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kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

「謎の天才画家ヒエロニムス・ボス」と「ジャコメッティ 最後の肖像」

2018-01-20 | 映画

400年余の時空を超えてネーデルラントの巨匠と現代彫刻の粋が見えたわけではない。巨匠と書いたが、ヒエロニムス・ボスは生年もはっきりしない(1450年頃?)不明の部分が多い北方ルネサンス期の画家である。現存する作品も工房作も含めて25点程度と言われ、同年代のレオナルド・ダ・ヴィンチに比しても謎の部分が多い。しかし、その少ない作品は現代の人々を魅了してやまない。その代表作がスペインはプラド美術館の至宝「快楽の園」である。「謎の天才画家 ヒエロニムス・ボス」は「快楽の園」をめぐって美術界のみならず各界の著名人がその謎解きに挑む野心作である。

ルターによる宗教改革の前夜、ボスは宗教的教訓満載の「快楽の園」を描いた。そこに描かれている人、動物、得体の知れぬ化け物の姿はいったい幾つあるのか。人はすべて裸体で、交合する者もいるが、歓喜の踊りに興じる集団もある。そして圧倒的な迫力で迫りくるのは主に右パネルに描かれた魔物たちに拷問を受ける憐れな者たち。石臼でひかれる者、ハープに串刺しされる者、魔物に体丸ごと食われる者。左パネルに描かれているのがキリストとアダム、イブであることから、その対称性は明らかだ。宗教的教訓と書いたが、ボスには「七つの大罪と四終」という作品もある。大罪を犯した人間は禁断のリンゴを口にしたアダムとイブを筆頭に楽園を追放され、まだ食べ物の奪い合いや、享楽にふけるが(中央パネル)、ついに魔物の餌食となる(右パネル)。「七つの大罪」ほど分かりやすくはないが、その分、細部をじっくり見る楽しみが広がる。そしていくら見尽くしても見尽くせないほどの多彩な表現と数々の寓意。プラドを訪れる決して敬虔なクリスチャンではない多くの観光客の誰もがじっと見入ってしまう魅力がそこにはある。

映画では数々の著名人 世界的指揮者、作家、画家、現代美術家、美術史家、美術館長 らが口々のその魅力を述べる。そしてこの作品の謎がすべては解明されていないことも。いや解明されないのを皆楽しんでいるかのようだ。ボスはなぜこれを描いたのか、どのように奇想の魔物を生み出したのか、一つひとつの意味は? 500年前の絵画が投げかける疑問の数々を前に悪戦苦闘している私たちをこそボスは楽しんでいるのかもしれない。

一方、名優ジェフリー・ラッシュが演じる「(アルベルト・)ジャコメッティ 最後の肖像」はドキュメンタリーではなく言わば実録もの。あの極端に細長い人物彫刻で知られるジャコメッティだが日本人哲学者矢内原伊作をはじめ、肖像画も多く描いている。しかし、取材で親しくなったアメリカ人作家ジェイムズ・ロードはモデルになってくれないかと誘われ「夕方までには書きあげる」との言葉を信じて、モデルを引き受けたのだが。

芸術家は、近代以降、その性癖が明らかになっている人はたいてい破天荒、気難し屋だったりする。そうジャコメッティの彫刻のあの細長さが、対象の要らない部分をそぎ落とすだけそぎ落としていけばああなるとの解説もうなずけ、作品はいいが、ジャコメッティと友人になるのはご免である。ましてやモデルなど、と思わせる。結局、ロードがモデルを務めたのは18日間。その間、愛人が訪ねてきて全然筆を握らない日や、完成間近と思えたのに塗りつぶしてしまったり。何度も帰国便を変更し、散財した上にニューヨークで待つ恋人には愛想をつかされる。そしてじっと席に座っていたら、思うように描けず苦悩し、叫喚する芸術家。朝からワインを浴び、時には売春屈へ。いらぬことに気を回さずさっさとえがいてくれたたらいいのに、と考えるのが凡人か。いや芸術家には作品が簡単にはできないだけの芸術家なりの理由がある。ジャコメッティは言う「(作品に)完成などない」と。

主演のジェフリー・ラッシュはもちろん脇を固める役もいい。弟ディエゴを演じるトニー・シャループ、愛人の娼婦がたびたび訪ねてくる家で微妙な表情を見せる妻アネットにはシルヴィー・テステュー。彼女はどこかで見たと思ったら、聾唖の両親のもとクラリネット奏者をめざした物語「ビヨンド・サイレンス」の主演少女だったのだ。

ディエゴと示し合わせて、また塗りつぶそうとするのを遮り、肖像画を完成させたジャコメッティとロード。これがジャコメッティ最後の肖像画となり、再び渡仏し、ジャコメッティと再会しようとしたがロードだったが、叶わず芸術家は逝ってしまった。

