kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

「考えるな」の強制は教育に反する  『ルポ「日の丸・君が代」強制』

2021-01-31 | 書籍

恥ずかしいことも含めて自分のことから書く。以前、仕事でミスをした。迷惑をかけてしまった直接の当事者の人には当然、謝罪しないといけないし、なぜそのようなミスを冒してしまったか職場への説明も要る。直属の上司から経緯を説明する「顛末書」を出すように言われて書いた。そこには当事者への謝罪は記した。しかし、その「顛末書」は、自分の上司の上司、すなわち私が属するセクションのトップへの謝罪の文言がないと突き返された。私は、当事者への謝罪はするが、トップへの謝罪はこの文書では不要と考えたので書きませんと答えた。上司は「このままで出すのですね」と何回も書き直させようとしたが、私が聞き入れないので困ったふうで「分かりました」。多分、データで渡していたので彼がトップへの謝罪を書き加えて出して、トップもそれも分かった上で受け取ったのだろう。私の処分は「口頭注意」だった。

『ルポ「日の丸・君が代」強制』は、東京と大阪で吹き荒れた「狂妄派」による現場教員に対するすさまじい強制の実態報告である。「狂妄派」とは、「野心あって識見なく」「「日の丸・君が代」の「強制」そのものが目的と化している人たちだ。「10・23通達」(2003年。石原慎太郎東京都知事)や「国旗・国歌条例」(2011年)「(大阪府)職員基本条例」(2012年。いずれも制定時は橋下徹大阪府知事)をタテに不服従の教員を処分しまくった、学校・教育の主人公は生徒ではなく、生徒も教員もなんの異議も唱えない、疑問を持たない人間を育てる教育の目的とは全く正反対の天皇制軍国主義教育の再来である。卒・入学式での「君が代」時に起立・斉唱を求める通達や条例は、「君が代」が素晴らしいからとか、そのことによってどのような教育効果があるからとか述べるものではない。ただ、起立して歌え、さもなければ命令違反で処分する、ということだけである。ここには、なぜそうすべきなのかや、その根本にはどういう理由があるのかという「なぜ?」を持つこと自体を否定している。反知性主義である。

10・23通達や大阪府の条例に反した行動をとった(単に「起立しなかった」)教員らへの処分はいじめ、精神的拷問は猖獗を極める。戒告回数を重ねたら免職までありえる。それも上述のとおり、「君が代」に反対したからではない(強制には反対と「座る」という極めて穏当な行為をしたに過ぎない。)、教育委員会が校長に出させた職務命令に反したからという、命令至上主義の結果である。ここでは職務命令が合憲か、合法か、いやそもそもそのような職務命令を教育の場で出すことがふさわしいのかという逡巡さえない。それはたとえ教員が起立・斉唱していても、その教員のクラスの生徒が一人でも起立・斉唱してなかったら教員が処分されるという実態において、教員そのものよりも生徒全員、教育現場そのものが上からの命令には一切の疑問を挟まずにあれという民主教育とは真っ向から反するファシズム体制そのものである。

人間誰しもミスはある。私のミスと処分は「君が代」被処分の教員らに比べたら、思想・信条に関わるものではないし、ほんの小さな出来事であった。「君が代」処分はミスでさえもない。しかし、私の場合は精神的にはキツかった。職場に鷹揚さ、余裕がなく、職員の萎縮を目的とするかのような職場にい続けることが本当に辛かった。大阪で処分された人たちには顔見知りの方もいる。今回、東京・大阪で行われた「日の丸・君が代」処分の実態が時系列的にもコンパクトに、本人らの声が聞けてよかったと思うが、自己の良心を賭けて教育を守ろうとした彼らへの支援は十分だったかとの悔悟もある。そして「君が代」処分は過去のことではなく、現在進行形で、もう起立する・しないの判断さえ思い浮かばない若い教員が多数の中で学校はもう自由を教える場ではなくなっている。痛い。(永尾俊彦著 2020 緑風出版)

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聖と賤、善と悪。内包する両面に困難さを描く  「聖なる犯罪者」

2021-01-29 | 映画

キリスト教文化圏においては、聖書の登場人物の名がつけられることが多いのはよく知られるところだ。ダニエルは旧約聖書に出てくる四大預言者の一人で、ライオンの洞穴に投げ込まれたりするが、7日間生きながらえて、見つけた者が神の力を知る(ジェイムズ・ホール『西洋美術解読事典』)。四方田犬彦によれば、美術ではライオンに取り囲まれ半裸で両腕を高々と上げる姿で描かれることが多いという。偽の司祭ダニエルが信者らに自らの身分を明かし、去っていくクライマックス・シーンである。

