kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

周囲の物語でアンネの時代を思う 『アンネ・フランクはひとりじゃなかった』

2023-04-23 | 書籍

アムステルダムの一大観光地は「アンネ・フランク・ハウス」である。2年以上アンネら一家が潜んだ隠れ家が再現され、企画室は、人権に関わる様々なプロジェクトが紹介、展示されている。見て感じ、アンネの時代に想いをはせることのできる素敵な施設だ。本書の後書きにあるようにアンネとその隠れ家には皆興味を抱き、関心を持つが、その周囲の状況はどうであったかの関心は薄い。アンネ一家がナチスに捕らわれたのは密告によると言われる。ならば、アンネ一家が暮らした家のみならず、その街はどのようなものであったか、誰がどんな暮らしをしていたのか。生存者からの聞き取りや膨大な公文書資料などを渉猟し、アンネの暮らしたメルウェーデ広場とその周辺の姿を立体的に明らかにしたのが本書である。

メルウェーデ広場は、ドイツから逃れてきたユダヤ人コミュニティーであった。逃れてきた当初は、ここなら大丈夫という安心の地であったろう。しかし、オランダにもナチス・ドイツの支配が及ぶにいたって、広場も安住ではなくなる。次々に捕えられるユダヤ人、ユダヤ人以外ですすんで手先となる者、そしてレンジスタンス運動に身を委ねる者。しかし、1933年から34年にかけて広場に移住したフランク一家にとって、隠れ家に身を潜めるまで8年あった。だからアンネも学校に通い、友だちと遊び、時に大人を困らせたりする「子どもらしい」時間を過ごしていたのだ。直接、間接を問わず、フランク一家となんらかの繋がりのあった人たち、その周辺の人たち、そして、そのまた周辺の人たちがコミュニティーを形成し、時に助け合い、突然いなくなったりした。そう、フランク一家も家族を助けたミープ家以外の者にとっては「突然いなくなった」のだ。

オランダはドイツに併合、支配されることまではないだろうと移った人たち。そして、オランダでは生きながらえていけると。しかし、結局ナチドイツに占領され、オランダ王国は英国へ逃れ亡命政府を樹立する。亡命政府に、自国民の安寧、ましてや移住してきたユダヤ人を助ける力はない。だからコミュニティーで助け合っていたのだ。しかし、ユダヤ人であるからユダヤ教が紐帯となっていたとは限らない。熱心な教徒も居れば、シナゴーグに行くのも億劫な人もいたようだ。だから宗教がコミュニティーを支えていた理由というより、むしろドイツから逃れてきた同じエグザイルやエクソダスとの立場での共同であったのだろう。しかし、緩やかな共同であっても、ナチスから見れば皆同じ絶滅対象であったことが間違いない歴史的事実だ。

著者のリアン・フェルフーフェン自身、メルウェーデ広場の住人である。そして、アンネの死去(1945年2月頃、アウシュビッツ絶滅収容所からベルゲン=ベルゼン強制収容所に移送後死亡)頃までに至る、広場の住人の去就を克明に追っている。調査時には、まだ、生存している人もいたからだ。一人ひとりの物語は、同時に一人ひとりの尊厳を描く。多くが絶滅収容所に送られるギリギリまで、貧しく、苦しくとも豊かで、幸せな時期もあった人たちだ。そして、その一人ひとりは、時にエゴイスティックで慈悲深く、家族や仲間を大事に思い、時に裏切り、厳しい選択をせざるを得なくなった小さく、弱い人間であった。だからこそ、アンネと同じく生の物語が大事に語られるのだ。いく人ものアンネがいた。

アンネ・フランクはひとりじゃなかった。

(『アンネ・フランクはひとりじゃなかった アムステルダムの小さな広場 1933-1945』みすず書房、2022年)

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「生きる」とは「生きていくこと、生きていること」  カズオ・イシグロの世界に再び

2023-04-05 | 映画

黒澤明ファンでも、古い日本映画ファンでもないので、さすがに志村喬版は見たことがない。それでも、カズオ・イシグロ脚本にかかる本作を見れば、黒澤・志村の「生きる」が名作であることが偲ばれる。

ストーリーに現代のようにひねりがあるわけではない。余命いくばくもないことを知った男が、無気力に生きてきた自身の現在、生き方を見つめ直し、最後にやり遂げる仕事を見出す。言ってしまえばただそれだけだ。もちろん彼が正気を取り戻したのには、職場の部下である溌剌とした若い女性の存在がある。これは老いらくの恋ではないし、下心でもない。彼女は、階層的には上流出身ではなく、洞察力深い人物にも描かれていない。若さとそこから迸る衒いのなさだけが取り柄にも見える。しかし、そこに彼は「生きる」意味とその表し方を見とったのだ。そう、「生きる」ことの崇高さを見出したのだ。

日本人のルーツを持つカズオ・イシグロが小津安二郎の世界ではなく黒澤映画、それも「生きる」を選んだことに英国と日本、明快ではない曖昧な態度、本質を直接は問わないその文化的近似性に着目したからの成功と言えるだろう。カズオ・イシグロの世界は静謐、特に大きな事件も起こらず、展開も穏やかであるのに読む者を引き込む。『クララとお日さま』は未読だが、『日の名残り』の語り手のとても抑えた、それでいてページを繰るのももどかしいくらいの展開にワクワクし、アンソニー・ホプキンスの映画版も何度も見たことを思い出す。そのイシグロが選んだのが「生きる」。戦後間もない頃を時代背景として、敗戦国の日本と戦勝国の英国。とは言え、どちらも戦後復興からこれからという時代。高度経済成長はまだだが、これからは戦争もなく、働いて自分も家庭も国も上向きになるだろう。主人公は世代的に戦争も経験している。出征経験もあるかもしれない。それが、不治のガンと知り、半ば自暴自棄になるが、それまで自分は一所懸命に生きてきたのか、なすことをなしてきたかと反芻すると、光が見えてきた。人の「生きる」には死とは違った終わり方があるのだと。

ウィリアムズ演じるビル・ナイがいい。風貌はリタイアしてもいい老齢だが、部下はいるが役所の一介の市民課の課長。部署間の関係もあり、権限が大きいわけではない。たらい回しにしてきた案件、地区の婦人らが陳情してきた公園整備がある。死期を知り、貯金をおろして無断欠勤を続けるウィリアムズは、街で部下のマーガレットに会い、何かと誘い出す。戸惑うマーガレット。しかし、ウィリアムズが、忙しそうにして自分の退職金だけが目当ての息子にはガンを告げられないでいるのに、マーガレットには打ち明ける。驚くマーガレットの頬を伝う涙がとてつもなく美しい。本作で一番好きなシークエンスだ。やっと他者に自己の残された時間の短さを伝えられたウィリアムズは、公園整備に残り時間の全てをかける。

マーガレットに「ゾンビ」とあだ名を付けられていたウィリアムズが「復活」したのだ。黒澤の「生きる」には、戦中世代の志村演じる渡辺の記憶、それは戦時中賛美された「散華」という戦場で死ぬことこそ美とする倒錯した価値観を見出すのは容易だろう。しかし、ウィリアムズの「復活」は死して、あるいは死ぬ前の底力といった嫌らしい見方はしたくない。「生きる」ということは、時流を含めいかなるものにも流されず、流されていることを自覚しつつ、それに抗う自己確認の絶え間ない、弛まない作業なのだろう。

かくも「生きる」というのは深く、尊いものなのだ。

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