のオペレッタのエッセンスを欠かすことなく、バレエというサイレンスの世界に「粋」と「洒脱」を練りこんだプティの振り付けは、座ったままのボディラングエッジですべてを表現してみせる落語にも擬せられる。
先にあげたジゼルや白鳥といった演目は、有名ではあるがダンサーの実力を測り窺うにはそれなりの経験と審美眼がいるという。オペレッタがオペラという形式主義、重厚な芸術から庶民のものとして尊ばれるならば、オペレッタを起源とする本作も軽く、分かりやすいものがいい。その素人好みを満足、満喫させるのがウィーン国立劇場の「こうもり」である。
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