結末を先に言ってしまうと、フィロミナは自分の息子をアメリカ人に売り飛ばし、かつその事実と息子が母親を探していたことを教えなかったシスターを赦した。「赦す」と一言。
なぜ赦したのだろうか、赦すことができたのだろうか。
イギリス映画はウィットに富んでいる。少女の時、妊娠したため修道院に放り込まれ出産、きつい労働を続ける中、愛息とも引き離され、その後看護婦として庶民を生きてきたフィロミナ。一方、オックスフォード出で、高級住宅街ナイブリッジに住む元やり手ジャーナリストのマーティン。二人の会話はスムースにはいかない。
通俗小説のあらすじ、結末までべらべらしゃべるフィロミナに対し、T.S.エリオットの章句を引用するマーティン。ファミレスでサラダバーをてんこ盛りするフィロミナと朝夕のジョギングを欠かさないマーティン。でもどこかお互いに自分と違う境遇の人間を戸惑い、そして受け入れていく。その微妙な間合いがいい。そして予想外の相手の言動に黙ってしまうのではなく、ほんの一瞬考え返すあたり。当意即妙とは英国人のためにあるような熟語で、階級社会であるイギリスの階級格差がそれらウィットによって埋め合せられたと錯覚するようないい距離感。そして最後には信頼を糧とした階級を超えた親近感。
褒めすぎだが、本作は実話ゆえにその悲劇と犯罪性、そして希望をも明らかにしている。悲劇は、母親が子どもと無理やり引き離されること、犯罪性とはその引き離しが母親の意思と関係なく金銭が絡んでいること、そしてその事実を隠ぺいし続けたこと。それらすべてがカトリック修道院の仕業であること。
イギリスの海外養子縁組の不透明さ、当事者を無視した不誠実さについては「児童移民」を取り上げた「オレンジと太陽」でも取り上げられたが(歴史の直視にまた教えられる「児童移民」の真実 オレンジと太陽 http://blog.goo.ne.jp/kenro5/s/%C2%C0%CD%DB)、また一つ明らかになったのがカトリック修道院の犯罪行為である。背景が重要だ。というのはフィロミナは、アイルランド人でその地はカトリックの強固なところ。フィロミナから子どもを引きはがし、嘘をつき続けた修道女が言い放つ。「(性交、未婚で妊娠という)罪を犯した」ことを神が赦さないと。しかし、今は信仰のないマーティンはフィロミナに代わって怒りをぶつける。嘘をつき続けたことこそ神は赦すのかと。
信仰をめぐる問答は時に宗派を超えて?禅問答にもなる。それは不合理や不条理をアプリオリに内包したことで成り立つのが信仰という、それこそトートロジーそのものだからだ。しかしこのようなトートロジーは、具体的、現実的な争いを惹起しない場合は信仰の価値が見直される。であるから、フィロミナはシスターを赦したのかもしれない。アイルランド国内ではベルファストを中心に長い間カトリックとプロテスタント勢力が暴力で争っていた。しかし現在「赦す」をキーワードに新たな暴力の再燃はないように見える。朴裕河が「赦し」を前提として、教科書や独島(日本名「竹島」)にまつわる諍いの解決を提示したとき(『和解のために』2006年 平凡社刊)、筆者はこちらからは言えないが被害者の赦しが戦後補償問題の解決の糸口にも見えた。もちろん赦すことと忘れることは同義ではない。少なくとも加害者の側から「赦せ」「忘れろ」とは言えないが。
フィロミナの赦しに能力主義、弱肉強食の世界で勝ち抜いてきた、が今は厳しい境遇のマーティンこそ救われたように見える。それも緩やか、曖昧な形で。重いテーマがすっと入ってくる。イギリス映画の余裕にまたこちらが「救われた」。それが希望であると思う。
なぜ赦したのだろうか、赦すことができたのだろうか。
イギリス映画はウィットに富んでいる。少女の時、妊娠したため修道院に放り込まれ出産、きつい労働を続ける中、愛息とも引き離され、その後看護婦として庶民を生きてきたフィロミナ。一方、オックスフォード出で、高級住宅街ナイブリッジに住む元やり手ジャーナリストのマーティン。二人の会話はスムースにはいかない。
通俗小説のあらすじ、結末までべらべらしゃべるフィロミナに対し、T.S.エリオットの章句を引用するマーティン。ファミレスでサラダバーをてんこ盛りするフィロミナと朝夕のジョギングを欠かさないマーティン。でもどこかお互いに自分と違う境遇の人間を戸惑い、そして受け入れていく。その微妙な間合いがいい。そして予想外の相手の言動に黙ってしまうのではなく、ほんの一瞬考え返すあたり。当意即妙とは英国人のためにあるような熟語で、階級社会であるイギリスの階級格差がそれらウィットによって埋め合せられたと錯覚するようないい距離感。そして最後には信頼を糧とした階級を超えた親近感。
褒めすぎだが、本作は実話ゆえにその悲劇と犯罪性、そして希望をも明らかにしている。悲劇は、母親が子どもと無理やり引き離されること、犯罪性とはその引き離しが母親の意思と関係なく金銭が絡んでいること、そしてその事実を隠ぺいし続けたこと。それらすべてがカトリック修道院の仕業であること。
イギリスの海外養子縁組の不透明さ、当事者を無視した不誠実さについては「児童移民」を取り上げた「オレンジと太陽」でも取り上げられたが(歴史の直視にまた教えられる「児童移民」の真実 オレンジと太陽 http://blog.goo.ne.jp/kenro5/s/%C2%C0%CD%DB)、また一つ明らかになったのがカトリック修道院の犯罪行為である。背景が重要だ。というのはフィロミナは、アイルランド人でその地はカトリックの強固なところ。フィロミナから子どもを引きはがし、嘘をつき続けた修道女が言い放つ。「(性交、未婚で妊娠という)罪を犯した」ことを神が赦さないと。しかし、今は信仰のないマーティンはフィロミナに代わって怒りをぶつける。嘘をつき続けたことこそ神は赦すのかと。
信仰をめぐる問答は時に宗派を超えて?禅問答にもなる。それは不合理や不条理をアプリオリに内包したことで成り立つのが信仰という、それこそトートロジーそのものだからだ。しかしこのようなトートロジーは、具体的、現実的な争いを惹起しない場合は信仰の価値が見直される。であるから、フィロミナはシスターを赦したのかもしれない。アイルランド国内ではベルファストを中心に長い間カトリックとプロテスタント勢力が暴力で争っていた。しかし現在「赦す」をキーワードに新たな暴力の再燃はないように見える。朴裕河が「赦し」を前提として、教科書や独島(日本名「竹島」)にまつわる諍いの解決を提示したとき(『和解のために』2006年 平凡社刊)、筆者はこちらからは言えないが被害者の赦しが戦後補償問題の解決の糸口にも見えた。もちろん赦すことと忘れることは同義ではない。少なくとも加害者の側から「赦せ」「忘れろ」とは言えないが。
フィロミナの赦しに能力主義、弱肉強食の世界で勝ち抜いてきた、が今は厳しい境遇のマーティンこそ救われたように見える。それも緩やか、曖昧な形で。重いテーマがすっと入ってくる。イギリス映画の余裕にまたこちらが「救われた」。それが希望であると思う。