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kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

「赦し」が希望のキーワード  あなたを抱きしめる日まで

2014-03-23 | 映画
結末を先に言ってしまうと、フィロミナは自分の息子をアメリカ人に売り飛ばし、かつその事実と息子が母親を探していたことを教えなかったシスターを赦した。「赦す」と一言。
なぜ赦したのだろうか、赦すことができたのだろうか。
イギリス映画はウィットに富んでいる。少女の時、妊娠したため修道院に放り込まれ出産、きつい労働を続ける中、愛息とも引き離され、その後看護婦として庶民を生きてきたフィロミナ。一方、オックスフォード出で、高級住宅街ナイブリッジに住む元やり手ジャーナリストのマーティン。二人の会話はスムースにはいかない。
通俗小説のあらすじ、結末までべらべらしゃべるフィロミナに対し、T.S.エリオットの章句を引用するマーティン。ファミレスでサラダバーをてんこ盛りするフィロミナと朝夕のジョギングを欠かさないマーティン。でもどこかお互いに自分と違う境遇の人間を戸惑い、そして受け入れていく。その微妙な間合いがいい。そして予想外の相手の言動に黙ってしまうのではなく、ほんの一瞬考え返すあたり。当意即妙とは英国人のためにあるような熟語で、階級社会であるイギリスの階級格差がそれらウィットによって埋め合せられたと錯覚するようないい距離感。そして最後には信頼を糧とした階級を超えた親近感。
褒めすぎだが、本作は実話ゆえにその悲劇と犯罪性、そして希望をも明らかにしている。悲劇は、母親が子どもと無理やり引き離されること、犯罪性とはその引き離しが母親の意思と関係なく金銭が絡んでいること、そしてその事実を隠ぺいし続けたこと。それらすべてがカトリック修道院の仕業であること。
イギリスの海外養子縁組の不透明さ、当事者を無視した不誠実さについては「児童移民」を取り上げた「オレンジと太陽」でも取り上げられたが(歴史の直視にまた教えられる「児童移民」の真実 オレンジと太陽 http://blog.goo.ne.jp/kenro5/s/%C2%C0%CD%DB)、また一つ明らかになったのがカトリック修道院の犯罪行為である。背景が重要だ。というのはフィロミナは、アイルランド人でその地はカトリックの強固なところ。フィロミナから子どもを引きはがし、嘘をつき続けた修道女が言い放つ。「(性交、未婚で妊娠という)罪を犯した」ことを神が赦さないと。しかし、今は信仰のないマーティンはフィロミナに代わって怒りをぶつける。嘘をつき続けたことこそ神は赦すのかと。
信仰をめぐる問答は時に宗派を超えて?禅問答にもなる。それは不合理や不条理をアプリオリに内包したことで成り立つのが信仰という、それこそトートロジーそのものだからだ。しかしこのようなトートロジーは、具体的、現実的な争いを惹起しない場合は信仰の価値が見直される。であるから、フィロミナはシスターを赦したのかもしれない。アイルランド国内ではベルファストを中心に長い間カトリックとプロテスタント勢力が暴力で争っていた。しかし現在「赦す」をキーワードに新たな暴力の再燃はないように見える。朴裕河が「赦し」を前提として、教科書や独島(日本名「竹島」)にまつわる諍いの解決を提示したとき(『和解のために』2006年 平凡社刊)、筆者はこちらからは言えないが被害者の赦しが戦後補償問題の解決の糸口にも見えた。もちろん赦すことと忘れることは同義ではない。少なくとも加害者の側から「赦せ」「忘れろ」とは言えないが。
フィロミナの赦しに能力主義、弱肉強食の世界で勝ち抜いてきた、が今は厳しい境遇のマーティンこそ救われたように見える。それも緩やか、曖昧な形で。重いテーマがすっと入ってくる。イギリス映画の余裕にまたこちらが「救われた」。それが希望であると思う。
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国家の過ちは普段に直視しなければならない   「それでも夜は明ける」

