kenroのミニコミ

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新鮮、明快な議論提起に快哉  『カネと暴力の系譜学』

2007-07-14 | 書籍
『SIGHT』誌2007年夏号で東浩紀が萱野稔人と対談したときのことを紹介している。東といえばデリダ研究者、萱野もフランス哲学出身、両者とも30代気鋭の学者である。東は国家は暴力の独占装置にほかならず、その独占には正当性がなく、したがって国家は本質的にヤクザと変わらないとする萱野の論に賛成であるとする。が、同誌では国家の縮小に反対する萱野には諾いと東はする。
細かい議論、筆者の理解力にあまる議論はここでは措いておくが、萱野『カネと暴力の系譜学』は萱野の上記論を書き下ろしたものである。国家が暴力を唯一「合法的に」独占し、それを執行している主体であり、時にヤクザと変わらない凶暴さをもって国民に襲いかかるとする論は別に新鮮ではない。が、私たちが思っていたことをこれほど明確に述べられると爽快である。いや、国家が暴力を独占、行使する情景はたとえばデモ行進をしていると公安警察や機動隊があからさまに排除、妨害してくるとか、時には逮捕までしてくるとかで思い浮かぶが、国家がヤクザと同じというのは実は認識していたようでそうではない。
国家とはどのようなことをするか、できるかを考えたとき、法律をつくるというのがある。それは国家にとって有用で、無政府主義者にトクになる法律をつくることはない。法律の制定、施行、執行機関がすべて国家であるということに国家に生きることに痛痒を感じない私たちは無自覚である。しかし、戦争は国家がするものであり、国家を背景にしない軍事闘争は「内戦」とくくられてしまう。萱野は暴力から始まって資本主義が内包するカネ(=所有)の成り立ちまで思いを馳せる。資本主義は国家から派生してきたのではないかと。
筆者の理解力を越えてはいるが、実は、柄谷行人の国家ではなく交換から資本主義が生まれたとする説明(『世界共和国へ』など)にうなずいていた者にとって、この論はあまりにも新鮮、そして「反」国家的概念として魅力的である。すなはち国家がなければ、あるいは国家が暴力独占の様相を強化しなければ(そういうことは考えにくいが)資本主義とも袂を分かつことができるのではないか。おそらくはここでいう資本主義とは新自由主義やリバタリアニズムなど個を捨象したところでしか存在しえないシステムとしての政治形態それ自体なのかもしれない。
東は萱野の国家縮小反対論を自分とは立場が違うとしているが、おそらくは萱野の社会民主主義的な立場を実現可能なものかどうかも含めて、それらを指向することによって現実にオミットする、あるいはしない姿勢を表してるのもしれない、と感じる。
リベラルな自立層、浅野前宮城県知事であるとか、北川前三重県知事であるとかが必ずしも「大きな政府」志向でないことの違和感が氷解したように思えた。
コメント
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