恥ずかしいことも含めて自分のことから書く。以前、仕事でミスをした。迷惑をかけてしまった直接の当事者の人には当然、謝罪しないといけないし、なぜそのようなミスを冒してしまったか職場への説明も要る。直属の上司から経緯を説明する「顛末書」を出すように言われて書いた。そこには当事者への謝罪は記した。しかし、その「顛末書」は、自分の上司の上司、すなわち私が属するセクションのトップへの謝罪の文言がないと突き返された。私は、当事者への謝罪はするが、トップへの謝罪はこの文書では不要と考えたので書きませんと答えた。上司は「このままで出すのですね」と何回も書き直させようとしたが、私が聞き入れないので困ったふうで「分かりました」。多分、データで渡していたので彼がトップへの謝罪を書き加えて出して、トップもそれも分かった上で受け取ったのだろう。私の処分は「口頭注意」だった。
『ルポ「日の丸・君が代」強制』は、東京と大阪で吹き荒れた「狂妄派」による現場教員に対するすさまじい強制の実態報告である。「狂妄派」とは、「野心あって識見なく」「「日の丸・君が代」の「強制」そのものが目的と化している人たちだ。「10・23通達」(2003年。石原慎太郎東京都知事)や「国旗・国歌条例」(2011年)「(大阪府)職員基本条例」(2012年。いずれも制定時は橋下徹大阪府知事)をタテに不服従の教員を処分しまくった、学校・教育の主人公は生徒ではなく、生徒も教員もなんの異議も唱えない、疑問を持たない人間を育てる教育の目的とは全く正反対の天皇制軍国主義教育の再来である。卒・入学式での「君が代」時に起立・斉唱を求める通達や条例は、「君が代」が素晴らしいからとか、そのことによってどのような教育効果があるからとか述べるものではない。ただ、起立して歌え、さもなければ命令違反で処分する、ということだけである。ここには、なぜそうすべきなのかや、その根本にはどういう理由があるのかという「なぜ?」を持つこと自体を否定している。反知性主義である。
10・23通達や大阪府の条例に反した行動をとった(単に「起立しなかった」)教員らへの処分はいじめ、精神的拷問は猖獗を極める。戒告回数を重ねたら免職までありえる。それも上述のとおり、「君が代」に反対したからではない(強制には反対と「座る」という極めて穏当な行為をしたに過ぎない。)、教育委員会が校長に出させた職務命令に反したからという、命令至上主義の結果である。ここでは職務命令が合憲か、合法か、いやそもそもそのような職務命令を教育の場で出すことがふさわしいのかという逡巡さえない。それはたとえ教員が起立・斉唱していても、その教員のクラスの生徒が一人でも起立・斉唱してなかったら教員が処分されるという実態において、教員そのものよりも生徒全員、教育現場そのものが上からの命令には一切の疑問を挟まずにあれという民主教育とは真っ向から反するファシズム体制そのものである。
人間誰しもミスはある。私のミスと処分は「君が代」被処分の教員らに比べたら、思想・信条に関わるものではないし、ほんの小さな出来事であった。「君が代」処分はミスでさえもない。しかし、私の場合は精神的にはキツかった。職場に鷹揚さ、余裕がなく、職員の萎縮を目的とするかのような職場にい続けることが本当に辛かった。大阪で処分された人たちには顔見知りの方もいる。今回、東京・大阪で行われた「日の丸・君が代」処分の実態が時系列的にもコンパクトに、本人らの声が聞けてよかったと思うが、自己の良心を賭けて教育を守ろうとした彼らへの支援は十分だったかとの悔悟もある。そして「君が代」処分は過去のことではなく、現在進行形で、もう起立する・しないの判断さえ思い浮かばない若い教員が多数の中で学校はもう自由を教える場ではなくなっている。痛い。(永尾俊彦著 2020 緑風出版)