フランス映画には教育現場、それも移民の多いパリの20区など、の現実を明らかにする一連の学校映画がある。「パリ20区 僕たちのクラス」(https://blog.goo.ne.jp/kenro5/preview20?eid=c7210d4f26c8a795ee10ceac8388954c&t=6144111185ce52d4725b1a?0.9014866516127933)では、フランソワ!(本作と同じ「国語」教師)が丁寧に生徒一人ひとりと向きあう中で、言葉を自分の意思を伝える大切さを伝えていた。「12か月の未来図」も20区の困難校を舞台とする。高名な作家を父に持つフランソワはその新刊サイン会で教育改革の持論を口走り、居合わせた美人に注目される。彼女のランチの誘いにいそいそと出かけると、そこは国民教育省。彼女は教育困難校改革に取り組み専門家で、フランソワの「ベテラン教師こそ、困難校に派遣すべき」の第一号になってしまう。彼がこれまで教鞭をとっていたパリ中心部のエリート校、アンリ4世高校とは雲泥の差の郊外のバルバラ中学校。生徒は移民の子ばかりで勉強意欲ゼロ、自己評価も低く教室では集中できない。そんなクラスでアンリ4世校でしていたように高圧的、求めるレベルが最初から高い授業をしようとすると…。授業妨害したり、問題を起こす生徒は指導評議会でさっさと退学させる学校。生徒が変わっていくには教師自身が変わっていくしかない。それに気づいたフランソワは『レ・ミゼラブル』の全編読解を通して、生徒らに知的好奇心と自信を取り戻していく。トラブルばかり起こすセドゥはルーブル美術館での遠足で王の寝室で実際に寝るというとんでもない騒動を起こす。一緒だったマヤは退学猶予になったが、セドゥは即時退学に。セドゥをなんとか学校に戻したいフランソワは奔走し、その退学手続きに法令違反があることを見つけ、セドゥハ復学。フランソワの派遣業も間もなく1年の節目を迎える頃には、セドゥら生徒もフランソワを信頼している。
学校が良い方向に変わるのは生徒が変わるというのもあるだろうが、本作では教師が変わっていったところに焦点を当てる。ブルジョア出身で同じような階層の人たちとしか付き合ったことのなかった、教えたことのなかったフランソワはフランス語に対する愛があった。その愛を生徒らに届けたいと思った。ノンフィクションである「奇跡の教室」(「受け継ぐ者たちへ」 真に受け継ぐやり方とはhttps://blog.goo.ne.jp/kenro5/preview20?eid=943204852c48e2ab605caf53b313b004&t=3556695655ce74060c633e?0.19222755866463048)では、生徒らがホロコーストの実相を調べる中で成長していったが、実在の歴史の教員の熱意が描かれていた。その熱意とは生徒に教えるという教員としての当然の熱意もあるだろうが、教員自身の自分が教える科目に対する熱意が重要であると思う。そしてそれを保障する教育現場の環境も。
バルバラ中学の校長は事なかれ主義に見えたが、結局はフランソワの熱意と正義に負けている。教員の自主性を尊重する文化的基盤があるように見える。ひるがえって見れば、日本はどうか。大阪では生徒の学力テスト成績が悪い学校には予算を減らすという。子どもらの学力の背景には、その子らの環境、ひいては地域社会全体の環境と無縁ではないということが分かっていないらしい。そして、学校運営を民主的に進めようと模索する教員は教育委員会や校長の言うことを聞かない異分子として排除する。「移民政策ではない」と言い続ける政府の思惑とは逆に確実に移民とその子らが増える社会になるであろう、この国。12か月どころか長いスパンの未来図も描けないのは明らかだ。