少年院から仮退院したダニエルは、訪れた村の教会で「自分は司祭だ」と冗談を言ったため、本当にその役目を担うことになる。説教も自己流だが、これまでにないパフォーマンスで信者を引きつける。しかし、1年前の自動車事故で6人の若者と衝突した運転手の件を洗い出そうとして村人の反感を買う。若者らの遺族は運転手スワヴェクの飲酒が原因、一方的に加害者だと思っていたが、教会の手伝いの娘マルタは兄らが乗車前にひどく飲酒をしていた事実を知っていてダニエルに協力する。スワヴェクの妻エヴァの元には遺族らの罵り、脅迫の手紙がたくさん届いていることも知る。そして、スワヴェクは4年間も禁酒していて検視で陰性だったことも。ミサで集めたお金でスワヴェクの葬儀と墓への埋葬を告げるダニエルの元に現れたのは、ダニエルに信仰の大事さを教えた神父トマシュだった。ミサを止めさせようとするトマシュ(ダニエルが名乗っていた偽の司祭名でもある)から逃れて、教会に待つ信者らの前での行動が冒頭に述べた司祭服を脱ぎ捨て、出ていくダニエルの姿である。

これは聖と賤、あるいは善と悪の物語であろうか。信仰に使え、自己を律しきれるのが聖で、まだ若い子供らを失ったとはいえ、その真実に向き合おうとせず一方的にスワヴェクと妻エヴァを非難、攻撃する遺族たちが賤なのだろうか。あるいは、村人に信仰の大切さと教会へ足を向けさせたダニエルの行いは善ではあるが、そもそも殺人という前科を持つダニエルは悪であるのか。さらに、憎しみは赦しでしか納め得ないという信仰というより、人間が生きながらえる上で編み出した自己保存とその方法論を示した救済の道すじなのであろうか。

答えは簡単には出そうにない。しかし、本作は実際にあった偽司祭の件を元に脚本が書かれたそうで、最後にはエヴァが教会にも出かけることができ、村人もそれを許容する姿が事実なら、偽物がなした行いが、和解こそが癒しにもなるという真実を作り出したことになる。ただ、遺族らもエヴァもその件だけでわだかまりが完全に払拭されることはないだろう。ダニエルの行いに過去を蒸し返すなと横槍を入れる町長など、ことを荒げずに済まそうという力はいつの時代も強い。時間が必要なのだろう、和解と癒しには絶対。

改心するというのはいろいろな宗教で説かれる重要な要素だが、いわば実績をあげたダニエルは決して司祭にはなれないし、かといってトマシュ神父が彼にかけた言葉「なれなくとも他に信仰のやり方がある」もすぐには胸に落ちないだろう。それほど信仰とは実に内面的なものだと思えるのは筆者だけであろうか。本作の原題は「キリストの体」。仏教などと違い、肉体の復活そのものがキリスト教では最重要教義の一つ。スワヴェクの葬儀と埋葬を許さなかった村人らの理由もカトリックの強いポーランドならではの小さな村の姿であったのだ。そしてトマシュは、キリストの死と復活を疑った使徒として描かれることも多いのが意味深だ。素人にも分かりやすく、入り込めやすい優れたキリスト教映画であると思う。

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花森安治のデザインとその背景に出会う  「花森安治 『暮らしの手帖』の絵と神戸」展

2021-01-19 | 美術

新型コロナウイルス感染症禍の下、巣篭もり需要で生活調度品、調理器具や家電の売れ行きが好調という。暮らしに潤いをもたらす工夫は、モノに限らないが、選ぶなら使いやすい、その生活スタイルにフィットする、そして長く使用できるなどが重要だろう。現在、日本中、いや世界中あまねく目指せ?と鼓舞されているSDGs(持続可能な開発目標)を先取りしたような地球に優しく、個々の豊かさを満喫できる暮らしのあり方だ。それを戦後間もない頃から提唱していたのが『暮らしの手帖』(1〜26号、1954年12月1号までは『美しい暮らしの手帖』)である。

NHK連続テレビ小説「とと姉ちゃん」で唐沢寿明演じた頑固な編集者は花森がモデルだが、そこで描かれたのは、戦争に協力した自己の過去に苛まれ、大橋鎭子(暮らしの手帖社社長。「とと姉ちゃん」では高畑充希演じる小橋常子)の勧誘になかなか首を縦に振らない姿であった。本展覧会では、花森の戦争への関わり、思いに焦点を当てたものではないので、その点はすぐには見えにくい。しかし、花森が徹底的にこだわった毎号の表紙、幅広く呼び込んだ随筆の数々、そして暮らしを、平穏な日常を彩る家事の道具や衣装など、平和な日々であるからこそ得られる反戦の証ではなかったか。