400年の差と、ドキュメンタリーと脚本の違いはあるが芸術家の真実に迫るのは知的好奇心を揺さぶられる。ボスの絵も、ジャコメッティの彫像ももっともっと見たくなった。

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歴史修正主義に抗い続けるために   否定と肯定

2018-01-07 | 映画

ナチスドイツ時代の非道や虐げられた人たちの悲しみを描く映画は枚挙にいとまないが、「シンドラーのリスト」を頂点とする実際的な暴力を描くものから、その時代を生きた人たち  それは被害者も加害者もそして、傍観者、被害者であり加害者である微妙な立ち位置、意識の人まで  多彩な人たちを描いてきた。そしてここにきて、戦後ナチスの罪を暴こうとした人たち、それに抗う人たち、長い沈黙の故を語る人たちの作品にシフトしてきた。

「ハンナ・アーレント」(2012年)や「顔のないヒトラーたち」(2014年)は言わばそれらナチスの犯罪に向き合わなかった戦後責任としての戦争責任追及映画と言える。「否定と肯定」はそのような作品群の中でも描かれた時代が1990年代とつい最近である。

「『ガス室』はなかった」。日本では雑誌『マルコポーロ』が廃刊にいたった事件では同誌の発売が1995年1月17日という阪神・淡路大震災と同日であったため、日本での騒ぎは海外のユダヤ人団体等からの指摘があってからとされる。しかし、その前年にこの「ホロコースト否定」訴訟がおこっていたことからすると、その当時ナチスの蛮行否定論者やアーヴィングのようなヒトラー崇敬者が一定論壇を沸かせていたということであるだろう。

ユダヤ人学者デボラ・リップシュタットの著作とその出版社を「名誉棄損」と訴えたのが後に言う「歴史修正主義者」のデイヴィッド・アーヴィング。しかも訴えた裁判所は、名誉棄損ではないとの立証責任を被告側に課する法制度のイギリス。そして、イギリスの法廷では事務=戦略策定弁護士(ソリシタ)と法廷弁護士(バリスタ)と明確に役割分担がなされている。学者の矜持と自身の良心を持って、アーヴィングと直接対決したいリップシュタットは弁護団の方針で法廷での直接証言も止められ、ホロコーストの生き残りである人たちの証言も採用しないという。弁護団と激しく衝突するリップシュタット。

アーヴィングの「嘘」は、彼が歴史的証言を意図的に誤訳、誤導したから。それはアーヴィング自身が反ユダヤ、差別主義者としての主義主張に裏打ちされたものである。学者としての客観的解読姿勢ではないからと、攻撃する弁護団の法廷戦略に最後は納得するリップシュタットであったが、裁判長は最後の最後になって「原告が信念をもって、(歴史を)そう解釈・著述している場合は表現の自由の範疇では?」。さて判決は。

現在、朝日新聞が「従軍慰安婦」の吉田証言についてその真実性を否定し、それを前提とした報道については撤回・謝罪したことから、日本の右派勢力が「朝日によって日本が貶められた」旨の裁判を起こしているが、もちろんすべて一審で敗訴している。これら裁判の詳細を承知していないが、おそらくは従軍慰安婦の強制性があったかなかったか?などという(ここではもちろん「強制性」の字義が問題となる。)中身の話に入ることなく、公器である新聞が誤報を認めて謝罪したからといって、すぐに原告らの名誉棄損といった損害賠償請求権が発生するかどうかという、原告適格などの訴訟要件の段階で蹴られたのであろうと思う。が、リップシュタットの裁判はかなり違っている。そこではホロコーストの真実性に対する学者の表現の自由をも問題になっているからである。日本では、大江健三郎と出版社を被告とした「百人切り裁判」が、その歴史的証言等も認定材料とされ、軍人の子孫である原告の名誉を棄損していないと大江側の完全勝訴で終わっている。しかし、通常リップシュタット裁判のような「中身」に入る裁判は考えにくく、現に、アメリカでは「(慰安婦)少女像」建立を名誉棄損と在米日本右派勢力(幸福の科学アメリカ支部が資金源ともいう)が起こした裁判はスラップ訴訟(企業等の資金・権力を持つ側が、その反対勢力を黙らせようと多額の損害賠償をふっかける裁判)であるとの認定を受けてさえいる。

本作の解説では憲法学者の木村草太が「「あ、これ知っている。」リップシュタットの裁判の詳細を調べたことがあるという意味ではない。もっと生々しく「いま、これを体験している」」と述べている。木村は「荒唐無稽な主張が、いつの間にか一般の人にも広がってゆく。日本でも、南京大虐殺など、日本軍の残虐行為を否認する主張についてよく見られる光景」とも言う。「従軍慰安婦」否定論者も「南京大虐殺」否定論者も、安倍政権応援団と重なる。そして、「教育勅語」を諳んじ、「安保法制とおってよかったね」(木村の指摘するように憲法学者の9割が「違憲」との立場)と幼稚園児に言わせる当時の森友学園名誉校長は安倍昭恵氏。真偽は不明だが、昭恵氏を通じて安倍首相から森友は現金を受け取ったと森友学園理事長は主張している。

日本でもリップシュタット裁判は必要か。そうでもしない限り、この国を覆う歴史修正主義を打ち壊せないものなのか。しつこくナチス映画=戦争責任を問い続ける欧米の映画に学ぶことはできるのだろうか。

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