2014-03-22 | 映画
民主主義は定義が難しい。国家の意思決定を主権者たる構成員の国民が行う、と言っても…
国民が主役の民主主義は、国民が選択した国家(権力)の行為に普段の監視を続けなければならないし、国家が過ちを犯した場合はその過ちを検証・反省しなければならない。という行為を永遠にし続けることこそが民主主義足る所以であろう。であるならば、アメリカは日本より大分民主主義「度」が進んでいると思わざるを得ない。
国家として歴史の浅いアメリカは、大英帝国からの自由を求めて、宗教的にはカトリックの規範を破った英国独自のキリスト教の自由度を嫌い、海を渡りつくられた国である。アメリカが認めた自由はアフリカから大量の黒人奴隷を「輸入」する自由であり、求めた自由は人間は皆平等であるという民主主義を叶える自由であった。
しかし、多種多様な市民の合意を形成していくという民主主義のルールは、時に富や財、己の欲望を実現するためなら他者を差別しても構わないとする自由主義と衝突する。その争いによって統一を目指したのが南北戦争であり、奴隷制度という人間の尊厳を根本から否定した前近代的価値観を墨守するか打破するかの相克であった。
そもそも奴隷ではない「自由黒人」であったソロモン・ノーサップ自身、自由でない黒人がいることを前提にその身分が保証されていたのであるから、同じ黒人、いや人間の中に差別が存在することを認めていたのと同様である。しかし、奴隷を人間ではなく所有物としていた支配層たる白人こそここでは責められるべきであろう。そして、ノーサップが白人に騙されて奴隷にされるところから物語は始まる。
最初の主人フォードは温厚で、プラット(ノーサップに無理やり付けられた奴隷名)を頼りにする。がそれが面白くないフォードの下で働く大工のティビッツに目の敵にされ、ついに命まで奪われそうになる。プラットをティビッツから遠ざけるため、フォードは彼を綿花畑の所有者エップスに売る。フォードにとっても奴隷はやはり売買する所有物にすぎなかったのだ。アカデミー賞受賞作とあって、作品そのものも意義深いが、俳優陣がすばらしい。なかでも、プラットら黒人を恐怖で支配し、若い女性奴隷パッツィーを性的にも搾取する卑劣極まりない綿花農園主エップスを演じたマイケル・ファスベンダー。「ジェーン・エア」(シンプルな筋立てに普遍性を実感  「ジェーン・エア」http://blog.goo.ne.jp/kenro5/e/b6ec3bbbc9f387aa9a1c878380eba6e7)で暗く陰のある、そして狂気も内包したようなロチェスターを演じたファスベンダーは、本作の監督スティーヴ・マックィーンの出世作「SHAME シェイム」でセックス依存症の男を演じた怪優であり、名優である。それに賢さ、機転、能力のどれをとっても自分にはないため白人というだけの優越性でプラットを虐げるティビッツを人品卑しく演じたポール・ダノも抜群。助演女優賞を射止めたパッツィー役のルピタ・ニョンゴもはまっていた。
南北戦争で勝利する北部連合リンカーン大統領が奴隷解放宣言をしたのが1862年。ノーサップの囚われた12年の最終年はそれより10年も以前だが、それほど夥しい数のプラットらが国家として解放を宣言されるのに10年もかかったということでもある。日本では江戸幕府末期の時代、封建時代の身分制度が否定されたのは、明治になってから。しかし言うまでもなく天皇制を抱いた「近代」国家日本は皇族という特別の身分を保ち、被差別(民)をも形成した。
黒人を奴隷から解放したアメリカに黒人差別がいまだなくなっていないことは自明である。しかし、近代化の過程で自らの国家が犯した過ちをたとえ映画というエンタテイメントの手法によっても直視しようとした国との違いは大きい。
本作の日本タイトルは「それでも夜は明ける」。ノーサップの決してあきらめない思いを表しているであろうが、やはり「12 YEARS A SLAVE(12年、奴隷として)」でいいのではないだろうか。
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