花森が死の直前まで描いた表紙のモダンさはどうだ。その丁寧な筆はやがてクレヨン、版画など技法を変え、手法を変えて継続していくが、一貫して時代に沿い、時代を先取りするデザイン感覚に溢れている。描かれる街や家具・調度品、女性らはそこにある、いるだけで安心し、そして次の表情を期待させる。同時に、決して媚びない。さすがに幼少の頃から絵の才に恵まれ、学生時代には新聞のレイアウトを担当したからであろう。また時代的に阪神間モダニズムを享受した世代であることも関係あるかもしれない。花森の描く表紙にはフォービズム、キュビスム、構成主義、シュルレアリスムなどヨーロッパ、そして日本に輸入された前衛絵画の要素が全てある。もちろんそれでいて具象からは離れない。デザインが絵画と違うのは、こういった絵画の歴史的変遷を取り入れつつ、それらのいいとこ取りだけしていても、理解できない前衛とは見なされないことだ。そしてそれを巧みに行き来するだけの技術と発想が花森にはあった。

随筆を寄せたメンバーも豪華で心憎い人選だ。小倉遊亀や猪熊弦一郎、津田青楓といった画家、工芸家の芹澤銈介、民俗学者の森口多里、山びこ学校の無着成恭、作家の犬養道子など。そして平塚らいてふと山川菊栄らの対談まである。しかし出色は、「とと姉ちゃん」でも描かれた家電を中心とする生活用品の綿密な商品テストと戦争中の暮らしの記録であろう。平和な暮らしは、行き過ぎた大量消費と公害を生み出す利益第一主義の製品生産に警鐘を鳴らす前者と、食べるものにも事欠き、精神主義によって全ての解決を目指す不合理主義の極致である後者を検証、徹底的に見つめ直すことによって担保される。そうであるためには消費者、生活者、権力を持たない者は愚かであってはならない。花森が描き続け、保とうとした「暮らし」には先人の知恵と同時代に生きる人の智慧が必要と訴えたのではなかったか。

戦後間もなくスカートを履き、長髪で登場した花森の姿はさぞかしぶっ飛んで見えたことだろう。しかし、イクメンという言葉が生まれる半世紀以上前に花森はジェンダー解体も見据えて奇行に励んだのかもしれない。(『花森安治 『暮らしの手帖』の絵と神戸』展は神戸ゆかりの美術館にて3月14日まで)

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女性の活躍にインドの思惑と、現実と  「ミッション・マンガル」

2021-01-09 | 映画

惑星探査機はやぶさ2が小惑星リュウグウの地表小片を取得したとかのニュースにはさっぱりその意義も分からないし、その過程も知らなかった。ましてやインドがアメリカやロシアなど宇宙開発先進国に先駆けて火星に到達していたことなど。

国策映画である。描かれるのは低予算で重要視されていなかった宇宙開発部門の技術者らの意気込みと工夫、チームワークで火星到達に成功する物語。インド映画といえばマサラムービーであるが、文脈のよく分からないダンスのシーンもあるけれどそうではない。もちろん技術者らの家族関係における葛藤や技術者同士のラブもあるがほんの付け足し。要諦は後発国インドで成し得た成功物語である。BRICsの一員として「次の」先進国として名をあげたインドは宇宙開発にも力を入れた。有名な数学教育のレベルの高いことはもちろん、知識層は普通に英語を話す。作品中も多分基本はヒンディー語なのだろうが、ときおり英語が混じり、ちゃんぽん語も聞こえる。

主人公の技術者らは貧困層が人口の80%以上を占めると言われるインドにおいてエリート、中間層より上であるのは明らかだ。開発を引っ張った女性の家は広く、子どもらも高等教育の生徒に見えるし、彼女自身車で通勤する。インドの通勤、交通機関の定番リキシャではない。チームの一員はいろいろ変わる彼との逢瀬を瀟洒なマンションで。他のメンバーの一人は夫が軍人で大怪我をしたので病院に駆けつけるが、夫は「看護師としてではなく君のしたい仕事をしてほしい」。出来過ぎ、女性の地位向上、民主主義を見せつけたいモディ政権の思惑があざとい。なにせ、映画のラストクレジットでモディの偉業とも紹介されるのであるから。映画ではチームの主要メンバーが女性で占められているが、実際、開発セクションは映画で描かれたような少人数ではなく大所帯で、女性比率が低くはなかったが、映画ほど高かったほどでもない。全てが実話をもとに膨らませたと言える。

