kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

生徒の成長から、教師の成長へ  「12ヶ月の未来図」

2019-05-24 | 映画

フランス映画には教育現場、それも移民の多いパリの20区など、の現実を明らかにする一連の学校映画がある。「パリ20区 僕たちのクラス」(https://blog.goo.ne.jp/kenro5/preview20?eid=c7210d4f26c8a795ee10ceac8388954c&t=6144111185ce52d4725b1a?0.9014866516127933)では、フランソワ!(本作と同じ「国語」教師)が丁寧に生徒一人ひとりと向きあう中で、言葉を自分の意思を伝える大切さを伝えていた。「12か月の未来図」も20区の困難校を舞台とする。高名な作家を父に持つフランソワはその新刊サイン会で教育改革の持論を口走り、居合わせた美人に注目される。彼女のランチの誘いにいそいそと出かけると、そこは国民教育省。彼女は教育困難校改革に取り組み専門家で、フランソワの「ベテラン教師こそ、困難校に派遣すべき」の第一号になってしまう。彼がこれまで教鞭をとっていたパリ中心部のエリート校、アンリ4世高校とは雲泥の差の郊外のバルバラ中学校。生徒は移民の子ばかりで勉強意欲ゼロ、自己評価も低く教室では集中できない。そんなクラスでアンリ4世校でしていたように高圧的、求めるレベルが最初から高い授業をしようとすると…。授業妨害したり、問題を起こす生徒は指導評議会でさっさと退学させる学校。生徒が変わっていくには教師自身が変わっていくしかない。それに気づいたフランソワは『レ・ミゼラブル』の全編読解を通して、生徒らに知的好奇心と自信を取り戻していく。トラブルばかり起こすセドゥはルーブル美術館での遠足で王の寝室で実際に寝るというとんでもない騒動を起こす。一緒だったマヤは退学猶予になったが、セドゥは即時退学に。セドゥをなんとか学校に戻したいフランソワは奔走し、その退学手続きに法令違反があることを見つけ、セドゥハ復学。フランソワの派遣業も間もなく1年の節目を迎える頃には、セドゥら生徒もフランソワを信頼している。

学校が良い方向に変わるのは生徒が変わるというのもあるだろうが、本作では教師が変わっていったところに焦点を当てる。ブルジョア出身で同じような階層の人たちとしか付き合ったことのなかった、教えたことのなかったフランソワはフランス語に対する愛があった。その愛を生徒らに届けたいと思った。ノンフィクションである「奇跡の教室」(「受け継ぐ者たちへ」 真に受け継ぐやり方とはhttps://blog.goo.ne.jp/kenro5/preview20?eid=943204852c48e2ab605caf53b313b004&t=3556695655ce74060c633e?0.19222755866463048)では、生徒らがホロコーストの実相を調べる中で成長していったが、実在の歴史の教員の熱意が描かれていた。その熱意とは生徒に教えるという教員としての当然の熱意もあるだろうが、教員自身の自分が教える科目に対する熱意が重要であると思う。そしてそれを保障する教育現場の環境も。

バルバラ中学の校長は事なかれ主義に見えたが、結局はフランソワの熱意と正義に負けている。教員の自主性を尊重する文化的基盤があるように見える。ひるがえって見れば、日本はどうか。大阪では生徒の学力テスト成績が悪い学校には予算を減らすという。子どもらの学力の背景には、その子らの環境、ひいては地域社会全体の環境と無縁ではないということが分かっていないらしい。そして、学校運営を民主的に進めようと模索する教員は教育委員会や校長の言うことを聞かない異分子として排除する。「移民政策ではない」と言い続ける政府の思惑とは逆に確実に移民とその子らが増える社会になるであろう、この国。12か月どころか長いスパンの未来図も描けないのは明らかだ。

 

 

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近代ロシア美術を満喫 「ロマンティック・ロシア」展

2019-05-18 | 美術

印象派の展覧会であるとか、フェルメールのそれであるとかに観客がわっと押し寄せるのは見慣れた光景であるが、ロシア美術となるとどうか。筆者の含めて多くの美術好きも詳しくはないのではないか。であるからかもしれない。本展はBunkamura ザ・ミュージアム以外は山形、岡山、愛媛とわりと地方の美術館ばかりの巡回展である。ところがこれがなかなかの見応えである。

「ロマンティック・ロシア」。なぜロマンティックなのか。それは膨大なトレチャコフ美術館の収蔵品の中から帝政ロシア末期の「移動派」を中心とした風景画、肖像画、風俗画にスポットを当てて集中的に集めているからだ。ロシア美術、それもロシア美術だけを集めるトレチャコフ美術館であればビザンツ美術の名品も展示されていて当然であろうが、今回は上記に絞っているからだ。狭い島国の日本 ―と言っても、行ったことのない土地が圧倒的に多いことから十分に広いと感じてはいるがー からすればあまりにも広大なロシアの大地を描くとはどういうことか。長い冬のイメージで春や夏などあるのか、といった偏見を超えて、彼らは描き続けた。それはおそらく狭いアカデミズムの一側面、と彼らが見なした、のとは違うロシアの自然、環境、人々の営みをリアリズムの視点で描きたかったからに違いない。イワン・ニコラエヴィチ・クラムスコイ、イワン・イワーノヴィチ・シーシキン、イサーク・イリイチ・レヴィタン、イリヤ・エフィーモヴィチ・レーピンといった「移動派」の画家らは、革命前後を通じてロシア画壇の重鎮を占めることになるが、それ以前はアカデミーに反発するかのごとく各地を移動展示せざるを得なかったのである。恥ずかしながら、肖像画の名手レーピン以外の名はよく知らなかったのだが、そこに描かれている風景画は冬の厳しさを迎えるまでの春や夏、秋の柔らかで静寂な断面を言わばフォトジェニックに切り取ったように見る者を安寧の心持ちに誘う。

本展の目玉であるクラムスコイの「月明かりの夜」(1880)と「忘れえぬ女(ひと)」(1883)は、モデルが変更になったり(月明かり)、不明であったり(忘れえぬ。ちなみに本作の原題はUnknown Lady)と必ずしもこの人の肖像画という扱いではないが、その魅力が減じることはない。クラムスコイはトルストイら著名人の肖像を数多く描いている画家であるが、この2点についてはもちろん著名人を描いたものではないし、「月明かり」については何か妖精でも棲みそうな空間にたゆたう、現実には存在しない女性を、一方「忘れえぬ」では観る者を逆にきりりと見据える女性は西洋画の伝統であるファム・ファタルさえ思わせる。

「移動派」が結成されたのが1870年。ペテルブルク美術アカデミーを追放された学生であったクラムスコイらが社会主義思想に影響を受け、リアリズム作品を各地で巡回したのち、革命後はソヴィエト社会主義リアリズムの権威化されるが、画家の表現形式と現実政治が一体化した成功例と言える。しかし、美術は現実世界の矛盾を追及したり、より新しい発想で現実を変えていこうとする表現者の試みの発露でもあるはずだ。そうすると「権威化」された時点で、「移動派」の絵を純粋に美しい、素晴らしいと思い込んでいたものが途端に有名作品になった“いわく”を粗探ししたくなる感性は邪魔者だろうか。

ところで筆者はトレチャコフ美術館に一度だけ行ったことがあるが、それまでの旅程の疲れとあまりにも広いので(併設の現代美術館もすごい)クタクタになってよく覚えていないのが情けない。

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