とここまで本作の悪口ばかり書いたが、インド映画にヨーロッパ映画のような国家からの独立性や個人的合理主義を求めても野暮というものだろう。しかし、野暮であっても個人は大事にされなければならないし、科学者の独立性は担保されなければならないだろう。同時にインドが国家政策として自国の宇宙開発を映画で宣伝されることをおおいに利用して、その組織の独立性、情報開示性を示していることも伺えるし、映画側はそれを利用した。そういうメガネを通して見ると本作はまた違った様相を見せ、魅力も感じられる。モディ政権の大インド主義下でも描ける、制作できる映画はある。結果的にはインドの成功を喧伝するように見えても、そこにほのかに見える科学者、技術者の気概はある。そしてその気概は時の政治権力に利用されていていることを自覚していることを描くこともまた気概の一部になり得る。

反政府主義活動家として国内での著作発表が不自由とも伝えられるアルンダティ・ロイは、開発独裁、グローバリズム企業の横暴を鋭く告発してきた。宇宙開発という地上の戦争危機とはすぐには無縁と見える科学オタクの成功譚は、トランプの宇宙軍を引き合いに出すまでもなく、宇宙が覇権の現実的争訟の場であることを覆い隠すという希望の物語で終わってはならない。

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「残された」人を想像したい   「この世界に残されて」

2021-01-01 | 映画

近頃よく聞く言葉「レジリエンス」を描く作品である。しかし、もともと物理学の弾力性、復元性をさすこの語は、ホロコーストを生き延びた孤児の内面を追跡調査する過程で使用されたそうであるから、先祖返りしたと言えなくもない。その調査では孤児の中には、過去のトラウマから抜け出せない人と、トラウマを克服し、充実した生活を送っている人との双方が存在するとした。だからレジリエンスは復元力とともに、適応力、復活力と今日では訳されているのである。

ハンガリーが舞台とは珍しい。そして、ホロコーストではハンガリーのユダヤ人も56万人がナチス・ドイツの犠牲になったと言う。家族を奪われ自分一人だけが残されたクララも、クララが自分と同じ孤絶感を感じ、懐いていくアルドもそうであった。16歳のクララは両親と妹を喪っていたが、生きていると信じたい両親宛に手紙を書いている。一方、42歳のアルドは幸せだった時の家族写真を見ることができない。アルドが写真を見ることができない理由を知ったクララは、ますますアルドと過ごす時間を欲する。しかし、ソ連の支配下となりスターリニズムがひしひしと国をおおう時代の中、収容所帰りのアルドは監視され、クララとの関係も邪推される。再び強権政治の下、息苦しい時代が再来するのだった。

頭の回転が早く、饒舌なクララと静かで寡黙なアルド。対照的に見える二人がお互いに求めるものはもちろん異性間の性愛ではない。父を喪くしたクララと、娘二入を喪ったアルド。お互いにあったはずの穴を埋めるかのように、時間の共有を大事にする。家族を喪った理由に、自分を責めるサバイバーズギルトが伺える。しかし家族の命を奪ったのはナチス・ドイツで、その理由はユダヤ人であったからだけだ。理屈では分かっていても、自分を責めてしまい、その思いから逃れられない。クララもアルドもずっと喪失を生きるのだろうか。二人の内面を丁寧に描くことで、平々凡々に生きる現代の私たちに(戦時)トラウマへの想像力を喚起する。逝かされてしまった家族に対し「残された」人たち。「残される」とは生き残ったことであるのに、なぜか喜べず、今や社会主義へと国家が変転する中でも再び時代から「残される」。時代が、国家が、小さな個々人を翻弄する物語と言ってしまえば簡単だが、一人ひとりの物語こそ歴史を作ってきた。クララやアルドのトラウマに気づかず、見捨てる世界は、また同じ過ちを繰り返すだろう。

数年後スターリンの死を伝えるラジオ放送にクララの婚約者は歓喜する。これで自由が来ると。そこにはアルドの再婚相手もいる。二人ともレジリエンスに成功したのだろうか。しかし、その数年後ハンガリーの民衆は自由を求めて蜂起したが、瞬く間にソ連の戦車に踏み潰された(「ハンガリー動乱」、1956年)。ソ連崩壊によって民主化したはずのハンガリーでは、現在、オルバーン・ヴィクトルの強権政治にさらされている。オルバーンは反移民を唱え、独裁者のプーチンに接近し、国際協調主義のEU批判を繰り返す。21世紀のクララやアルドが生まれないために、そして、現在も何らかのトラウマを抱える人たちと伴走する社会でありたいと考えさせられる作品だ。

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